バス運転士ではない方で、休日出勤を打診される
「ひろし、頼みがあるんだけど」
「なんですか?」
「休みのところ悪いんだけど、明日、ちょっとだけ手伝ってくれないか?」
「えっとおー……。そんなに遅くならないなら大丈夫ですけど。何をすればいいんですか?」
「犯人役のひろしが、大型トラックを奪って逃げるシーンがあるだろ? エンジンをかけたまま駐車されている大型トラックに運転手がいないと見るや」
「ありますね。その後で、刑事役の健二さんが、タクシーを捕まえて追いかけてくるんですよね。でも、トラックを奪うシーンと乗り捨ててから徒歩で逃げていくシーンは別撮りだから、明日は僕の出番はないんですよ。確か、明日は、大型トラックが街中を走るシーンを重点的に撮るのに、時間を割いているはずですよ。だから俳優陣はほとんど休みで、出番があるのは、健二さんくらいじゃないですか。ああ、俳優ではないけど、トラックを運転するスタントマンの人もですね。冗談かどうか分からないけど、僕に少し似ているスタントマンを見つけたとか言って、監督が喜んでいましたよ」
「その予定、だったんだよ。だけど、頼んでいたスタントマンが別の仕事でケガをしたみたいで。命に別条はないが、とてもじゃないけど運転は難しいらしい」
「ああ、なるほど。それで、明日は、急遽、別のシーンを撮りたいからですか? 制作の日数も限られているみたいだから、気持ちは分かりますよ」
「いやいや。そんな単純なものじゃないんだ。道路の使用許可とか、いろいろあって、大型トラックの逃走シーンは明日でないと厳しいらしい。脚本の書き換えも検討するレベルなんだ。それで、ひろしが代わりに運転してくれたら、予定通りに撮影が進むんだけどな。ついでに乗り降りのシーンも撮れれば、一石二鳥だろ。いや、それはリカがいないと成立しないか。それでも、なんとかトラックの運転だけでもしてくれないか?」
「そ、それは……。みんなが見ている前でトラックを運転して、何か感づかれたらと思うと、ちょっと……」
客観的に見ると、トラックをいくらか運転したからといって、そこから僕がバス運転士をしているなんて、ありえない想像だ。僕の方から、実はバス運転士なんですと言ったところで、誰も信じないだろう。それでも、快諾する気になれなかった。今の僕は守りに入りすぎているのだろうか。
「頼むよ、ひろし。あんまり上手に運転しなかったら、誰も何も怪しまないから。間違っても、バス運転士とひろしを関連付けないはずだ。泣きべそをかいていたスタッフにも約束したんだよ。俺のためじゃなくて、この映画に関係しているみんなのために協力してくれないか?」
それでも、僕は「はい」とは言えなかった。僕の性格なのだろうけど、どうしても心配の方が先に来てしまう。黙ってどう答えようか考えあぐねている僕を見かねたのか、塚谷が口を開く。
「ひろしさん、健二さんがこんなにお願いしてるんですよ。すき焼きだっていっぱい食べたでしょ。トラックの運転をしなさい。マネージャー命令です」
「分かりました。僕のマネージャーの美樹がすき焼きをいっぱい食べたのもあるので、明日トラックの運転をします」
塚谷の鶴の一声で、僕の中の霧が晴れたようだった。僕は塚谷には逆らえないのか、それとも、塚谷の後押しをどこかで期待していたのかもしれない。
「ひろし、ありがとう。そして、美樹ちゃん、ありがとう」
「いえいえ、そんなそんな。健二さんとすき焼きのためなら、これくらい朝飯前です。明日は、ひろしさんの首に縄を付けてでも連れていくので、安心して待っていてくださいね」
何か悔しかったので、塚谷が先に取っておいたすき焼きの肉を食べて溜飲を下げようとした。なのに、塚谷の箸ブロックにあって、さらに不満が溜まる。ただ、塚谷の余裕ありかつ嬉しそうな顔を見ると、明日の撮影の不安はなくなっていた。
翌朝、ロケでの撮影というのもあって、塚谷が事務所の車で迎えに来てくれた。僕は待ってましたとばかりにドアを開ける。目覚まし時計にささやかな傷を残してしまったのは、言うまでもなく誰にも内緒だ。それはそうと、今日もいつもながらのロケ日和のすごく良い天気だった。晴れ男だと言わざるを得ないが、奥ゆかしい僕は、いちいちそんな事を自慢しない。だけど、世の中の誰も彼もが奥ゆかしいわけではない。
「ひろしさん、おはようございます。私がいると晴れてばかりですね。やっぱり私は晴れ女なんだから、感謝してくださいね」
認めるのは悔しいけど、塚谷の言う事も間違ってないのかもしれない。でも、口では否定も肯定もしないでおこう。話が長くなりそうだから、心の奥底で考えるに留めておくだけだ。なので、とりあえず挨拶だけを返す。
「おはよう、塚谷君」
明らかに塚谷の顔が曇った。なぜだろう? 『晴れ女』をはっきりと言葉で肯定して欲しかったのだろうか。いやいや、とてもじゃないが、それどころではないような感じだ。目を合わせてもくれない。
「どうしたの、塚谷君?」
それでも、塚谷は身動き一つしない。映画とかだったら、僕の背後に恐ろしい化け物が大口を開けているのだろう。だけど、今は撮影中ではない。これは何か深刻な事態に陥ったに違いないと、僕は必死に考えて考えて考えた。思い出した。
「おはよう、美樹」
「おはようございます。それでは現場に行きましょう」
塚谷のこの会心の笑顔は、誰にも真似できないだろう。どんな名優でさえも。こんな元気をくれる笑顔を。
撮影現場に着くと、すでに健二さんは来ていた。監督や大勢のスタッフと何か真剣に話している。塚谷と僕の二人とは対象的に、雰囲気が暗く感じる。気のせいだろうか。それでも軽い足取りで挨拶をするために近づいていくと、僕に気づいた健二さんが、嬉しさと悲しさが入り混じった複雑な表情で先に話しかけてきた。
「おおー、ひろしー、来てくれたな。たった今、監督にひろしの事を説明してたところだよ」
「おはようございますって、何かこの辺りの空気がどんよりしてないですか?」
「そうなんだよ。俺が今日のトラックのドライバーはひろしでいくと言ったら、なぜか監督が良い顔しないんだ。俺が保証するって言ってるのに」
すると、健二さんよりは年下だけど、まあまあ威厳のある監督が話しに加わってきた。僕と健二さんの会話が聞こえたのもあって、健二さんにではなく当事者の僕に聞かせたい気持ちが強いのだろう。
「だって健二さん、今日トラックを走らせるのは、広い直線道路ってわけにはいかないんですよ。犯人は逃げるために狭くて入り組んだ道路をそれなりのスピードを出しながら走らせないと絵にならないから、スタント会社のドライバーの中でも選りすぐりの人を発注したくらいなんです。顔の広い健二さんが任しとけって言ったみたいで、僕はてっきり同レベルのドライバーの知り合いでもいるのかと思って。それで予定通りに今日の撮影を決行することにしたのに、まさかひろし君とは。あっ、別にひろし君をバカにしてるとかそんなのではないからね」
僕をフォローしてすぐに監督は続ける。監督は気配りの人なのだ。
「今回使う道路は、ひろし君でも一般のドライバーでも、乗用車でなら問題なく通れます。だけど、トラックでは本当にギリギリなんですよ。道路の使用許可を今日しか取ってなかったから、ついつい健二さんの提案に甘えてしまったけど、ひろし君が運転すると知ってたら中止してましたよ。万が一、事故はもちろんトラックを家の壁や電柱にぶつけていろいろ壊してしまったら、私は一生後悔すると思うので簡単にゴーサインを出せないです。それで、相談なんですけど、幸いトラックを業者の人が早めに持ってきてくれたので、練習がてら本番で通るコースよりはずっと走りやすい道を、少しひろし君に運転してもらいます。私自身が助手席に乗って、ひろし君の運転の様子を見たうえで、最終的に判断させてください。それでいいですか?」
監督は僕にではなく健二さんに許可を得ようとしていたので、健二さんが自信満々に承諾した。たった一回僕が運転するバスに乗った健二さんに、こんなにも信頼されているだなんて、ただただ嬉しい。半信半疑というかほとんど期待していない監督の信頼も勝ち取らないといけなくなったのは、小さくない誤算かもしれないが。しかし、ここまで来たのだから、やるしかない。すぐに僕と健二さんは監督から離れ、ちょっとした作戦会議に入った。




