第11話「魚が食いたい」
朝の空気は、いつも少し甘い。
村の煙突から炊事の煙が細く上がり、麦畑の向こうから風が吹いてくる。上津一はシルの家を出て、特に目的もなく村の中をぶらついた。
昨夜のティランとの話が、まだ頭の中で反響していた。
魔法適性の三段階。十一歳の検査。貴族学校への強制入学。そして魔法具に使われる魔獣の核——Sランクの核を持つ存在は命を狙われることがある、というティランの言葉。
まあ、今の俺の体でそう簡単にやられるとは思えんけどな。
そう思いながら、上津一は自分が金色の霊獣の体に入っていることを改めて確認した。五百年生きたサーラの力がある。超音波も、ヒールも、テレパシーも。人間が束になってかかってきても、そう簡単には——
あかん、油断は禁物や。
トレーダー時代の習慣が顔を出した。相場で「大丈夫やろ」と思った瞬間が一番危ない。リスクを把握して、対策を考えて、それから動く。
今日は村長の家で会議があるはずだ。議題は鉄についての説明と、これからの村の発展についてだろう。上津一は昨日言うべきことは全て言った。製法の秘匿、急激な変化への準備、木炭の売り物としての可能性——あとは村の人間が自分たちで決めることだ。
取り合えず窯を見に行こか。
鍛冶屋の裏手に向かうと、作業場から規則的な音が聞こえてきた。
少し離れた場所から覗くと、バリー、ゾジル、トリの三人が黙々と動いていた。ゾジルが粘土の具合を確認し、バリーが石を積み、トリが材料を運ぶ。三人の動きに無駄がない。呼吸が合っている。
挨拶は要らんな。
上津一はそのまま踵を返した。あの三人の集中を邪魔するのは野暮というものだ。
歩きながら、上津一は気づいた。
腹が減っている——というか、食いたいものがある。
魚や。
魚が食いたい。前に川で鳥として釣った魚の、あの脂の甘みが急に思い出された。バリーの家での宴会やシルの家の夕食も悪くはないが、やはり川で獲りたての魚というのは別格だ。
しかし一人で行くのもなんとなく寂しい。誰か連れていこか。
そうだ、サンキラに声をかけよう。狩人なら川の扱いも慣れているだろうし、カゴも持っているはずだ。
サンキラの家の扉を叩いた。
返事がない。
もう一度叩くと、中からぱたぱたと足音がして、扉が開いた。
「はい、誰——」
扉から顔を出した少年が、金色の霊獣を見た瞬間に固まった。その後ろから、もう一人小さな顔が覗いた。
「サ、サーラ様!!」
兄の方が声を上げた。弟が兄の背中に半分隠れながら、目だけで上津一を見ている。
「おう、サンキラはおるか」
「と、父さんは……村長の家です。今日、会議があるって言ってました」
「そうか」
上津一は一拍置いてから、忘れていたのに、いかにも最初から知っていたかのように言った。
「ああ、そうやったな。会議やったな」
知らんかったのは丸わかりだったと思うが、兄弟は特に突っ込まなかった。子どもの優しさだ。
「ちょうどええ。カゴを貸してくれるか。魚を採りに行こうと思ってな」
兄の目が輝いた。
「俺たちも連れてってください!」
弟が兄の袖を引いた。「兄ちゃん、いいの?」
「サーラ様と行くんだぞ!いいに決まってるだろ!」
上津一はその勢いに押された。
「ええよ、竿持って来い」
三人で川へ向かった。
兄がトウワタ、弟がタルブクだ。トウワタは背に弓を負い、手に竿を持っている。タルブクは兄にぴったりくっついて歩いている。
「お前ら、いくつやったっけ」
「俺は十一です。タルブクは九歳です」
「十一か。もう魔法適性の検査は受けたか」
トウワタの顔が少し変わった。陰る、というほどではないが、何かを思い出したような顔だ。
「……今年受けました。適性はなかったです」
「そうか」
「でも俺、気にしてないです。とうさんと同じ狩人になるから。魔法がなくても弓は使えるし」
迷いのない声だった。テレパシーで拾えた感情も、強がりではなく本心だ。この子は自分の道を決めている。
「立派やな」と上津一は素直に言った。
タルブクが口を開いた。
「僕は冒険者になりたい!」
トウワタがため息をついた。
「お前がか。この間、暗い蔵に入れただけで泣いてたくせに」
「う、あれは別だよ! 冒険は昼間だもん!」
「夜中に魔獣と戦うのが冒険だろ。ビビりのお前には無理だって」
「ビビりじゃないもん!」
「ビビりだもん!」
「もん!」
「もん!」
上津一は空を見上げた。
「はいはい、二人とも」
兄弟がぴたりと止まった。霊獣に言われると効くらしい。
「タルブク、冒険者になりたいのはええと思う。ただ勇気っていうのは、怖くない事やなくて、怖くても一歩踏み出せる事やで。怖がりの方が危険を察知する力があるから、長生きする冒険者になれるかもしれん」
タルブクが目を丸くした。
「本当ですか」
「本当や。無謀と勇気は違うから」
トウワタが少し複雑な顔をした。弟を馬鹿にしていたわけじゃないが、霊獣に諭されるとは思っていなかっただろう。
「トウワタも、弟の夢を笑うな。夢はあった方がええ」
「……はい」
それで兄弟げんかは終わった。
三人で並んで歩く。朝の光が麦畑を照らして、川の音が遠くから近づいてくる。
川に着いた。
山から流れ下った水が、岩を縫うように走っている。大きな石が点在し、水が石にぶつかって白く跳ね、深みでは緑がかった色に変わる。木々が川の上に張り出して、光と影が水面に模様を作っていた。
朝の渓流は、静かで美しかった。川霧がうっすらと水面を這い、光がその中で溶けるように広がっている。水の音だけが満ちていて、それ以外の音がない。
上津一は少しだけ、セミリタイア時代の和歌山を思い出した。あの別荘の川も、こんな匂いがした。
「この辺にしよか」と上津一が言うと、トウワタが少し不満そうな顔をした。
「もう少し奥の滝壺の方が釣れますよ。父さんもいつもそこで」
「まあ今日はここで」
「サーラ様が言うなら……」
納得していない顔だが、従ってくれた。
上津一は川を見渡した。セミリタイアの釣り人として、海も川も池も経験している。どこに魚がいるか、水の流れを読めばだいたい分かる。
「トウワタ、あの大きい石の下流側の窪み——流れが少し緩んでるところ、見えるか」
「見えます」
「そこ。石の陰でエサが溜まりやすいから、魚が待ち伏せしてる。まずそこに投げてみ」
トウワタが竿を振った。
ほとんど間を置かずに、手応えがあった。
「あっ!」
引き上げると、ピチピチと跳ねる魚がかかっていた。川魚だ。型のいい一匹だ。
「すごい!」とタルブクが叫んだ。
「次はな」と上津一は続けた。「カーブの外側の深いところ。流れが速い部分の少し内側——そこも溜まり場や。タルブク、そっちに投げてみ」
「僕も?」
「竿持っとるやろ」
タルブクが恐る恐る投げると、こちらもすぐに反応があった。小さいが確かな手応えだ。
「釣れた! 釣れた!!」
「木の枝が張り出してる日陰も狙い目やで。魚は明るいところを嫌う。晴れた日ほど日陰を攻める」
兄弟が上津一の指示を聞きながら投げると、面白いように釣れた。大きな岩の裏で水が巻いている反転流、岸際の草が水面にかぶさるところ、段差の下の落ち込み——ポイントを変えるたびに竿が曲がった。
「サーラ様、すごいです」とトウワタが言った。今度は心から言っていた。
「まあな、釣りは好きやから」
「霊獣様が釣りをするんですか」
「霊獣でも魚は旨いからな」
タルブクが笑った。
カゴの中がだいぶ賑やかになってきた頃、上津一はふと思った。
せっかくやから、一つ試してみよか。
川を見渡すと、少し下流に目を引く場所があった。
川の半分を塞ぐような、どっしりとした大岩がある。川幅の三分の二はあろうかという岩の下流側に、流れがぶつかって深く掘れた淵ができていた。水の色が深い緑で、底が見えない。いかにもボス格がいそうな場所だ。
「トウワタ、あの大岩の下流の淵——見えるか」
「見えます。父さんがあそこで大物釣ったって言ってました」
「そやろな。今から俺が採るところを見とけ」
トウワタが「え、どうやって」と言いかけた。
上津一は翼の向きを大岩に定めて、超音波を絞って放射した。
水面が、一瞬歪んだ。
大岩に当たった超音波が水中に伝播し、水の密度を通じて淵の中に衝撃波が広がった。水は空気より密度が高い。衝撃はほとんど減衰せずに広がっていく。
次の瞬間、淵の水面が波紋を描いた。
一匹、二匹、三匹——魚が白い腹を上にして浮かんできた。大きいものから小さいものまで、淵の中にいた全部だ。水面がきらきらと、それは異様に美しい光景だった。
沈黙があった。
トウワタが固まっていた。タルブクも固まっていた。
「サーラ様、これは……」とトウワタが静かに言った。
「いや、ちゃうねん」
何がや、と上津一は心の中で自分に突っ込んだ。ちゃうねんって何がちゃうんや。やったのは自分やないか。
「ちょっとやり過ぎた」と上津一は素直に認めた。「でもほら、大物がおるやろ」
淵の真ん中に、腕ほどの長さの川魚が白い腹を見せて浮いていた。見事な大物だ。周囲には大小様々な魚が、静かに水面を漂っている。
タルブクが兄の袖を引いた。
「兄ちゃん……」
「見ちゃいけないものを見た気がする……」
三人でカゴに詰めた。大物から順番に、入るだけ。最終的にカゴ二つがずっしりと重くなった。
村に戻ると、村長の家からちょうど人が出てくるところだった。
会議が終わったらしい。村人たちが思い思いの方向へ散っていく。上津一の姿を見た何人かが足を止めた。
「サーラ様、こんにちは」
「おお、今日もご機嫌で」
「サーラ様、またどこか行ってたんですか」
テレパシーに温かさが満ちている。この村の人間たちに上津一は随分と受け入れられていた。なんやかんやで、この村が好きになってきとるな、と上津一は思った。
「魚、採ってきた。いる人は持ってって」
どよめきが起きた。
カゴの中を覗いた老人が「こんなに!」と目を丸くした。農家の女たちが集まってきて、嬉しそうに魚を取り始めた。子どもたちが駆け寄ってきてカゴを覗き込む。
上津一が魚を配っていると、列の後ろの方にシルがいた。アキレアと並んで、順番を待っている。
「サーラ様、こんなにお魚を。すごいですね」とシルが言った。
その隣でトウワタが待ち構えていた。
「シル、聞いて、サーラ様がね——」
上津一は「あ」と思った。
止めようとしたが遅かった。
「大岩の下流の淵に向かって、なんか変な音を出したら、魚が全部浮いてきて——川一面が魚になって——」
シルの顔が、だんだんと引いていった。
笑顔が、困惑に変わり、呆れに変わっていく過程が、はっきりと分かった。
タルブクが「すごかったよ、びっくりした、ちょっと怖かった」と追い打ちをかけた。
シルが上津一を見た。
上津一は翼を少し縮めた。
「……まあ、ちょっとやり過ぎたとは思ってる」
「川の魚を根こそぎにしたんですか」
「根こそぎっていうほどでは——」
「根こそぎでした」とトウワタが正直に言った。
シルがため息をついた。アキレアが腕を組んだ。
「まあ……お魚はおいしく食べましょう」とシルが言った。
「家で食べていきましょう」
上津一はおとなしくついていった。
夕暮れの村に、魚を焼く匂いが広がり始めた。




