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「……陽仁に用があるんじゃないの?」
「いいえ? 私は佐倉さんにお話があるのだけれど?」
驚きだった。私に用がある人なんてこれまで一人もいなかった。そんな人が存在するだなんて考えたこともなかった。
そうなると全く想定していなかった事態に緊張感が走った。
いったい私なんかに何の用があるのだろう。やはり隠し撮りがバレてしまったのだろうか。
「え、と、ごめんなさい……。あの、話って……?」
「とりあえず、座ってお話ししましょう?」
すぐ側のベンチを指差して氷坂さんが小さく首を傾げた。
促されるがままそろそろと腰を下ろすと、躊躇いもせずにすぐ隣に腰を落ち着ける。昨日の駅のホームで座ったベンチが思い出され、途端に落ち着かなくなってしまう。
「昨日のお礼がしたいのだけど、何がいい?」
背筋を伸ばした綺麗な姿勢で問い掛けられた。
氷坂さんは感情の読めない無表情なのに、視線にだけはやたらと圧力を感じて仰け反りそうになってしまう。
「……お、お礼?」
「そう。昨日、私のせいで遅刻しちゃったでしょう? 介抱してもらったことも含めてきちんとお礼したいから」
「そんな、わざわざお礼なんて……」
混み合う電車の中で寄りかかられて成り行き上そうなってしまっただけなのだ。
氷坂さんだから介抱したわけじゃなかったし、もしあの時に隣に立っていなくて離れた位置からしんどそうな姿を目にしたとしたら、たぶん私はわざわざ近付いてまで助けようとはしなかったと思う。
「いいえ、それだと私の気が済まないから。私に出来ることなら何でもするから、言ってくれる?」
氷坂さんの口調は頑なさが押し出されているみたいだった。
お礼をしたいと申し出てくれているわりに、高圧的とも取れる強い眼差しで値踏みするみたいに私をジッと見据えてきた。頑として譲る気などない強い意志だけは感じ取れた。
困った。勝手に憧れて尊敬している氷坂さんとこんな形で関わることになるだなんて。
押し潰されそうな圧迫感に肩を竦めて、なにか言わなければ解放してもらえない状況に目が回りそうになる。
「あっ」
「なに?」
何かないかと慌てて考えを巡らせていると、ふと思い付いて声が漏れた。食らい付くくらいの勢いで反応してきた氷坂さんに、
「……た、体育祭のチアで、パートナーになってほしいっ」
座ったまま距離を詰めるみたいにぐいっと顔を寄せて、私にしては思い切ったことを声に出していた。
言い終えてから自分で驚いてしまったけれど、いま一番、私が困っていることといえばこれしかなかった。
「パートナー?」
「うん。体育祭でやる、チアのパートナー……」
氷坂さんは孤高の人だ。その経緯に違いはあれど、私と同じでいつも一人でいる。
そんな氷坂さんが二人一組にならないといけない体育祭のチアをどうするつもりでいたのかはわからない。
私からゆっくり視線を逸らして思案顔になっている氷坂さんを見上げる。形の良い顎先に指を添えて難しそうな表情で何事かを熟考している。
ああ、私は何を意気込んで思い切ったことを口走ってしまったのだろう。ペアになってほしいだなんて勢いで口にして困らせてしまっている。
勝手に私と同じで一人だろうと決め付けてしまったけれど、もしかすると氷坂さんにはすでにパートナーがいる可能性を全く考えていなかった。
いまさらながらに後悔の波がじわじわ押し寄せてきてなんだかお腹が痛くなってくる。
「……あ、あの、やっぱり無理だったら――」
「体育祭のチアって何をするの?」
後悔と不安に苛まれて俯きながら呟いた私の語尾を遮って、氷坂さんがぽつりとそんなことを訊ねてきた。
「え、っと……、チアだから、ポンポンとか持ってみんなでダンスしたり、するんだと思うけど……」
正直、何をするのかと問われて即答できるほど私も詳しくは知らない。全体練習は今日の放課後からなので具体的なことを知る術がなかった。
それでも去年の体育祭で先輩たちがチアダンスで応援合戦をしていたことを思い出しながら切れ切れに答えた。
「そう……」
「氷坂さんっ、ほんとにいきなり変なことお願いしたりしてごめんなさいっ。私、なんとか誰か、別の人を探すから……」
その吐息みたいな気のない返答を受けて、私は慌てて自分の発言を取り繕いながらなかったことにしていく。
これはもう迷惑がられているに違いない。なんとか声を振り絞って平然を装ったつもりだったのに語尾はどんどん聞き取れないほど小さくなってしまう。
そんな私の姿をよほど見かねてしまったのか、
「わかったわ。じゃあ体育祭のパートナーになりましょう」
意を決した風に氷坂さんは一つ頷いて見せてから言い切った。
「……ほ、ほんとに?」
「ええ。それでお礼になるなら」
「あ、えっと……、氷坂さんはパートナーになる人とかもう決まってたんじゃ……?」
「いいえ、いないわそんな人。去年もそうしたけれど体育祭は仮病で休むつもりだったし」
言い淀みもしなければ悪びれることさえなく、むしろ清々しいほどきっぱりと仮病と言い放った氷坂さんは冗談を言っている様子ではなかった。
それは私にはまるでない発想で唖然としてしまった。
なるほど。仮病でもなんでも当日いきなり休んでしまえば煩わしく悩む必要もないのだ。良いか悪いかは別としてとても合理的だと思えた。
ただそれだと、体育祭本番までに何度か行われるチアの全体練習はどうするつもりだったのだろう。
「や、休む予定だったらやっぱり悪いし……」
「ううん、気にしないで。仮病で休もうとすると宗がうるさいからちょうど良かったわ」
「……ほんとに、いいの?」
さらりと紡がれたソウという名前は気になったが、いまはそこを詮索することに意味なんてない。
「ええ。それじゃあ私たちはパートナーということで。何か用があったら声をかけて」
私の度重なる確認をしつこいと思われてしまったのだろうか。
パートナーになってほしいと口にしたときにものすごく悩んでいた様子とは裏腹に、氷坂さんはそれだけ告げるとベンチから立ち上がって足早に校舎へと歩いて行ってしまった。
風を切るみたいに颯爽と歩く後ろ姿を呆然と見送りながら、氷坂さんとパートナーになってしまった事実を反芻する。
これは、あまりに憂鬱すぎて知らず知らずに白昼夢でも見ているのだろうか。
現実逃避が極まりすぎてリアルすぎる幻と会話していたのだろうか。
そんなあり得ないことを考えながら、自分の頬を抓ってみようとしかけて止めた。氷坂さんの凜とした芯のある声が幻なんかであったはずがない。
ひとまずはパートナーの問題は解決したものの、氷坂さんに無理を言ってパートナーになってもらったことに変わりはない。なにしろ仮病で体育祭を休むつもりでいたくらいなのだ。
昨日の介抱のお礼とはいえ、本当は氷坂さんが嫌がっているのではないだろうかと不安になって気が気じゃなかった。
見上げた空は私をからかうみたいに快晴なのに、もやもやとした気持ちが晴れることはなかった。




