無事帰京
「いやー、気づく人は気づくもんなんだねえ」
「そうですね。バス運転士の制服だったら、間違いなく気づかれないですけどね。やっぱり私服だとこういうこともありますよ。世にも稀なひろしさんのファンだというのが、一番の原因でしょうけどね」
「何かちょっと引っかかる言葉があったような。気のせいかな?」
「はい、気のせいです。そんな事よりも、私のことは彼女に見えるんですね。もし、今、週刊誌とかに写真を撮られたら困りますね?」
「そうかなあ。別にやましい事があるわけでもないし、塚谷君はマネージャーなんだから自然だよ。僕は何も困らないから、面白おかしく書きたいなら書いてもいいんじゃない。そんな事よりも、僕がファンの人と話している間に、ドーナツがなくなってるんだけど」
「ああー、ほんとだー。じゃあ、そろそろ出発しましょうか?」
悔しいが何も言えない。次に食べるドーナツは、きっと今日の分も美味しさが足されているはずなので、次回までの楽しみとしておこう。塚谷は全然悪くない。なので、塚谷に何らかの仕返しをしようなんて……考えていない。それに、もともと塚谷のために買っておいたのだから、当たり前の事が当たり前に起こっただけだ。
僕が自己催眠を終えて落ち着いたころには、塚谷の姿は車の中に消えていた。置いていかれる心配は全くないが、僕は急ぐ。しかし車が動き出した。万事休すと思ったら、僕の方に車が来る。それはそうだ。焦ったなんて微塵も見せずに、僕は何事もなく車に乗り込んだ。
僕と何もかも見通しの塚谷は、十分な休息により元気いっぱいで再び東京に向かった。体を休めたというよりは精神的にリラックスできたのが大きい。僕の計画では、先に塚谷のマンションに寄って塚谷を降ろし、そこからは自分で運転して帰るつもりだった。それくらいするのは当たり前だ。だけど、塚谷はまっすぐ僕の家に向かい、自宅までは運動がてら歩いて帰ると言い出した。
「そんな遠慮するなんて、塚谷君らしくないよ」
「いやいやいや。まず、私は、よく遠慮する慎み深い人間です。そして、まあ、ちょっとだけ食べすぎたのかもしれないので、食後の運動が必要かなと思って。本当はジョギングで帰りたいところですけど、このおしゃれな服装ではウォーキングしかできないですね。それでも、1時間もかからないと思いますよ」
「でも、もう深夜で人通りもまばら、というかほとんどいないし」
「もしかしたら、私のことを心配してくれてるんですか?」
「当たり前でしょ」
「嬉しい。ひろしさん、私のこと……」
「塚谷君のような優秀なマネージャーは、そうそういないんだから」
「あ、ありがとうございます。それじゃ、先に私のマンションに寄りますね。ひろしさんも、少しくらいだからって気を抜かずに、安全運転で自宅まで帰ってくださいよ。マネージャー命令ですからね」
少し元気がなくなったような気がしたけど、まさか食べすぎて眠くなってきたのだろうか。早めに運転を代わるのも選択に入れておこう。その前に一応確認だ。
「塚谷君、眠くない?」
「え? 全然大丈夫ですけど。もし眠くて運転に少しでも不安があるなら、私はしないですよ。私は優秀なマネージャーなんだから、担当であるひろしさんをケガさせるような事をするわけないじゃないですか」
「そうだよね。何か塚谷君の元気が少しなくなったような気がしたから」
「そういう変化が分かるなら、他にも気づいてください」
「え? 他にもって?」
「なんでもないです。じゃあ、出発します」
その後は、仕事の事や特に健二さんには触れずに、世間話をしながら淡々と時間が過ぎていった。今朝というか昨日の朝に健二さんに見つかった時の動揺は完全に無くなり、いつも通りの僕に戻れたのは、塚谷の顔を見て安心できたのもある。塚谷と一緒にいると落ち着くというか心地いい。こんなに優秀なマネージャーに出会えた事が、僕の人生の一番の幸せなのかもしれない。
心の中で塚谷に感謝を捧げたちょうどその時、塚谷のマンションに着いてしまった。ここでダラダラと話すと、なぜだか帰りづらくなるので、お別れの挨拶はあっさりがいい。
「今日は本当にありがとう。明日というか、もう今日だね、9時頃に迎えに来るから、着いたら電話するよ。おやすみ」
「はーい、待ってまーす。おやすみなさい」
気持ち的には楽になったとはいえ、体的には相当疲れていたのだろう。ドーナツをほとんど食べずコーヒーを2、3杯飲んだにもかかわらず、僕は家に着いてシャワーを浴びてすぐに眠れた。いや、眠ってしまった。目覚まし時計をセットするのだけは忘れない。習性なのか仕事への責任感かは分からないけれども。ちなみに、この段階では、目覚まし時計との関係は非常に良好だ。
寝た感じがほとんどないままに、あくる日がやって来た。朝から、目覚まし時計と小競り合いを超えて、感覚的には戦争をしてしまう。いつになったら、僕は目覚まし時計と仲良くなれるのだろうか。目覚まし時計は、ただ己の仕事を純粋に真っ直ぐしているだけなのに。悪いのは僕だということは分かっている、と言っても何の説得力もないのだろう。
毎朝の起きた時の反省はそこそこにして、僕は身支度を急いだ。それでも、朝ごはんの時間は確保できない。撮影所に行ってから食べようと、すぐに切り替え、愛車に乗って塚谷のマンションに向かう。約束していた時間の少し前に着き、電話をかけた。やはり1コールもしないうちに、塚谷は出た。
「ひろしさん、すぐ降りていきます」とだけ言って切れてしまった。僕は挨拶どころか何も話さなかったが、想定内だ。そして想定外が起こる。塚谷の部屋が何階かは知らないが、飛び降りたのかと思えるくらいに、ほとんど待つこともなく、塚谷は車の前に現れたのだ。ケガはしていないようだし、普通に考えたらマンションのロビーで待っていたのだろう。しかし、塚谷なら、普通ではない方法を使った可能性がゼロではない。
「おはようございまーす。いやー、迎えにきてもらえるって、いいもんですねえ。私が運転しましょうか?」
塚谷は会心の笑顔だ。この笑顔を見せられると、僕の心も同じくらいの笑顔になる。何がというわけではなく、僕は楽しくなってきた。
「大丈夫。僕がするよ。少しは運転が上手になったから、安心して乗っててね。それに、塚谷君にはいつもお世話になったり迷惑かけてばっかりなんだから、たまにはこれくらいはしないと、僕はだめになってしまうよ」
「ひろしさんがだめになるわけないですよ。でも、お言葉に甘えて、助手席に座りますね。なんか今日は良い日になりそうですよ」




