気が狂ったのかのように興奮する監督
「悪いな、ひろし。せっかく来てもらったのに、話がまとまってなくて」
「いえいえ大丈夫です。監督の言うことがもっともだし、安全にすごく気を使ってくれているのがよく分かったので、むしろ話が聞けて良かったですよ」
「そう言ってくれると助かるよ。それで、ものは相談だけど、やっぱり本気で運転してくれないか? 昨日は、あんまり上手に運転しなくていいと言ったけど、それだと、監督が納得しないと思うんだ」
「そうですよね。こうなったら、いつも通りの運転をするしかないのかな。するしかないか。分かりました。とりあえず、普通に運転します。それで何か怪しまれたら……いや、僕には、健二さんと美樹の二人の心強い味方がいましたね。うん、すべてが上手くいくに決まってます」
「ありがとう、ひろし。トラックとタクシーのカーチェイスと言えば大げさかもしれないけど、このシーンの出来がこの映画の出来を左右すると言ってもいいくらい大事なんだよ。かといって、日数とか予算とか場所的に、延期してまで撮れるかとか問題があるし。結果、脚本を相当いじらないといけなくなるだろうな。面白さが半減するのが目に見えているよ。だから、俺だけじゃなくて、監督やスタッフみんなのためにも、頼むな」
「任しといてください。ああ、それと、差し入れは……美味しいドーナツをお願いしますね」
「オッケエー! 世界一美味しいドーナツをすぐに買ってくるから、案内役として、美樹ちゃんを連れていってもいいか?」
「もちろんです。これ以上のない最高の人選ですからね。各々が任務を完璧に果たしてからの、一緒に食べるドーナツを楽しみにしてますね」
「おおー。今日のひろしは、いつも以上にかっこいいな」
「健二さんに言われると嬉しいですね。それでは行ってきます」
健二さんと塚谷に見送られて、僕は監督と一緒にトラックに乗り込んだ。もちろん僕が運転席だ。なのに、バスに乗る時のように一瞬助手席側に回ってしまい、監督にたしなめられる。おそらく監督は、今日の撮影をすっかり諦めたことだろう。僕にしてみたらささいな勘違いなので、運転には全く影響がない。それが証拠に、運転席に座ると、適度な緊張感と監督に納得してもらえる自信が、僕の中にしっかりと存在していた。
対照的なのは、監督だ。単純にこういう表情だとは断言できない複雑奇妙を遠慮なく表していた。一応役者なりに推測してみると、不安、呆れ、思考、屈辱、絶望なんかだろうか。希望がないのだけは確実だ。僕の運転を見れば、これらの負の感覚はすぐになくなるはず。だけど、少しでも早く楽な気持ちになってほしくなってきた。年下で指導を受ける側の僕がそう思うほどに、監督は小さく見えたから。
「監督、そんな顔をしなくても大丈夫ですよ。運転には自信があるので、すべてが予定通りに運べると約束できます。逆に、そんなに緊張されてると、それが伝わってきて失敗するかもしれないですよ。だから……」
「ひろし君のその自信は、どこから来るの? まさか……」
「えっ? いや、その……」
一瞬、気づかれたのかと思ったけど。
「まさか、自家用車がトラックなの?」
いくらなんでも考えすぎだった。そして監督は、やはり想像力が豊かだった。
「そ、そんなわけないじゃないですか。免許を取りに行った時に、暇だったから、何回も教習車で練習させてもらったんですよ。こういう機会があっても上手く対処できるために。僕たち使われる側は、何でもできた方がいいし、何が強みになるか分からないでしょ。まあ、口でああだこうだと言ってても埒が明かないので、出発しましょうか? コースの指示だけお願いしますね」
「はいよー。じゃあ左に出て、次の信号を右折してくれる?」
僕の説明というか言い訳に説得力があったのか、監督はいくらか笑顔を見せてくれた。ひきつっていたのは、僕に対しての宿題だろう。言葉だけでなく運転でも安心させてくれという。俄然やる気が出てきた。
「分かりました。シートベルトは大丈夫です、ね? では、発車します」
初めのうちは、クラッチの繋がるタイミングやアクセルの硬さブレーキの効き具合なんかを確かめながら慎重に運転したので、少しぎこちなかったかもしれない。だけど、すぐに感覚をつかみ慣れてくる。気がつけば、思い通りに操れる自信があった。もう大丈夫だ。
監督の指示もあって、初めての道を使い慣れている道かのように突き進む。僕は水を得た魚状態だと自画自賛する余裕まであった。30分ほど走っただろうか、いつしか撮影拠点に帰ってきている。やや物足りないと思ったが、そんな素振りは見せないように努力した。あくまでも真面目なテストであって、ドライブを楽しむためではなかったのだから。
トラックを降りてすぐに、健二さんがわざわざ迎えてくれた。僕は無意識に健二さんの手に目を向ける。ドーナツは? こんな時にドーナツが頭に浮かぶなんて、僕は不真面目なのだろうか。いや、それだけ精神的余裕があったということにしておこう。だけど、催促するわけにはいかない。健二さんが先に話しかけたのもあったし。
「どうだった、ひろし?」
やはり気が気でなかったのか、改めて見ると、健二さんの表情は少し硬かった。気持ちは分かる。分かるが、僕の言えることは限られていた。僕としてはやるべき事はできたので、予定通りに撮影するのに何の障害もないのだけれど。
「全然問題ないと思いますけど、監督に確認してみてください」
「そうかそうか。じゃあ監督、ひろしの運転でも、なんとか撮影はできるだろ?」
「健二さん、すみません……」
「えっ! だめなのか?」
「あっ、いえ、違います。そんなことないです。健二さんがあんなに真剣にひろし君を推薦してくれたのに、疑ってしまったことを先に謝りたくて」
「ということは、予定通りに行くんだな?」
「それなんですけど……。予定通りというのは無理ですね」
「な、なんでだよ? 何が不満なんだ? ひろしの運転に文句があるのか?」
「何を言ってるんですか。あんな上手に運転をするひろし君を、活かした撮影に切り替えるんです。すぐに脚本家と相談したいので、話は、また後で。この映画は当たりますよー。楽しくなってきたー。おーい、誰かー、小野リカのマネージャーに連絡してくれー。そして、すぐに来れるか聞いてくれー、じゃないや、来てくれるように説得してくれー。いや、後で私が土下座でもなんでもするから、絶対に連れてきてくれー! あっ、健二さんひろし君、撮影スタートは予定通りの時刻だけど、ひろし君は少しばかりセリフが増えるかもしれないから、そのつもりでいてね。あっ、それから、健二さんひろし君、ありがとうございます」
監督は一人でまくし立てると、ものすごい勢いで走り去ってしまった。もっと詳しく話して欲しい気持ちがないわけではない。だけど、仮に監督が目に前にいても、とてもじゃないが質問できなかっただろう。監督は、鬼気迫っているという表現がピッタリの状態だったのだから。
「トラックの運転中に何かしたのか、ひろし?」
「僕は別に何も。いつも通りに普通に運転していただけです。だけど、監督がちょっと……。最初はまるで世界中の絶望を一人で背負っているような顔をしていたのに、しばらくすると別人のように生き生きとしてきたかと思うと、終いには落ち着きなくぶつぶつと独り言を唱え始めたんです。コースを指示してもらうはずだったのに、気軽に話しかけられるのがはばかられるから、僕が適当な道を選択するしかなかったんです。でも、いつまでもダラダラと走ってられないから、意を決して話しかけようとしたら、『もう分かったから、撮影拠点に帰ろう』とだけ言って、またダンマリですよ」
「そうか。予想以上に上手くいったというか、いき過ぎたのかもしれないぞ。急遽、リカを呼ぶとか言ってたくらいだから、よっぽどいい考えが閃いたんだろうな。だけど、そんな簡単にリカが来るかどうかは怪しいけど」
「何をしてるかは分からないですけど、せっかくの休みの日に、いきなり言われても、ちょっと嫌かも。もしかしたら、他の仕事をしてる可能性だってゼロじゃないでしょうし。僕なら、嘘をついてでも断るかもしれないですね」と健二さんと話していると、
「小野リカさん、オッケー取れましたー。30分ほどで来てくれるそうです」と、誰かは分からないけど、よく通る声で、監督にというよりはみんなに知らせてくれた。健二さんと僕は、無言で顔を見合わせて笑うしかなかった。でも、心のどこかで、こうなるような気はしていたが。
いつしか、さっきの監督の興奮が徐々に僕に伝わってきている。初めて名前のある役をもらった時に似ているだろうか。心の底からわくわくしていた。いや、そわそわだろうか。監督の新しいプランを全く把握していないが、とにかく楽しみでしかない。
すると、小野リカさんが来るまでの30分が、まるで永遠かのように長く感じてきた。健二さんも僕と同じ気持ちになっているようだ。無駄な雑談で時間を潰そうにも、気の利いた事がお互いに何も浮かばない。もう各々が勝手に、監督の今の頭の中はどうなっているのか必死に考えるのみだった。考えたところで、答えはでないのだけれど。
そこに、ドーナツを咥えながら、何食わぬ顔で塚谷がやって来た。と思ったら、僕の口にドーナツを押し付ける。不思議と、監督も健二さんも小野リカさんも忘れて、ドーナツだけに集中している。僕が単純なのかドーナツがすごいのかは、永遠の謎ということにしておこう。
緊張感に包まれた現場のはずなのに、いつしか塚谷とのドーナツ争奪戦を楽しんでいる僕がいた。まだまだこれからというところで、時空に歪みが生じたかのように30分があっという間に過ぎ、いつしか小野リカさんが登場していた。




