02 変なヤツ
田中一郎は、変な奴だ。
それは前から知っていた。
いつもぼんやりしているし、話しかけても会話が続かない。休憩中は一人で飯を食って、バイトが終われば寄り道もせず帰っていく。
だから俺も、今までは特に気にしていなかった。
そういう奴なんだろう。
ただ、それだけだった。
でも、あの日。
俺は見てしまった。
走ってくる車の前へ、田中が迷わず飛び込むところを。
見ず知らずの子供を助けるために。
そして――。
「いらっしゃいませ」
あれから三日。
田中は何事もなかったように、俺の隣でレジを打っていた。
額には小さな絆創膏が一枚。
以上。
本当に、それだけだ。
「……なあ」
「はい」
「身体、大丈夫なの?」
「大丈夫ですよ」
「本当に?」
「はい」
「どっか痛かったりしない?」
「特には」
田中は客が買った弁当を袋へ入れていく。
「ありがとうございました」
客を見送り、また正面を向いた。
終わり。
「いやいやいや」
「?」
「なんでそんな普通なんだよ」
「バイトなので」
「そういう意味じゃねえよ」
やっぱり会話が噛み合わない。
俺は確かに見た。
田中の身体がボンネットへ乗り上げ、フロントガラスにぶつかり、道路へ投げ出されるところを。
救急車で病院へ運ばれたから、さすがに何かあると思っていた。
ところが検査の結果は、擦り傷と打撲。
翌日には本人から店長へ「次のシフトは普通に出られます」と連絡があったらしい。
普通じゃねえ。
絶対。
「お前さ」
「はい」
「昔からあんな感じなの?」
「何がですか?」
「頑丈なの」
「ああ」
田中は少し考えた。
「そうですね」
「そうですねって……どのくらい?」
「どのくらいと言われても」
「例えば、骨折したこととか」
「ありますよ」
「あるんじゃねえか」
「小学生の頃に腕を折りました」
「痛かったろ?」
「痛かったと思います」
「思います?」
「腕が動かしにくかったので病院に行ったら、折れてました」
「先に気づけよ!」
思わず声が大きくなった。
ちょうど店に入ってきた客が、こっちを見る。
「いらっしゃいませー!」
俺は慌てて頭を下げた。
隣では田中も普通に、
「いらっしゃいませ」
と頭を下げている。
何事もなかったような顔。
俺だけがおかしいみたいじゃねえか。
*
午後七時。
俺たちは順番に休憩へ入った。
バックヤードへ戻ると、先に休憩していた田中がパイプ椅子に座っていた。
膝の上にはコンビニのおにぎりが二つ。
鮭と昆布。
飲み物は水。
あまりにも面白みがない。
「お前、いつもそれ食ってない?」
「そうですか?」
「そうだよ。おにぎりと水」
「駄目ですか?」
「駄目じゃねえけど……飽きない?」
「別に」
田中は昆布のおにぎりを食べる。
俺も向かいの椅子へ腰を下ろした。
以前だったら、ここでスマホでも見ていた。
田中がいようがいまいが、わざわざ話しかけようとも思わなかった。
でも、今は違う。
こいつがどういう奴なのか、少し知りたくなっていた。
「田中」
「はい」
「お前、大学で友達とかいんの?」
田中の口が止まった。
「……いませんね」
「いないの!?」
「はい」
「一人も?」
「たぶん」
「友達にたぶんとかある?」
田中は少し考えてから、おにぎりを置いた。
「授業で話す人はいます」
「それ友達じゃねえの?」
「授業以外では話しません」
「ああ……」
なんとなく想像できた。
講義が終われば一人で教室を出て、そのまま帰る。
こいつなら普通にやりそうだ。
「じゃあ休みの日とか何してんの?」
「特には」
「ゲームとか」
「しません」
「映画」
「あまり」
「漫画」
「読みません」
「音楽」
「聴きますよ」
「おっ!」
ようやく出た。
「何聴くの?」
「店で流れてるやつとか」
「それ聴いてるって言わねえよ!」
田中が首を傾げる。
「聞こえてますけど」
「そういう意味じゃねえ!」
なんなんだ、こいつ。
話せば話すほどよく分からない。
でも、以前よりは少しだけ、この噛み合わなさが面白くなってきた。
「俺、バンドやってんの」
「そうなんですか」
「興味なさそうだな」
「いえ」
「じゃあ何のバンドやってるか聞けよ」
「何のバンドやってるんですか?」
「言わせんなよ!」
「……難しいですね」
「何が?」
「会話が」
「俺も今そう思ってたよ!」
思わず笑った。
田中は俺を見ている。
相変わらず、ぼんやりした顔。
でも一瞬だけ、その口元が緩んだような気がした。
「お前、今笑った?」
「笑ってません」
「いや、笑っただろ」
「気のせいです」
「絶対笑ったって!」
田中は何も答えず、残っていたおにぎりを食べ始めた。
逃げやがった。
「そういや今度ライブあんだけどさ」
「ライブ?」
「俺らの」
「ああ」
「一回来いよ、お前も」
田中がおにぎりを持ったまま止まる。
「僕がですか?」
「そう、お前」
「どうしてですか?」
「どうしてって……」
言われてみれば、別に理由なんてない。
こいつが音楽好きなわけでもない。
バンドに興味があるわけでもない。
俺だって、少し前まで田中とまともに話したことすらなかった。
それでも、なぜか誘ってみたくなった。
「まあ、いいじゃん。一回くらい」
「はあ」
「俺らさ、ぶっちゃけ下手くそなんだよ」
「そうなんですか」
「そこは否定しろよ」
「聴いたことないので」
「正論だな!」
また笑ってしまった。
「ファンもほとんどいねえし、ライブやったって金になんねえ。むしろ赤字」
「では、なぜ続けてるんですか?」
「好きだから」
田中が俺を見る。
さっきまでと少し違う目だった。
「それだけですか?」
「それだけ」
「お金にならなくても?」
「ならなくても」
「上手くいかなくても?」
「今んところはな」
田中は黙った。
「……それでも、続けるんですか?」
「続けるよ」
「どうしてですか?」
「だから、好きだからだって」
田中はまた黙った。
こいつには分からないのかもしれない。
金にもならない。
将来どうなるかも分からない。
上手くいく保証なんてどこにもない。
それでも好きだから続ける。
俺にとっては、それだけで十分だった。
「まあ、一回来いよ」
「……考えておきます」
「絶対来ない奴の返事じゃねえか」
「まだ分かりませんよ」
「じゃあ来い」
「考えておきます」
「頑固だな、お前」
俺は椅子の背にもたれた。
「下手くそでファンもいねえけどさ」
「はい」
「俺の演奏聴けば、魂みてえなもんは感じられるぜ」
田中の動きが止まった。
「……魂?」
「おう」
「演奏で分かるんですか?」
「分かるっていうか……感じるんだよ」
「何を?」
「だから魂だよ!」
「よく分かりません」
「だろうな!」
俺は笑った。
田中は笑わなかった。
ただ、何かを考えるように、しばらく黙っていた。
*
午後九時。
バイトが終わり、俺たちは店を出た。
「お疲れ」
「お疲れ様でした」
田中はいつものように、一人で歩き出す。
「田中!」
呼び止めると、振り返った。
「ライブ、来いよ!」
「考えておきます」
「絶対来いよ!」
「善処します」
「それ来ねえ奴の言い方だろ!」
田中は軽く頭を下げ、そのまま歩いていった。
「ったく……」
俺も駅へ向かう。
どうせ来ないだろう。
そう思っていた。
*
田中一郎は、一人で夜道を歩いていた。
コンビニから自宅までは、歩いて十五分ほど。
いつもと同じ道だった。
いつもと同じ時間。
特に変わったことはない。
なのに。
『好きだから』
さっきの佐々木の言葉が、なぜか頭に残っていた。
『俺の演奏聴けば、魂みてえなもんは感じられるぜ』
「……魂」
一郎は小さく呟いた。
よく分からない。
好きだから続ける。
上手くいかなくても。
お金にならなくても。
それでも続ける。
自分には、そういうものがあっただろうか。
少し考えた。
思いつかなかった。
「……よく分からないな」
一郎は再び歩き始めた。
数歩進んでから、ポケットの中のスマートフォンを取り出す。
画面を開く。
少し迷ってから、メモを起動した。
佐々木が休憩中に話していたライブの日付。
場所。
時間。
一郎はそれを入力した。
保存する。
そしてスマートフォンをポケットへ戻した。
行くかどうかは、まだ決めていない。
ただ。
消してしまおうとは、思わなかった。




