第12話「空を飛んでみるか」
目が覚めると、外から声が聞こえた。
上津一が寝起きしている場所は、シルの家の横にある倉庫だ。霊獣の体格では家の中に入るのは難しいので、倉庫の一角を間借りしている。藁を敷いただけの簡易な寝床だが、不思議と落ち着く場所になっていた。
起き上がって外に出ると、子どもの口喧嘩が聞こえてくる。
「だから、サーラ様はまだ寝てるって言ってるでしょう」
「シルはうるせーなぁ」
声の方を見ると、シルとトウワタが向かい合っていた。トウワタの顔が少し赤い。怒っているというより、照れているような赤さだ。タルブクがその間で、どちらに加勢すればいいのか分からずあたふたしている。
なるほど、トウワタはシルに惚れてるみたいやな。
上津一は内心でにやりとした。
うんうん、青春やなあ。おいちゃんにはもう、こんな可愛い恋心はないけどな。羨ましいような、微笑ましいような、複雑な気持ちが胸に広がる。三十八年間、ドロドロした人間関係や恋愛模様は嫌になるほど見てきた。だからこそ、こういう真っ直ぐな感情というのは新鮮で、なんだか眩しい。
上津一はそっと近づいていった。
「はいはい、ケンカしない」
「サーラ様!」
「サーラ様、おはよう!」
三人が一斉に振り向いて挨拶した。
「おはようさん」
上津一は羽の先にある三本の爪——始祖鳥のような構造で、簡単な物を持ったり、ちょっとした作業もできる——をひらひらと左右に振りながら挨拶を返した。この動きを覚えてから、村人たちの間で「サーラ様の手の動き、可愛い」と妙な人気が出ていることを、上津一はまだ知らない。
話を聞くと、兄弟は昨日の釣りが楽しかったらしく、今日も遊んでもらおうと早朝からやってきたという。あまりに早すぎて、シルに「サーラ様はまだ寝てる」と怒られていたところだったらしい。
「何かしたい事でもあるんか」と上津一が尋ねると、トウワタとタルブクは顔を見合わせた。
「う~ん……」
特に考えていなかったらしい。子どもらしいと言えばその通りだ。
鉄が出来上がるまで一週間。上津一にも特にやることがない。何か面白いことを——と考えたところで、数日前のことを思い出した。
ゾジルを背に乗せて空を飛んだ時のことだ。あのドワーフは怖がっていたが、考えてみればあれは「飛行体験」という、なかなか珍しい経験だったのではないか。
「そや、空飛んでみるか?」
「えっ!空!?」
三人とも目を丸くした。
「飛んでみたい!」とタルブクが真っ先に声を上げた。
「お前、怖がりだから無理だろ」とトウワタがすぐに言う。
「俺、怖がりじゃないやい!」
また始まった、と上津一は思ったが、今回はすぐに収まった。タルブクの方が「飛びたい」という気持ちが「ビビり認定への反論」を上回ったらしい。
兄弟が行くことになり、上津一はちらりとシルを見た。
シルは何も言わなかったが、その目が明らかに「飛んでみたい」と言っていた。テレパシーにも、隠しきれない期待が滲んでいる。
「シルもいくやろ?」とさりげなく聞いた。
シルの顔が、ぱっと明るくなった。
「うん!」
場所は村の外、麦畑の広いところに決まった。
ちょうど畑の手伝いをしていたアキレアも見つけて誘うと、青い髪を揺らしながら「行きます!」と即答した。
四人を順番に乗せることになり、誰が先に行くかでじゃんけんをした。
結果——
タルブク、シル、アキレア、トウワタの順。
タルブクが両手を突き上げて「やったー!」と飛び跳ねた。
トウワタが肩を落とした。「最後かよ……」
「兄ちゃんがジャンケン弱いだけだろ」とタルブクが珍しく兄に言い返した。
「うるさい」
まず、タルブクが上津一の背に乗った。
翼を広げると、麦畑がさあっと風で波打った。
「ほんとに飛ぶの!?」
「飛ぶで。しっかりしがみつき」
地面を蹴った瞬間、世界が変わった。
麦畑が一気に下に遠のいていく。畑の緑が、まるで巨大な絨毯のように広がり、村の鋸壁が小さな円になって見えた。風が頬——ではなく羽毛——を切る。
「うわああああ!!!」
タルブクが歓声を上げた。怖がりだという評判はどこへ行ったのか、上津一の背中で大はしゃぎだ。両手を広げて風を受けようとしている。
「危ないから、はしゃぐな」
「サーラ様、すごい! すごい! 空ってこんな感じなんだ!」
地上でトウワタが「あいつ、全然怖がってないじゃん……」と呆然と呟いているのが見えた。
タルブクが満足げに降りた後、次はシルだった。
上津一の背に乗ったシルは、最初は手をしっかり握っていたが、空に上がるにつれて表情が変わっていった。
眼下には村があり、麦畑が広がり、川が銀色の帯のように光って流れている。木々の緑が風で揺れて、雲の影が地上を移動していく。シルは何も言わず、ただじっと景色を見つめていた。
「綺麗……」
小さな声だった。
「ええ景色やろ」
「こんな景色、初めて見ました」
しばらく無言で飛んだ。シルが何かを感じているのが、テレパシーを通して伝わってくる。喜びと、少しの寂しさのようなものが混ざった感情だった。村というものを、外から見るというのは、こういう感覚なのかもしれない。
三番目はアキレアだった。
元気いっぱいに「お願いします!」と背中に乗ったものの、地面を離れた瞬間、その元気は瞬時に消えた。
「ひ、ひゃああああ……!」
しっかり者で物言いがはっきりしているアキレアが、上津一の背に必死にしがみついて固まっている。シルが地上で「アキレア、頑張って!」と手を振っているのが見えた。
「アキレア、力抜いてええで」
「む、無理です……無理です……」
高度をあまり上げないまま、短めに飛んで降りた。アキレアは地面に降りた瞬間、その場にぺたんと座り込んだ。
「もう二度と乗りません……」
タルブクが「アキレアが怖がりだ!」と笑い、アキレアが「違います! ちょっと油断しただけです!」と言い返す。
いつも通りの賑やかさだった。
最後は、トウワタだった。
ちょっと緊張した様子で背に乗り、翼が広がると、麦畑が下に広がっていく。
「うわ……」
トウワタの声が、感嘆のものに変わった。
しばらく飛んだところで、トウワタが目を細めた。視線が、村から少し離れた森の方に伸びる街道に向いている。
「あそこに魔物が!」
「どこや」
「あそこです、街道の上!」
目を凝らすと、確かに何かが街道を歩いている。四足歩行で、体が黒く、大きい。このまま進めば、チドカ村に近づく方向だ。
「ちょっとええか」
その一言で、トウワタは全てを理解した。
「行ってください!」
翼が一気に角度を変えた。
風が音を立てて、地上が急速に近づいてくる。
地上にいるシルたちが、上津一の急な動きに気づいて何かを言っているのが見えたが、今は構えなかった。何か起きたんやと察してくれるはずだ。
近づくにつれて、魔物の姿が明確になった。
熊のような体格だ。しかし全身が黒く、体高は二メートルほどある。普通の熊よりも筋肉が密で、目が赤く光っている。
テレパシーで拾える感情は——飢えと、苛立ち。何日も餌にありつけていないのだろう。空腹で気が立っている。
上津一は高度を保ったまま、魔物の頭上に位置を取った。
超音波を放射する。
ビシュッという音と共に、魔物の動きが止まった。意識が一瞬で飛んだのが分かる。前足が崩れ、巨体が地面に倒れた。
上津一は降下し、前足で頭部に一撃を加えた。それで全て終わった。
「すっげー……!」
トウワタが目を輝かせていた。霊獣の戦いを背中で見ているという、なかなかない経験に興奮しているようだった。
ティランから聞いた話を思い出した。魔獣には魔石がある。せっかくの機会だ、確かめてみよう。
上津一はトウワタを降ろし、その場で魔物の解体を始めた。爪を使って腹を開くと、体内から拳より少し小さい——野球のボールほどの大きさの、薄く光る石が出てきた。
黒っぽい色合いの中に、わずかに赤い筋が見える。
「これが魔石、か」
「サーラ様、それが?」
「魔獣の体の中にある石らしい。」
石を翼の付け根に挟むと、トウワタを背に乗せて村の方へ戻った。
畑に降り立つと、シルたちが駆け寄ってきた。
「サーラ様、何かあったんですか?」
「魔物がいてん。チドカ村に向かってきそうやったから、ちょっと先に倒してきた」
シルの顔が少し青くなった。
「危なくなかったですか」
「もう死んだから安心せえ。ほら、これ」
上津一が魔石を見せると、アキレアが「うわ、大きい」と目を丸くした。
「お昼やし、そろそろ帰ろか」
トウワタが興奮を抑えきれない様子で、村に向かう道中、何度も「すごかった」「一瞬で終わった」「魔石ってこんな大きいんだ」と繰り返していた。
タルブクが「俺も見たかった」と羨ましそうにし、アキレアが「私は飛ぶだけで十分です」とため息をついた。
シルは少し後ろを歩きながら、上津一の翼の付け根に挟まれた魔石をちらりと見て、何かを考えているような顔をしていた。
麦畑を渡る風が心地よかった。村の鋸壁が見えてくる。
上津一は思った。
なんか、賑やかな日々やな。
大阪での静かなセミリタイア生活とは正反対の毎日だが——これもまた、悪くない。




