03 死んだ魚の眼
田中一郎には、昔から痛みというものがよく分からなかった。
まったく感じないわけではない。
転べば痛い。
ぶつければ痛い。
熱いものに触れば、ちゃんと熱い。
ただ、その程度が人とは少し違うらしい。
それを一郎が知ったのは、小学生の頃だった。
*
「おい、鉄人!」
校庭の向こうから声が飛んできた。
一郎は振り返った。
「何?」
「ちょっと来いよ!」
同級生の男子が三人、ジャングルジムの近くに集まっている。
一郎が歩いていくと、一人が地面を指差した。
「ここから飛べる?」
見ると、ジャングルジムの上を指差していた。
「飛べると思う」
「マジで?」
「うん」
「やってみてよ、鉄人!」
一郎は言われた通り、ジャングルジムへ登った。
てっぺんから地面を見る。
それなりに高い。
「おーい! やっぱ怖い?」
「別に」
「じゃあ飛べよ!」
一郎は飛んだ。
着地した瞬間、足の裏から膝へ衝撃が抜けた。
バランスを崩し、そのまま前へ転がる。
「うおっ!」
「すげえ!」
「マジで飛んだ!」
一郎は起き上がり、膝についた砂を払った。
「痛くねえの?」
「ちょっと痛い」
「それだけ?」
「うん」
「やっぱ鉄人じゃん!」
三人が笑った。
一郎も、少し笑った。
鉄人。
いつからそう呼ばれるようになったのかは覚えていない。
体育の授業で転んでも泣かない。
ドッジボールが顔に当たっても平気。
木から落ちても、少し休めば立ち上がる。
そんな一郎を見て、誰かがそう呼び始めた。
最初は嫌ではなかった。
みんなが面白がってくれる。
「鉄人!」
そう呼ばれれば、誰かが自分を見ている。
だから一郎も、自分が頑丈であることを少しだけ気に入っていた。
「一郎ー!」
校門の方から声がした。
一郎が振り返る。
母親が立っていた。
「お母さん」
「またそんなところから飛び降りたの?」
近づいてきた母親が、一郎の膝についた土を払う。
「大丈夫だよ」
「一郎の大丈夫は信用できないの」
「なんで?」
「痛いって言わないから」
「痛くないもん」
「そういうところ」
母親は困ったように笑った。
「帰ろ。お父さん待ってるよ」
「うん」
一郎は母親と並んで歩き出した。
途中で振り返る。
「じゃあな、鉄人!」
友達が手を振っていた。
一郎も手を振り返した。
「また明日!」
あの頃。
一郎はまだ、「鉄人」と呼ばれることを嫌いではなかった。
*
雨が降っていた。
どれくらい降っていたのか、一郎は覚えていない。
激しかったような気もする。
それほどでもなかったような気もする。
覚えているのは、車の窓を流れていた雨粒だけだった。
父親が運転していた。
母親は助手席にいた。
一郎は後部座席で、窓の外を眺めていた。
その先は、ところどころ抜け落ちている。
大きな音。
身体が浮いたような感覚。
何かが割れる音。
母親の声。
それから。
暗くなった。
*
それから、どれくらい経った頃だったのか。
一郎は、よく覚えていない。
ただ。
いつ頃からだったのか。
気づけば、一郎は一人でいることが増えていた。
「鉄人、サッカーやろうぜ!」
「今日はいい」
「なんで?」
「別に」
「鉄人!」
呼ばれても、振り返らないことが増えた。
誰かと喧嘩したわけではない。
嫌いな奴がいたわけでもない。
ただ、一人でいる方が楽だった。
そのうち、鉄人と呼ぶ人間も少なくなっていった。
*
中学生になった頃。
一郎は教室の窓際に座っていた。
外では運動部の声が聞こえている。
「田中ってさ」
少し離れたところから声が聞こえた。
「何?」
「あいつ、何考えてんのか分かんなくね?」
「あー、分かる」
「なんか気味悪いんだよな」
一郎は外を見たまま聞いていた。
「いつもぼーっとしてるし」
「笑ってるとこ見たことない」
「目、死んでるよな」
「死んだ魚みたい」
笑い声がした。
一郎は窓に映った自分の顔を見た。
確かに、笑ってはいなかった。
怒ってもいなかった。
悲しそうにも見えない。
ただ、自分の顔がそこに映っている。
死んだ魚。
一郎は少し考えた。
魚は死んだら、痛いのだろうか。
そんなことを考えているうちに、チャイムが鳴った。
それだけだった。
*
「田中」
「…………」
「おい、田中」
「…………」
「田中一郎君?」
「……あ、僕ですか」
「他に田中いねえだろ」
一郎が顔を上げる。
目の前には佐々木順平がいた。
「何ぼーっとしてんだよ」
「すみません」
「別に謝んなくていいけど」
コンビニのレジ。
いつもの時間。
いつもの場所。
順平は一郎の顔を覗き込んだ。
「寝不足?」
「いえ」
「じゃあ何考えてたの?」
一郎は少し考えた。
「……昔のことを」
「昔?」
「はい」
「何それ。気になるんだけど」
「大したことじゃないです」
「お前いっつもそれだな」
順平は笑いながら、自分のレジへ戻っていった。
一郎はその背中を見る。
『下手くそでファンもいねえけどさ』
昨日の言葉を思い出す。
『俺の演奏聴けば、魂みてえなもんは感じられるぜ』
「……魂」
小さく呟いた。
自分にも、そんなものがあるのだろうか。
一郎には、よく分からなかった。
ただ。
昔、自分が笑っていたことだけは。
まだ、覚えていた。




