ドーナツ休憩
その後、僕も塚谷もしばらく無言になったが、いつの間にか奇跡的に、ドーナツの存在が少なくとも僕の頭からは消えていた。何気に、ずっと着いていたラジオのボリュームを上げる。万が一にもないとは思ったけど、僕が大型2種の免許を取ってバス運転士として働いている事が話題になっていないか気にして聴いてしまった。うぬぼれ過ぎのうえに健二さんをどこかで疑っているのかと自己嫌悪にもなるが、何の確信もない今の状態では仕方がないと自己弁護を許してもらいたい。
もし世間のみんながこの事を知ったなら、マスコミや好奇心旺盛な人なんかが興味本位で、僕がお世話になっているバス会社やバス乗り場に殺到するだろう。そうなると、普段利用されているお客さんとかに迷惑をかけるし、会社や同僚だって業務を妨げられるから、僕は少なくとも今のバス会社には、いられなくなってしまう。
そんな事を考えながらラジオを聴いているから、バスという言葉以外の内容が入ってこない。そして、幸いと言っていいけど、塚谷がサービスエリアの駐車場に車を停めてエンジンを切るまでのラジオが、何を言っていたかは記憶に残らなかった。
「コーヒーでも買ってくるけど、塚谷君はミルクティーでいい?」
「私のミルクティーはまだ残ってるから大丈夫ですよ」
「あっ、ごめん。こっそり塚谷君のミルクティーも飲んじゃった。考え事をしてたら、コーヒーだけじゃ足りなくて、ついつい」
「そうなんですか。じゃあ、私も一緒に行きます。ほら、ひろしさんは変装してくださいね。それにしても、伊達メガネ一つで気づかれないなんて、ひろしさんはまだまだなのか全くオーラがないのか……」
「何を言ってるんだい、塚谷君? 僕のような超大物俳優は、オーラを出したり消したりなんて自由自在なんだよ。それに、まさかこんな所にいるわけがないという固定観念が、僕にとっての一番の変装になってるんだから。もしテレビ局の周りを伊達メガネ一つの変装で歩いていたら、隠しきれないオーラに少なからず気づく人がいて、もう大変大変。辺りはパニックになって、警察が出動する事態になるだろうね」
「はいはい、そういう事にしておいてあげましょう。じゃあ、ここなら誰にも気づかれないので、体をほぐしがてら少し散歩に付き合ってくれますよね?」
「もちろん。エコノミークラス症候群だったかな? そこまではいかなくても、ずっと同じ姿勢だったら変に疲れるよね。せっかくだから、向こうにあるベンチに行って、残りのドーナツを食べようよ」
「外でいいんですか? 中にフードコートがありますよ」
「何を言ってるんだい、塚谷君? あんな明るくて人が大勢いそうな所に行って万が一気づかれたら……いや、間違いなく誰かが気づくんだから、このサービスエリアは大騒ぎになって……」
「はいはい。向こうの人もほとんどいなくて薄暗い所で、ドーナツを食べましょうね」
僕の話を途中で遮り嫌らしく笑う塚谷に、僕はそれ以上何も言えなかった。そもそも、こんな時間に都心に近いサービスエリアとはいえ、そんな大勢の人がいるわけがないのに。今の僕はナーバスになり過ぎているのだろうか。さっきの冗談があったから、塚谷は今のも冗談にとってくれているからいいけど、本音も混ざっているのか自分でも分からなかった。
作っている工程をモニターで見ることのできる挽きたてコーヒーの自動販売機でコーヒーを買って、それを見ているだけでも楽しいので、この自動販売機を開発した人が大好きだ。塚谷は相変わらずミルクティーを買って、相変わらず僕よりも楽しそうに自動販売機からミルクティーを取り出した。それから、人気のない外のテーブルとベンチがセットになっている所に腰を落ち着けた。4人で囲むくらいがちょうどいいサイズだけど、すいているので2人で利用しても問題ないだろう。
さあドーナツを食べるぞとしたところで、探るような足取りで一人の女性がゆっくりと僕たちの方へやって来た。人気がないといっても、全くいないというわけでもないので、大して気にはしない。だけど、僕がそうでも、向こうは気にしていた。
「あのー、もしかしたら、山田ひろしさんじゃないですか?」
伊達メガネだけの変装とはいえ、こんな郊外にいて名前を呼ばれたのは初めて……いや、健二さんに続いて二度目だ。ここで変に否定すると、良からぬ疑念を抱かせかねない。かといって、普通に肯定していいものなのだろうか。どう返事をしていいのか迷って助けを求めるように塚谷をみると、自信たっぷりに頷いてくれた。塚谷の堂々とした態度に勇気づけられた僕からは、動揺なんて簡単にどこかへ飛び去る。そして、その見知らぬ女性と対等に、俳優山田ひろしとして会話できる状態だった。
「そうですけど、あなたは?」
「やっぱり。あっ、ごめんなさい。ただのファンです。あっ、いえ、ものすごくファンです」
嬉しさと安堵がなかったわけではない。ただ、慌ててしまう。この女性の声が急に大きくなったからだ。焦った僕は口に指を当て、無計画にそそくさと座るように女性を促した。
「しーっ。あんまり目立ちたくないので、とりあえず座ってください」
「えっ! いいんですか?」と言って、そのファンの女性は塚谷の方を意味ありげに見た。
「もちろん。その方が助かります」
塚谷は何も言わないので、僕の判断は正しかったのだろう。ほとんど勢いだったけれども。
「でも、彼女さんとデート中じゃないんですか?」
「え? 彼女? 違います違います。ただのマネージャーなので、変に誤解しないでください」
塚谷は楽しそうにドーナツを頬張っているだけなので、僕が説明してファンの女性に座ってもらった。まず、聞かれてもいないのに、どうしてこんな時間にこんな所にいるのか、嘘の理由をもっともらしくしてしまった。ファンの女性は疑いもせず、あっさり信用してくれたようだ。というよりも、僕がここにいた事に興味がなかった。彼女は他に話したい事があったのだ。
今さら謙遜しても意味がないかもしれないが、残念ながら僕のファンは少ない。そんな数少ないファンの人に出会えて、僕の疲れはほぼ取れたようだ。そういう感謝もあって、僕は喜んで彼女の話を聞くつもりだった。彼女は、僕の出番が多かった作品はもちろん、大して活躍していない作品までも知ってくれていた。さらに、それをすべて褒めてくれるのだ。あそこのあの表情が良かったとか、あのセリフ回しが心に突き刺さったとかと。ダメ出しは一切なしで。
全然お世辞に聞こえなかったのは、僕が単純……じゃなくて、彼女が心から言っているのを感じられたのだ。無言でドーナツを頬張っている塚谷も嬉しそうにしているし、素直に喜んでいいはずだ。
こんな風に褒められたのは、初めてかもしれない。このまま夜明けまで、もっとたくさん褒めて欲しくなってしまった。だけど、寝不足で撮影に臨むなんてありえない、という責任感があっさり凌駕してくれる。ファンのこの女性だって、これからどこかに行くために高速道路のサービスエリアにいるのだ。お互いのために、ほどほどのところで泣く泣くお別れすることにした。最後に、今日ここで僕に会ったことは口外しないように、やんわりとお願いはしておいたが。




