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路線バス運転士俳優山田ひろしの常識  作者: バスバスキヨキヨ


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準備万端

 いつものように完璧な仕事をしたメイクさんが車から出ていくと、終わるのを待っていたのかタイミングが良かったのか、小野さんのマネージャーさんなのか衣装担当の人かよく分からないが衣装を持ってきていた。もちろん、あくまでも紳士の僕は、急いで車から出ようとする。しかし、思いもよらない言葉が僕の耳に入ってきて、僕は彫像のように固まってしまった。

「ひろしさんも一緒に私の車の中で着替えてもいいんですよ」

 小悪魔が笑っていた。一瞬、自分の耳を疑ったけど、小野さんの表情から察するに冗談に決まっている。それでも一応、一応、何も期待はしていないけど、僕も冗談で返すことにした。それが礼儀というものだ。

「えっ! 本当に? じゃあ、そうしようかな」と嬉しそうに答えるか答えないかで、僕の耳をものすごい力で引っ張る者のせいで完全に車外に出されてしまった。

「冗談を真に受けてどうするんですか。まったくう、恥ずかしい事しないでください」

「あれー、美樹ちゃん。別に冗談ってわけじゃなかったんだけど。まあいいか。それじゃひろしさん、また後でよろしくお願いしますね」

「はーい、小野さん。よろしくねー。いたいいたい。こら、美樹、放しなさい。耳が千切れるじゃないか」

「あらー、ごめんあそばせー。ひろしさんの衣装はあっちに用意してあるので、一人寂しくさっさと着替えてくださいねー」

 メイクをして衣装に着替えた僕は、トラックを運転して撮影がスタートする場所まで行くことになっていた。他にできる人がいないのだから仕方がないのだろう。監督や小野さんとは向こうで合流なので、なんだか寂しいと思っていると、トラックの助手席に当たり前のように塚谷が乗ってくる。てっきり撮影拠点で待機しているものだと思っていた僕は少しだけ驚いたが、塚谷の好きなようにさせてあげたいし邪魔でもないので、咎めるような気にはならない。むしろ、この楽しそうな塚谷を見ると落ち着けるので、結果として僕は喜んでいた。

「ひろしさん、緊張してます?」

 塚谷は真面目に心配してくれているようだ。僕ならずとも、この映画に携わっているみんなが、このシーンの重要性を感じているのだから、当然と言えば当然なのだけど。なのに塚谷からは悲壮感なんて一切伝わって来ないから、心強いのだ。

「うん。車を運転しながら芝居をするなんて初めてだし、それに一発勝負で失敗が許されないからね」

 素直に僕は今の気持ちを正直に話した。塚谷が具体的に何かできるわけではないだろうけど、話すだけでも落ち着くものだ。すると、塚谷が何かを閃いたのか、表情が激変した。

「このトラックの座席の後ろに人が入れるスペースがあるので、私がここに隠れていざとなったらフォローしてあげますね」

「本当? 助かるけど……」

 そういう手があったのか。それでいざ何ができるってわけではないだろうけど、こんな心強い援軍は、どこを探しても見つからないだろう。ただ、気持ちとは裏腹に、僕の顔があまり嬉しそうにしていなかったようだ。

「だめですか?」

「いや、まさか。僕は美樹に頼ってばっかりだなと……」

「そんなことないですよ。それに、私もひろしさんによく頼っているので、お互い様です。タレントとマネージャーは助け合って一つの仕事を成功に導くのが当たり前なんだから、私たちは理想のチームと言えますね。なんか今の私はめちゃくちゃかっこよくないですか? いいんですよ、たくさん褒めてくれても」

「ああー、そう言えば、美樹はドーナツを何個食べたの? 僕は3個しか食べなかったけど」

 素直に褒められないのは、僕が天邪鬼なのか、塚谷の照れ隠しに気づいているからなのか。

「今そんな事を思い出さなくてもいいじゃないですか。ちなみに覚えてません」

 覚えてないのは、きっと嘘だ。ただ、塚谷がドーナツをたくさん食べた事や嘘をついた事なんて、これっぽっちも気にしない。こうやって取り留めのない話をして緊張を和らげるのはよくあるけれど、不思議と塚谷と話すと他の誰とも比べものにならないくらいに落ち着ける。塚谷はお互い様だと言ってくれているが、頼っているのは僕ばっかりのような気がする。万が一、塚谷が僕の前から去ってしまったなら、僕はどうやって生きていくのだろう。

 あれ? この大事な芝居の前に、なんてネガティブな事を考えてしまったんだ。これではまともな芝居をできないじゃないか。とりあえず、塚谷に元気を分けてもらわないと。

 少なくとも、今は、こんな近くに塚谷がいてくれてるのだから。

「美樹、今日の芝居が最高に良かったら、晩ごはんを贅沢にしてもいいと思う?」

「うーん、どうでしょう?」

「ええー、だめなの?」

「まあ、私も一緒に食べられるなら、いいですよ。もちろん、支払いは、ひろしさんで」

「決まりだね。じゃあ、何を食べるかは、美樹が考えてくれる?」

「やったー。ドーナツを5個しか食べてないから、夕食はいっぱい食べるぞー」

 自分が食べたドーナツの数をうっかり口を滑らせて白状したことなんて気にしない塚谷の頭の中は、夕食の事だけなのか、それとも僕の芝居の事も片隅にあるのか計り知れない。一つだけ言えるのは、僕に元気をたくさん分けてくれた事だけでも、本日の仕事を十二分にしてくれたと保証できる。僕は、最高の芝居ができる確信しかなかった。

 これから始まる撮影がものすごく待ち遠しい気分になってきて、もう楽しみでしかないと思った時に、撮影のスタート地点に到着した。そこには、もう僕とトラックと塚谷を含めた必要な人や必要な物がすべて揃っていて、いつでも撮影ができる状態に見える。塚谷はそのままシートの後ろに隠れて、僕は一旦トラックから降りる。すると、非常に険しい顔をした監督がわざわざいの一番に迎えてくれ、さらに、そのすぐ後ろに小野さんがいた。もちろん最終打ち合わせをするためだ。

 まず、犯人役の僕がトラックを奪い、それを追うかのように妹役の小野さんがトラックの助手席に乗って二言三言会話のラリーをしてから出発だ。出発したら、荷台にカメラマンと監督を乗せた軽トラックが走る後ろをついていきながら、その場その場に合ったセリフをアドリブで言うと。刑事役の健二さんを乗せたタクシーが途中まではついてくるけど、僕がトラックを停めて降りる場所の少し手前でまかれてしまうことになっている。

 臨場感を出すためにトラックの中での会話はできるだけそのまま使うので、関係のない余計な事は話さないように言われて、せっかくトラックに無線があるのにそれを使って監督の指示なんかを伝達しない理由が分かった。ということは、シートの後ろに隠れている塚谷にも、事のあらましを伝えないといけない。なので、撮影がスタートするまでの短い時間に、最終確認をしたいと言ってトラックへと急いで戻った。

「美樹、監督から説明があったんだけど、トラックの中ではセリフ以外の余計な会話はしたらだめなんだって。だから、終わるまでは一言も声を出さないでね」

「え、あ、はい。それなら、私がここにいる意味がないのでは?」

「そんなことないよ。美樹が近くにいてくれるだけで、落ち着けるから」

「え? それって、もしかして私のこと……」

「うん、精神安定剤じゃなくて精神安定人間と言うのかな。まあ名前なんてどうでもいいけど、そういうわけだから」

「はいはい、分かりました。ここで死体のように横たわってます。なので、ひろしさんも、私の邪魔をしないでください。まったくもおー」

 小野さんと、僕と、そしてついでに美樹がそれぞれの持ち場について、すぐに撮影が始まった。

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