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「……ん」
さすがに違和感を覚えたのか、それともくすぐったかったのか、氷坂さんがわずかに身動ぎして頭を動かした。
私は弾かれたみたいに氷坂さんの髪を撫で付けて、まるで堪能するみたいに指先を這わせて触れ続けていた耳を隠した。慌ててほんの少し触れただけの髪は、そちらはそちらでしっとりと滑らかな手触りで指先から緊張が走るほどだった。
どこをどう触れても精緻な陶磁器みたいに肌触りが良くて、当たり前なのだろうけれど美人はどこのパーツだけ切り取ってみても全てが優れているんだなと溜息がこぼれた。
比べたって仕方ないし比べることがおこがましいのだけれど、私の髪は氷坂さんみたいに綺麗じゃなかった。
そっと触れて指で梳いてみた自分の髪は、中学生の頃からずっと変わらない肩先にかかるくらいのボブで、毛先に向かうほど変な癖が付いて内に外にと跳ねている。
たったいま触れた氷坂さんのさらさらな手触りとはぜんぜん違っている。どうしてわざわざ比べたりしてしまったのだろう。わかりきっていることなのに律儀なほどきちんと後悔してしまう。
気を取り直すみたいに小さく息を吐いて、氷坂さんのお腹を撫でることに集中した。
弱って抵抗できない人を蹂躙するみたいな行動を心の中で恥じた。
日直をすっぽかす格好になってしまい相手の男子に申し訳ない気持ちになりながら、勝手に耳とピアスに触れた罪滅ぼしみたいな気持ちで氷坂さんの細いお腹を撫で続けた。
それから一時間くらいそうしていたと思う。細く瞼を浮かせて目を覚ました氷坂さんはほんの少しだけ表情に血の気を取り戻して見えた。
「……寝ちゃってた。起こしてくれて良かったのに、付き合わせてごめんなさい」
「え、あ、うん……」
ぽつりと独り言みたいに言いながら、氷坂さんは私の膝からゆっくり身体を起こした。それまで感じていた人の体温と重みがふいになくなり、なんだか寂しくなってしまう。
けれど氷坂さんはやっぱりまだしんどいらしく、膝から持ち上げた頭を今度は私の肩に預けてきて動かなくなった。
「わ、私だったら大丈夫だから……」
気にしないでそのまま休んでてと続けようと氷坂さんの手に触れると、その手はすごく冷たくてちっとも本調子ではないことを物語っていた。それなのに肩に乗せられた頭は熱でもあるのかと心配になるくらいあたたかい。
さっきまで氷坂さんの頭が乗っていた太ももが、ホームをゆるく吹き抜ける風に晒されて少し寒い。代わりにいまは、私の首に押し付けるみたいに預けられた頭があたたかい。わずかに甘いような、すごく上品ないい匂いがする。
「……私、やっぱり帰るわ、ありがとう佐倉由さん」
「えっ、あ、ううん……」
夢うつつで独り言を呟いているみたいに氷坂さんが口にした言葉に驚いてしまった。
私の名前を知っていた。しかもフルネームで。
ちゃんと自覚しているので自分で言うけれど、私はちっとも美人じゃない。
そんな勘違いをこれまでしたことさえない。たぶん、どこまでも平均的で平凡で、黙っていれば誰の印象にも残らないくらい地味で目立たないはずだった。そんな私の名前を、ほとんど対極に位置しているみたいな氷坂さんが口ずさんだのだ。
呆けたみたいな返事しか出来ず、かといってどうして私の名前を知っているのかなんて問い質せるはずもなく、いまさら私から話しかけるような話題もない。これだけ休んでも本調子には程遠く、やっぱり帰ると言う氷坂さんを引き留める理由もない。
けれど、ここまで一緒にいたのだから付き添った方が良いのだろうか。たまたま電車の中で隣り合って並んでいただけの、今日初めて言葉を交わしたクラスメイトでしかない私に、そこまでされるのは逆に迷惑だったりするのだろうか。
人との距離感が掴めず、測り方もわからないままぐずぐず考えているうちに、氷坂さんは私の肩に預けていた頭を持ち上げてしまう。
じんわりと感じていた肩のぬくもりが失われ、なぜだか名残惜しい気持ちになって追い縋るみたいに隣の氷坂さんを見遣ると、まっすぐに視線が絡んだ。
じっと私を見つめてくる氷坂さんの茶色く透ける瞳は、少しだけとろんとして熱を帯びているみたいに潤んでいた。
吸い込まれそうだと感じて身動ぎできなかった。ゆっくりと、改めて私にもたれかかってくるみたいに氷坂さんの顔が近付いてきた。
改めて私の肩にもたれかかるのかと思ったのも束の間、ほんのり薄く開いた花びらみたいな唇に目が奪われた。そのまま、釘付けになっていた氷坂さんの唇がわたしの唇に重ねられた。
――キスだ。
まるで何かの拍子についうっかりみたいに、軽く流れる動作でさらりと唇が触れ合った。
目の前、ものの喩えでもなんでもなく本当に目と鼻の先で起こった出来事に呆気にとられてしまう。
人間はあまりに驚きが勝ると状況が飲み込みきれずに気が抜けてしまうらしい。私だけかもしれないけれど、恥とか照れとか、そういった諸々の感情全てが抜け落ちたみたいに放心してしまった。
キス、と称して間違っていなかったと思う。
ほんのりと軽く唇を合わせる行為を終えた氷坂さんは、上目遣いで私を見つめ直すとハッとして両目を大きく見開き、顎を引いて顔ごと視線を逸らしてしまう。
「今度、お礼するから」
たったそれだけ言い捨ててベンチから立ち上がると、制服の皺を伸ばすみたいにしきりに押さえながら背を向けてしまった。
あまりに呆気にとられすぎて、見送るでもなく氷坂さんの後ろ姿をぼんやり見つめているとちょうどホームに電車が滑り込んできた。
覚束ない足取りのままドアに飲み込まれていった氷坂さんは私を振り返ることはなく、無慈悲に閉ざされたドアに背中を預けて走り去ってしまった。
まるで現実感のないまま見えなくなった電車を眺め、思い出したみたいに中途半端に立ち上がりかけて、崩れるみたいにベンチにお尻を戻した
すっかり乗客の姿のなくなったホームで、私は誰に釈明するでもないのに何食わぬ顔を作って居住まいを正した。
そしてやって来た次の電車に素知らぬ態度で乗り込み、シートに腰を下ろした。
ラッシュを過ぎた電車内は空いていて、利用していることを躊躇ってしまうみたいな罪悪感に晒された。
ひとまず、何度も繰り返して染みついた普段通りの行動を取らないと落ち着かなかった。いまさら慌てて学校に向かったって遅刻確定なのに。
電車の駆動音だけが鈍く響く車内で、いまこの瞬間まで私は夢を見ていたのだろうかと考える。
まさかそんなわけない、と思う。自信はないけれど、そんなわけない。と言い聞かせる。
だから氷坂さんからされたキスも、たぶん本当にキスされたんだろう。
生理痛の痛み止めが効いてきてぼんやりしていたんだろう。
氷坂さんは目を見張るほどの大人っぽい美人だから、きっと彼氏か誰かと勘違いしてうっかりキスしてしまったんだろう。
それに微熱だってあったに違いない。意識が朦朧としていたんだろう。もしかしたら目も悪いのかもしれない。だから目の前の人間が誰だか本当にはわかっていなかったのだろう。
そうに違いない。だって、ほんのわずかだけ触れた氷坂さんの唇はすごく火照って熱を帯びていた。
首筋と太ももにまるで火傷みたいにじんわりと残る氷坂さんの熱を思い出しながら、私は自分の唇をそっと指先で触れてみる。
指先が冷たすぎるのか唇が熱くなっているのかちっともわからなかった。
氷坂さん、ちゃんと無事に帰れたかな。学校に着くまでそんなことばかりが頭をよぎっていた。




