突然の小野リカ
ものすごく楽しそうにしている塚谷に、これ以上何かを言う気にはなれなかった。というより思考が働いていないようだ。楽しすぎて言葉が出てこない。いつしか、まるで雲の上を気持ちよく歩いているような錯覚に陥っている。塚谷の手から伝わってくる楽しさと、お好み焼きへの期待が、相乗効果を生み出して、僕を楽園に案内してくれているのだろう。
僕と塚谷は、お好み焼き屋という楽園で幸せを噛み締めた。何の話をしたかも定かではないが、すごく幸せな気分で撮影所に戻ってきてしまった。なんだか残念な感じに聞こえるかもしれない。それはそうだ。なぜなら、これから撮影するシーンは、幸せな気分なんて持ち込んではいけないのだ。悲壮感あふれる世界一不幸でどん底に叩き落されたかのような表情で演じないといけない。
前置きはこれくらいでいいだろう。僕は一端の素人役者ではない。幸せな気分そのままに撮影に臨んでも、芝居には影響しない。これ以上でもなくこれ以下でもない正しく玄人芝居というのを、まざまざと見せつけられたと自画自賛する。身内贔屓とはいえ、塚谷も褒めてくれたし。一応、一切のダメ出しもなかったので、そういうことにしておくのが精神的に良いのだ。
というわけで、本日の撮影は予定通りに順調に終わりを告げた。
「ひろし、お疲れさん。ここへは、事務所の車で来たのか?」
「お疲れさまです。今日は自分の車で来ましたよ」
「そっか。じゃあ俺も乗せていってくれよ。店は決めてあるから、俺が案内するよ」
「分かりました。もうお腹ペコペコだから期待してますよ」
「ええー。健二さん、これからひろしさんと一緒にごはんを食べに行くんですか?」
近くにいて、聞こえたのだろう。共演者の小野リカさんが突然話に入ってきた。正直、僕は少し驚かされた。僕の中では、小野リカさんは撮影が終わり次第、社交辞令の挨拶を交わしてすぐに帰るイメージができている。その上、僕の下の名前を当たり前に言ってくれたのだから。驚きに、嬉しさが加わっていたのは言うまでもない。
健二さんも驚いたのだろう。健二さんにしては下手な芝居で、パッとしない言い訳を発するのがやっとだった。
「ま、まあな。たまには、役者論でも話したいと思ってさ」
小野リカさんは、ぎこちない健二さんが気にならなかったのか、あえて気にしなかったのか、それとも聞いていなかったのだろう。そんな事よりも何か言いたくて仕方がないようだった。
「そうなんですか。あ、あのー……」
小野リカさんは、なんだか顔を赤らめていた。健二さんは気にしていないようだけど。紳士だから、あえて女性の表情の変化には気づかない素振りなのだろうか。
「どうした、リカ?」
「私も一緒に行きたいです」
すると、今度は、健二さんの顔がみるみるうちに赤くなってきた。健二さんがここまで動揺したのを初めて見るかもしれない。よほど予想外の言葉だったようだ。
「ええー! 今まで何回誘っても、一度も来てくれなかったのに。大丈夫か? どこか悪いのか? 熱でもあるんだろ」
「何言ってるんですか。どこも悪くないですよ。もし具合が悪かったなら、芝居に影響してましたよ」
「そ、そうだな。でも、ちょっと顔が赤いぞ」
あれ? 健二さんは紳士なはずなのに。人間、動揺すれば紳士を維持するのも難しいということなのだろう。
「もうー、やめてください。それよりも、私も一緒に行ってもいいですよね?」
「うーん……。今日は、ひろしとちょっと大事な話があるから、また今度でいいだろ?」
健二さんは動揺していても気が大きくなっていなくて心底安心した。
「大事な話? 役者論とか言ってなかったですか? 私のことを役者と認めてくれてないんですね」
小野さんは、聞き流していたと思われていた健二さんの言い訳を、一応聞いていたようだ。
「いやいや、そういうわけじゃないんだけど。まいったなー」
「いい加減にしてください。今日は、健二さんとひろしさんと私の三人だけで、ごはんを食べに行くって決めてあったんです。わがままを言って、健二さんを困らせないでください」と、ここで塚谷が入ってきた。
この場でこんな風に強気に言えるのは、塚谷くらいだろう。本当に頼もしい。やはり敏腕マネージャーだ。健二さんのマネージャーですら何も言えなかったというのに。
塚谷は事情を知っているのも大きかったのだろう。だからこそ、小野さんが来るのを阻止したいのだ。それでも、こうやって悪役を買って出てくれるなんて、嬉しくて涙が出そうだ。
「ごめんなさい。えっとお……あなたは、あなたは誰なの?」
「申し遅れました。山田ひろしのマネージャーの塚谷美樹です」
「あっ、そう言えば。たまにひろしさんの周りをちょろちょろしてるのを見るような。ねえ、あなたからも私を連れていくようにお願いしてもらえないかなあ?」
「だめです」
「ねえ、お願い。かわいい美樹ちゃん」
「そんなおだてに乗るような私ではないです。でも、一応相談してあげますけど……って、違う違う。危うく術中にはまるところでした。ひろしさん、後はお願いします。小野さんは、なんというか魅力が強すぎます」
塚谷を簡単に手懐ける小野さんは只者ではないのかもしれない。そして、塚谷は悪役をものの数秒で卒業してしまった。
「えっ! 健二さんと塚谷君が言ってだめなのに、僕なんかに耳を貸してくれるのかなあ。まあ、やるだけはやってみるけど……」
「頑張ってください。自分を信じれば可能ですよ」
一切目を合わさないで、塚谷は僕を励ましてきた。塚谷が見本を見せてはくれないようだ。根性だけで何でもできるわけではないと理解しているのだろう。これで、今日はただの食事会になったのが確定したようなものだ。健二さんが僕の秘密を誰にも話さないのは保証されているのだから、今さら、どちらでもいいし。僕がバス運転士になるに至った経緯は、またの機会でいいだろう。
とりあえず、任された手前、型通りの説得を試みて言い訳だけは作っておくか。
「あのー、小野さん? ごめんね。実は、今日はどうしても僕が健二さんに、大事な話というか個人的な相談があって。だから、また今度にしてほしいんだけど。だめかなあ?」
「うーん……。ひろしさんがそこまで言うなら、今日は大人しく帰ります」
え! 何か用事でも思い出したのかもしれないが、小野さんが涙目をしながらも僕の言う事をあっさり聞いてくれたので、少し意外だった。と同時に、自分が悪い事をしているような気になってきた。立ち去る小野さんの後ろ姿は、すごく寂しげだ。危うく呼び止めそうになるところを、ぐっと堪える。
健二さんに、次の機会に小野さんを誘ってあげて欲しいとお願いして、なんとか自分を正当化できたようだ。もちろん健二さんは快く承諾してくれた。何か怪訝な表情はしていたが。
「健二さん、何か気がかりな事でもあるんですか?」
「あ、うん、ちょっと。いや、いい。絶対に誘うから安心してくれ。ひろしも今日だけじゃなくて、時間がある時は、たまにでいいから一緒にごはんに行ってくれるか?」
「そうですねって、何か断りづらくなっちゃったかな」
「ははっ。断るつもりだったんじゃないか。まあいいさ。それが、ひろしらしいし。ただ、次にリカをごはんに誘った時は、ひろしも来てくれよな」
「僕が行って邪魔にならないなら、今日の罪滅ぼしにもなるので、喜んで行かせてもらいます」
「よかった。俺の勘が当たっているなら、ひろしは邪魔になんてならないさ」
「どういうことですか?」
「さあね。それよりも、今日は大事な話があるんだから、早く出発しよう」




