01 僕なら平気です
俺の名前は、佐々木順平。
二十三歳、フリーター。
週に三日、夕方からこのコンビニでバイトをしている。
空いた時間には仲間とバンドをやっているが、そっちの収入は今のところゼロ。むしろスタジオ代やらライブ代やらで金が出ていくので、何のために働いているのか分からなくなる時がある。
まあ、それでも好きでやっているんだから仕方がない。
そんな俺には、なぜかやたらとシフトが被る男がいる。
田中一郎。
確か二十歳の大学生だったと思う。
思う、というのは、俺がこいつのことをほとんど知らないからだ。
「田中」
「…………」
「おい、田中」
「…………」
「田中一郎君?」
「……あ、僕ですか」
「他に田中いねえだろ」
レジの隣でぼんやりしていた田中が、ようやく俺を見る。
別に寝ていたわけじゃない。
仕事をサボっていたわけでもない。
ただ、ぼーっとしていた。
田中はいつもこんな感じだ。
仕事は普通にできる。レジも打てるし、品出しもする。客に聞かれれば商品の場所だって案内するし、「いらっしゃいませ」も「ありがとうございました」もちゃんと言う。
愛想はないが、態度が悪いわけでもない。
ただ、何を考えているのか分からない。
「今日、九時までだっけ?」
「はい」
「俺も九時まで」
「そうですか」
「……それだけ?」
「はい」
会話終了。
いつもこんな感じだ。
別に嫌われているわけじゃないと思う。
たぶん。
俺だけじゃなく、他のバイトが話しかけても大体こうだから、田中一郎とはそういう生き物なのだろう。
休憩に入れば一人で飯を食うし、仕事が終わればさっさと帰る。
大学で何を勉強しているのかも知らない。
趣味も知らない。
彼女がいるのかも知らない。
というか、こいつが誰かと楽しそうに喋っているところを、俺は一度も見たことがない。
かといって暗いわけでもない。
いつも眠そうな目をして、ぼんやりしている。
田中一郎。
名前まで妙に普通だ。
だから俺にとって田中は、よくシフトが被る変な大学生。
それ以上でも、それ以下でもなかった。
その日までは。
*
二日後。
俺は駅前のスタジオへ向かっていた。
夕方からバンドの練習が入っていて、背中にはギターを背負っている。
信号に捕まり、横断歩道の前で立ち止まった。
「暑っ……」
八月の夕方だというのに、まだ空気が重い。
Tシャツの首元を引っ張りながら、早く信号変わらねえかな、とぼんやり車道を眺めていた。
その時だった。
「あっ!」
誰かの声がした。
見ると、反対側の歩道から小さな男の子が車道へ飛び出していた。
転がったボールを追いかけたらしい。
男の子はボールしか見ていない。
その横から、車が来ていた。
「危ねえ!」
俺は叫んだ。
車のクラクションが鳴る。
男の子がようやく顔を上げた。
でも、遅い。
そう思った瞬間だった。
一人の男が歩道から飛び出した。
速かった。
男は走りながら子供の身体を抱え、そのまま反対側へ突き飛ばす。
子供が路上を転がった。
直後。
鈍い音が響いた。
男の身体がボンネットの上へ跳ね上がる。
「うわっ……!」
そのままフロントガラスへぶつかり、道路へ投げ出された。
車が急停止する。
悲鳴が上がった。
俺も反射的に駆け出していた。
「救急車!」
「誰か救急車呼んで!」
周囲から声が飛ぶ。
子供は泣いていた。
でも、自分で身体を起こしている。
問題は、車にはねられた方だった。
道路にうつ伏せで倒れたまま動かない。
まずい。
あれはまずい。
そう思いながら近づいて――俺は足を止めた。
「……え?」
見覚えがあった。
黒い髪。
細身の身体。
いつも見ている、どこか眠そうな横顔。
「田中……?」
嘘だろ。
いつも俺の隣でぼーっとレジを打っている、あの田中一郎だった。
「おい、田中!」
駆け寄ろうとした、その時。
「……ん」
田中が動いた。
両手を地面について、ゆっくりと上半身を起こす。
「お、お前……大丈夫なのか?」
俺が駆け寄ると、田中は声のした方へ顔を向けた。
いつもの眠そうな目が、わずかに開く。
「……佐々木さん!?」
珍しく声が上ずった。
「なんでここに……」
「いや、それはこっちの台詞だよ! つーかお前、今車にはねられたよな!?」
「はい」
「はいじゃねえよ!」
田中はその場に座ったまま、自分の身体を確かめるように腕や脚を動かした。
額の端が少し擦れて、そこから細く血が流れている。
Tシャツには道路を転がった時についたらしい汚れがある。
だが、それだけだった。
少なくとも俺が見た限り、それ以外に目立った怪我らしい怪我が見当たらない。
さっき、こいつは車にはねられた。
ボンネットに乗り上げて、フロントガラスにぶつかり、そのまま道路へ投げ出された。
それで――これだけ?
田中は自分の怪我より先に周囲を見回した。
「あの子は?」
「は?」
「さっきの子供です」
「あ、ああ……」
振り返る。
母親らしき女性が、泣いている男の子を抱き締めていた。
「大丈夫そうだ」
「そうですか」
田中はそれを聞いて、小さく息を吐いた。
そして何事もなかったように立ち上がろうとする。
「待て待て待て!」
俺は慌てて止めた。
「お前、今、車にはねられたんだぞ!」
「はい」
「はいじゃねえよ!」
こいつは何を言っているんだ。
田中は不思議そうに俺を見た。
「とにかく動くな。救急車来るから」
「でも、平気ですよ」
「どこがだよ! 血出てんぞ!」
「血?」
田中は額に手をやった。
指先についた赤いものを、しばらく眺める。
「……あ。本当ですね」
「今気づいたのかよ!」
「ちょっと擦ったみたいです」
「ちょっとって、お前……」
もう一度、田中の身体を見る。
どう見ても強がっているようには見えない。
痛みに耐えている様子もない。
本当に、何ともないような顔をしている。
「痛くねえの?」
「痛いですよ」
「だったらもっと痛そうにしろよ!」
「……そう言われても」
田中は困ったように首を傾げた。
「僕、昔から痛みには鈍いので」
「鈍いってレベルか、これ……?」
俺にはそうとしか思えなかった。
やがて遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた。
田中はそれを聞きながら、まだ納得していないような顔をしている。
「なあ」
「はい」
「なんであんなことしたんだよ」
「何がですか?」
「子供だよ。車来てただろ。普通、あそこに飛び込むか?」
田中は少し考えた。
まるで、質問の意味そのものを考えているようだった。
「だって、あのままだとあの子がはねられてましたから」
「だからって、お前が代わりにはねられることないだろ」
「でも」
田中は、当たり前のことを言うように続けた。
「僕の方が丈夫なので」
俺は何も言えなかった。
「子供がはねられるより、僕がはねられた方がいいと思います」
「お前な……」
「僕なら平気です」
そう言って、田中は額の血を袖で拭った。
「いや、平気って……」
「頑丈なだけが取り柄なので」
救急車の音が近づいてくる。
俺は目の前の男を見た。
いつもコンビニで隣に立っている、ぼーっとした大学生。
話しかけても会話が続かない。
何を考えているのかも分からない。
それなのに、見ず知らずの子供のために、迷うことなく車の前へ飛び出した。
田中一郎という男が、本当にただ頑丈なだけの変な奴なのか。
それとも。
別の何かが、こいつの中にはあるのか。
その時の俺には、まだ分からなかった。
ただ一つだけ確かなことがある。
その日から俺は、コンビニでいつも隣に立っているこの男を、少しだけ気にするようになった。




