Real.30『好奇心は身を滅ぼす』
漆黒に包まれ前後左右も感じることは出来ず、たった独り虚空に存在している。そんな感覚がし始めた頃、私を包んでいた暗闇にチラチラと輝く星が瞬くのが見えた。次第に見たこともないような銀河や星雲が浮かび上がっていく。
ここはどこだろう。
アリスが宙を漂っていると、遠くから太鼓とフルートに似た音色が聞こえてくる。それと共に肉片のような──いや、それよりもずっとおぞましい冒涜的な様相をした何かがアリスの前方から後方へ義肢と呼んでいいのかすら危ういものをうねらせて流れていき、自壊していった。
アリスが流されるほどそれは数を増やしていく。遠くから聞こえて居た音色は壮大な祭囃子へと膨らみ、やがて視界の全てがその何かに囲まれ、寄せ集めて形を成したそれの内部にいるかのようであった。
こんな忌まわしいものがこの世にあっていいのだろうか。アリスが幼少から教会、学校で教わってきたものは何だったのか。全ての常識が否定されていく。救世主など存在しない。
「こんな、嘘でしょ…………」
アリスは無い頭を抱え、無い足に顔を埋めた。
ふと、祭囃子が止まり、アリスの居る空間が言葉とも言えない声を発し、それに応答するように何者かの声がアリスの下方から聞こえてきた。
そこには、かつてアリスが出会った恐ろしい怪物が畏まるようにして居た。
あれは、ニャルラトホテプ……?
邪神は脈打つ舌のような触手に包まれた頭部から言葉を紡いでいた。
なんと言っているかははわからないが、彼が酷く焦燥しどこか怒りをも抱えているように思えた。
彼が沸騰する核に1つ進言すると、その混沌は再び打楽器と笛の音に合わせて屈曲し始めた。
ニャルラトホテプと目が合いそうになった時、アリスの魂の時が急減速し闇に包まれた。
また時が遡る。
アリスを包み込んでいた3次元の空間は4次元へと歪み、更に5次元の角度が視界に飛び込んでくる。勢いはみるみる減速していき時すらも超越してしまったように思えた。
刹那、脈動するオーラのような何かがアリスの目に映る。あまりにも一瞬のものだったがアリスはそれをハッキリと認識してしまった。
そのオーラは驚くべきことにアリスのすぐ傍と遥か彼方に同時に存在していたのだ。
どこはからか聞こえていたカサカサとそよ風に騒ぐ葉の声のようなものの源と、オーラがアリスに近づいていく。徐々に、しかし確実に。
そしてアリスはこの音とオーラが同一のものだと理解してしまった。
最悪だ、最悪だ、最悪だ!私は何て運が無いんだろう!
私は不運にもこの次元に住むケダモノに標的にされてしまった。
アリスは生命を持つクネり曲がった棒と円柱が複雑に絡み合ったものに取り囲まれていることに気づいた。不可視の蔓がアリスの皮膚の上を這いずり、耳や鼻、口から中へ侵入していくような錯覚に襲われる。
逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ!!
…………誰か、助けて!!!
パシンッ!!
アリスの頬に軽い衝撃が走った。ハッとしたアリスはそっとジリジリと痛む頬に手を重ねる。
「…………え?」
アリスは身も心も憔悴しきっており、体は脱力ままで目線だけを送り自らの胸ぐらを掴み頬を叩いた何者かを視界に収める。
「……だ、れ?」
月白色をした髪とピンクの瞳をした恐ろしく顔の整った美少女が私の襟元を掴んでいた。
私に意識が戻ったのを確認すると、少女が未知の言語を口走り私を抱擁する。状況を把握出来なかったが何故か心安らぐような気がして私も彼女の背に手を回す。
牢の外から騒ぎ声が聞こえ始めると、少女は立ち上がり私の手を引いて窓から脱出を試みようとしていた。
引っ張られ、アリスはフラフラと足をもつれさせながら窓へ近づく。
少女は私を一瞥すると、小さな体からは想像出来ない力で私の背と膝の裏を抱えて窓から飛び降りた。
サイレンの音が刑務所中に響き渡っている。
少女は丁度私をお姫様抱っこするような形で高い塀すらも飛び越えて走り去っていく。少女の背後で刑務所はどんどん小さくなっていき、ビルの影に消えていったのが見えた。
道中、私はただ沈みゆく赤い夕日と彼女のように真っ白な雪と、年末セールを掲げるノボリを眺めていると、ある名前を思い出した。
「あなたがイヴ……?」
少女は驚いたように目を丸くさせ、そして嬉しそうな顔で頷いた。
しばらく街を走り抜けた後、夕日がよく見える橋の上で少女は止まり私を下ろした。
「荳?邱偵↓蟶ー繧阪≧縲√い繝ェ繧ケ」
白兎のような少女が未知の言語で私に微笑みかける。
私がそれをぼーっと見つめていると、少女は困った顔をしてカタコトの英語で再び話しかける。
「わたし 一緒 帰る お家に」
「お家……?」
少女が頷き1つの金属製の鍵を取り出した。
私にはその鍵が何だか知っていた。見たことは無かったけれど、私の曾祖父がそれを持って消えたという話を聞いたことがあったから。
「銀の鍵……、なんであなたが……」
「これ 使う 帰るために」
ああ、だから夕日。私は夕日の方を見てその使い方を思い出した。
少女が小さく柔らかい手で私に鍵を握らせ、夕日に向かって鍵を掲げさせる。特に私は抵抗する気もなかったが、1つ気になることがあったから聞いてみた。
「あなたにとって私って何?私とあなた、どこかで会ったことあったっけ?」
「アリスはわたしの好きな人。わたしはアリスの好きな人」
少女が私の目を見て言う。
そっか、私は手中にある鍵をしっかりと握りイヴちゃんと呪文を唱え鍵を9回回した。
ここが、私の居場所だったんだね。
橋の向こう側に建つ建物の窓の鋭角に、それはモクモクと煙を立てて現れた。窓の角から頭を出し、ヌルりと全身が顕になる。それは、青色の三角形や四角形の鋭角からなる時を超えた、ティンダロスより来る追い立てる獣だった。
猟犬がアリスとイヴに狙いを定め襲い飛びかかろうとすると、衝撃が猟犬の頭部に降りかかった。
猟犬は食事を邪魔されたことで怒り、自らを地に落とした元凶を睨みつけ吼え猛っていた。
人智を超えた怪物を目の当たりにした人々は泣き叫びちりじりになってその場から逃げ去っていく。
その場には、猟犬と浅黒い肌をした少年だけが取り残された。少年が電柱の脇を通るとその姿は青年のものとなり、猫のような縦長の瞳孔をした瑠璃色の目を輝かせていた。長く伸びた黒髪と金髪の警戒色が風に揺れる。ニャルラトホテプの人柱、ジャックである。
「残念だけど、彼女たちは猫派なんだ」
ジャックは鉤爪を顔面にめり込ませ引き剥がすように美しい面を取ると、そこには漆黒の無があった。
「それとね、僕は自分のモノを他者に奪われるのがこれ以上に無く嫌いなんだ。君も舌を切り取られてみるかい?」
ジャックの威圧に猟犬は尻尾を股の内側に巻いたかのようにして再び建物の角から時の間へ戻って行った。
「ハハッ、負け犬ほどよく吠える」
ジャックは犬っころを嘲笑い再び面を戻し顔の縁を摩る。アリスとイヴがドリームランドに戻ったのを確認すると、またいつもの調子に戻って自分がいかに優しい人物であるかを存在しない観客にアピールしていた。
シナリオ【語るに落ちるは罪人アリス】
[犠牲者] 一般受刑者1名
[背景解説]
アリスは心安らぐ居場所と友達を求めてニャルラトホテプの化身である黒い仔猫を拾い大切にしていました。ニャルラトホテプはその恩返しにアリスを襲う義父を殺害しアリスをドリームランドに送ったのがアリスの物語の始まりになります。そして、イヴを庇い死亡したアリスが義父殺害の容疑で逮捕され刑務所に入れられたのが当シナリオの導入です。また、アリスが刑務所内で出会った浅黒い肌の少年もニャルラトホテプの化身でアリスを破滅と狂気に陥れるため冥王星の薬を渡しました。もう恩は返しましたし、それ以上に重要なことなので躊躇はありません。そもそも彼は非常に気まぐれで恩を返すという私情による義理堅さがあるのかすら謎です。
[登場アイテム、魔道書、呪文等]
・銀の鍵:4章にて解説済
・冥王星の薬:過去に現在の記憶を保持したまま戻り改変が可能な薬。
・暗黒のファラオ団:ニャルラトホテプを信仰するカルト教団。ロンドンに支部を構えている。
[登場神話生物]
・アザトース:全盲白痴の外なる宇宙の魔皇。彼の見る夢こそがこの世界そのものであり彼が目を覚ますことはこの世界の終わりを意味する。
・ティンダロスの猟犬:時間の角に棲む飢えたもの。冥王星の薬などを使い時間旅行をした者を標的にし捕食する。
[小話]
・食堂の一角で遺体で発見された男は冥王星の薬を飲み、過去へ遡っている際ティンダロスの猟犬に獲物と認識され捕食、咥えたまま角へ入ろうとしたためあのような遺体として発見されました。
・アリスは過去に遡り終着点へ来た際ファンブルしてしまったため謎の円柱に囚われてしまいました。
・イヴの文字化けしたセリフはツールでそのまま翻訳できます。




