Real.28『冥王星の薬』
深夜、男は食堂に向かっていた。別に、脱獄がしたいとかそういうものではない。単純に目が覚め、喉を潤しに来ただけだ。喉が渇いた。これは生理的なものだ。罪悪感はなかった。こっそり鍵を開けて、見回りの刑務官に見つかる前に戻る。見つかったら見つかったで札を渡して揉み消せばいい。アイツらは薄給でこんな地獄を俺達と共にしている。金さえ渡せばこのくらいのことを揉み消すのも、売店に無いものを持ってこさせるのも簡単だ。
男はドアノブに手をかけ回し、食堂に入る。
……妙だな、雰囲気がおかしい。鉄錆の臭いが男の鼻腔を突く。
ポタリ、ポタリと水滴が落ちる音がした。
雨漏りをするほどこの施設はオンボロじゃない。全てを察した男が音のする方を振り向く。
部屋の天井と壁の三面が接する鋭角にそれはあった。
「…………は、……ぅあ…………」
男は腰が抜け、情けない声を漏らして尻もちを着く。しかし、どんな殺人鬼が見てもこの異常な光景には目を疑い絶句し、恐怖するに違いなかった。
暗闇に目が慣れ、その輪郭が男の網膜にハッキリと映し出される。
同じ受刑者の男の死体だ。下半身が喰い千切られた死体が部屋の角に生えていた。壁に鹿の頭を飾るように。
その死体の顔は目玉が零れ落ちん限りに見開かれ、絶叫する姿をそのまま静止させたかのように口を開いて、頬には涙の乾いた跡が残っていた。まるで恐怖そのものを顔に貼り付けたかのようだった。
その姿を認識した男は気を失うまで叫び続けていた。
朝、警察により男は連れていかれた。犯人への手がかりが彼しか無かったこと、消灯時間に勝手に牢の外に出ていること、殺人歴があることから犯人として逮捕されたのだ。男は無罪を主張していたが、この刑務所から出ることに関しては積極的だった。
その日、受刑者達はしつこく取り調べを受け、しばらく食堂には入れなかった。
アリスは不安を抱いていた。手がかりのない残虐な事件が自分の身に起きたものと重なって、あの日見たバケモノが自分の元に再び来たのではないかと恐怖していた。
そんな中、アリスはある話を耳にした。死んだ男は自分の過去を変えられる薬を所持していたというものだ。その男は事故で人を殺めてしまったらしい。
「過去を変えられる薬……か」アリスが独房で独り言を呟いていた。
その薬のせいであの人は死んでしまったのだろうか。そのことを彼は知って服用したのだろうか。
変えたい過去。アリスにも、無いわけではなかった。
「あのお受験、今なら合格出来るだろうな」
アリスは幼少の頃、名門私立学校の受験をしていた。アリスが行きたかったわけではない。母が有名学校に娘を通わせて自慢したかった、ただそれだけだ。
もし、あの学校に通うことが出来ていたら面倒ないじめに合わずに済んだのかな。お母さんにとって誇らしい娘になれれば、私を愛してくれるのかな?
……いや、まさかね。
「結局気になって眠れなかった」
アリスは寝不足で薄く隈の落ちた目を擦りベッドから降りる。
「朝ご飯食べないと」
食事を済ませたアリスがぼーっと考え事をしていると、隣に浅黒い肌の少年が座った。
「あれ、アリスお姉ちゃん寝不足?何か面白い暇つぶしでも見つかった?」
あんなことがあったばかりなのに、少年はいつもと変わらない笑顔を浮かべている。
「いや、噂のことがね」
「噂?何それ」少年はキョトンとした表情で俯くアリスの顔を覗き込む。
「過去に戻れる薬っていうのがあるらしいんだ」
「あぁ、あれか。欲しいの?」
少年は思い当たる節があるようで、「ちょっと待って」と言い残して足早に食堂から出ていくと、小さな袋を持って戻って来た。
「これはね、冥王星の薬って言うんだ。あげる」
少年は困惑するアリスの手に袋を握らせる。あまりにも自然な動作でアリスが拒否する間も無かった。
「え、どうして?」
何故こんなにもあっさりくれるのか、そもそも何故彼がそんなものを持っているのかアリスには不思議で仕方なかった。
「これが欲しいんでしょ?いいよ持ってて。使うか使わないかは任せるよ。……あ、時間だ。じゃあ僕は作業があるから行くね!バイバイ」
こうして、薬の経路を聞く前に少年はアリスに薬を押し付けるようにして去っていった。
「……行っちゃった」
アリスは手元の袋に目を落とす。そっと小袋を開けると、形容し難い色味の禍々しいカプセルが5つ包まっていた。
アリスは自身の独房に戻りじっくり眺めてみる。とても人間が服用していいものに見えない。でも、アリスの好奇心と探究心を止めるほどの障害にはならなかった。
どんな味がするんだろう
どんな食感がするんだろう
どうやって過去に飛ぶんだろう
趣味の合う友達はできるのだろうか
どんな顔でお母さんは私を愛してくれるのだろうか
アリスは薬を1粒口の中に放り込んだ。その瞬間、自身の体が闇の中に包まれ、魂が体と引き剥がされていくのを感じた。自分の体が霧に隠れるようにして僅かながら真下に見える。アリスの魂は暗闇を漂い、遂に到着した。アリスの眼下には見慣れた光景が広がっていた。
時を同じくして、月白色の髪を揺らして少女が刑務所の門を叩いた。カタコトの英語で警備員に尋ねる。
「アリスはここにいますか?」
明日から1日1更新に戻ります。




