小野リカ、登場
すっぴんのうえに小野さん自身の名誉のためにどのような服装で来たのかまでは言えないけど、とにかく着の身着のままを絵に描いたような小野さんは、急に呼ばれたのにもかかわらず嬉しそうだった。率直にいって意外だ。もし僕が同じ状況だったなら、分かりやすく不機嫌か、もしくはこの世の終わりかのような顔でやって来るかもしれない。いや、そもそも来ない可能性がないと言う自信はない。僕も小野さんのような素敵な人になれるように、努力だけはしよう。
僕が感嘆と上辺だけの反省をしていると、ちょうど監督の中の構想がまとまったみたいで、アシスタントらしき人たちがみんなに説明に走り出している。そんな中、僕となぜか僕のすぐ近くまで来ていた小野さんには、監督直々に説明に来てくれた。
大まかな話では、本来スタントの人が運転する予定でいたので、助手席にも小野さんの代わりにエキストラが座ることになっていた。なので、トラックの中での僕と小野さんの会話のシーンは別撮りで繋ぎ合わせるはずだったのだ。だけど、監督はそれをすべて却下する。より良い名案を思い浮かべたからなのは言うまでもない。
監督は、臨場感を持たせるためにも、僕が運転しながら助手席の小野さんとの芝居をするという決断を下した。ただ、それだけではない。健二さんを乗せたタクシーと僕のトラックのカーチェイスのシーンも、アップで撮ると僕ではないのが分かると思い、引きだけで撮る予定でいた。だけど、運転しているのも助手席にも演者自身がいるので、アップだろうが引きだろうがさらにどんな角度でも撮れるようになった。
ここまで理解すると、なにゆえ監督があんなに興奮していたのかが分かる。ただ、監督は僕の想像のさらに上を行っていた。監督はカメラを増やすのはもちろん、エキストラや車なんかを増やして、大げさな言い方をするなら壮大なシーンにするつもりらしい。急にそこまで変更して機材の準備やら人手やらが大丈夫なのか心配してしまったが、監督の一声で集められるようなので、改めてこの監督の凄さを実感した。それに、こういう状況にもかかわらず、目に入るすべてのスタッフがすごく嬉しそうに動き回っている気持ちが分かるような気がする。
最後に、僕と小野さんの変更されるであろうセリフについての説明があるのだろう。という予想は速攻で裏切られる。なんと、さも当たり前のように、トラックの中での兄役と妹役の小野さんは物語に即したセリフをアドリブでお願いとだけ言ったのだ。そして僕と小野さんの反応なんて見ずに、少なくとも僕には不安な気持ちを残しつつ監督は去ってしまった。
良く言えば、信用してくれているのだ。そう思うと、誇らしい感覚もある。だからって、本番までボーっとして過ごすなんて耐えられない。小野さんと打ち合わせをしたいのだ。いや、するのが当たり前だろう。なのに、撮影スタートまでは小野さんにそんな時間がないのだ。なにせ小野さんは今来たばかりで、すっぴんなのだから。メイクだけで撮影までの時間がなくなるだろう。打ち合わせは諦め、撮影本番はなんとでもなるだろうと開き直ったその時、小野さんの方から話しかけてくれた。
「ひろしさん、良かったら、すぐにアドリブのセリフのリハーサルのような事をしたいんですけど、大丈夫ですか?」
「僕は大丈夫というか、是非お願いしたかったんです。だけど、小野さんはメイクとかいろいろする事があるでしょ?」
「そうですけど。メイクしながらでもできるので、ひろしさんも一緒に私の車で準備しながらセリフ合わせをしましょうよ」
「それは助かるよ。アドリブとはいえ、リハーサルはしておきたいもんね。でも、メイクしているところを見られるのって恥ずかしくないの?」
「恥ずかしいに決まってるじゃないですか。すっぴんだって見られたくなかったんですからね。家でまったりしてたところに、急に呼ばれて何も考えずに来たから、化粧してないことなんて忘れてましたよ」
「ごめんね。せっかくの休みの日に、無理に呼んだばかりじゃなくて急かしちゃって」
「そんなそんな。ひろしさんが謝らないでください。というか私は別に嫌々来たわけでもないし、むしろ喜んで来たんですよ。まあ、ひろしさんにすっぴんを見られたくない気持ちと、ひろしさんになら見られてもいいかなという複雑な気持ちがありますけどね」
「小野さんはすっぴんも相変わらず素敵だから、僕もなんだか恥ずかしくなるよ」
「どうしてひろしさんが恥ずかしいんですか?」
「それはもう小野さんのような……おーい、塚谷君、じゃないや、美樹ー、メイクさんを小野さんの車に呼んでー」
「そんな大きな声を出さなくても、美樹ちゃんなら、ひろしさんのすぐ後ろにいますよ」
「ええー! おお、美樹、話は聞いていたね? すぐにメイクさんを連れてきて」
「はいはい、聞いてましたよ。すぐにメイクさんを連れてくるので、ひろしさんは小野さんとセリフ合わせを早く始めてくださいね」
「ああ、そうだ。小野さん、時間が惜しいので急ごう」
妹に説得され自首を決めた兄は、妹に付き添われて一度は警察署の近くまで来た。なのに、急に両親の墓参りに行きたくなり、熟考した結果、踵を返す。すると、その不審な動きのせいだろうか、偶然その辺りにいた刑事に見つかってしまう。その時点なら自首扱いだっただろうに、兄は逃げることを選んだ。ほとんど反射的に。
しかし、このまま走って逃げ切れるわけがない。それでも止まれない。そんな兄に天は味方した。たまたまエンジンをかけたままドライバーのいない大型トラックがあったのだ。今さらこれを盗むことは、兄は大した事ではないような気がした。
自首をして欲しかった妹だけど、兄がどういう思いで墓参りをしようとしているのが痛いほどに分かった。なので、さらに罪を重ねようとする兄を、どうしても止めようという気にはなれなかったようだ。ただ、兄をこのまま一人にはしたくなかった妹は、兄の静止を振り切り大型トラックの助手席に乗り込んだ。
つまらない言い争いをしている時間なんてない。兄は妹を乗せたままアクセルを踏み込み、無謀な逃走劇が幕を開ける。刑事がすぐにタクシーを捕まえ、追跡を始めていたのだ。
すっぴんも魅力あふれる小野さんが徐々に映画の中の人になっていくのを感じながら、僕はすぐ隣に座ってセリフ合わせを始めた。小野さんもプロなら僕もプロなので、自然とセリフが頭の中に湧いてきては、それが口から出てくる。本当の逃亡者と、それを複雑な気持ちで助ける妹が、まるで実在しているかのような空間が生まれていた。
そんな状況にもかかわらず、淡々とメイクをこなすプロがまた二人。はたから見れば、ものすごく異様な人たちに見えるのかもしれないが、ここにいる4人には当たり前の事だった。
まず、僕のメイクが終わる。しばらくして、小野さんのメイクと僕たちのセリフ合わせが、ほぼ同時に終わった。後は衣装に着替えて本番を待つのみだ。これで僕はこの撮影が上手くいくという結論に達していたので、何の不安もなく自信を持って撮影に臨めることとなった。




