幕間 クラリナ・カトレーヌ
お人形さん。お人形さん。
わたしは、わたしだけのお人形が欲しい。
だってお人形さんは、きっと痛いことも、苦しいことも、知らないままで壊れてくれるから。
眠る前の夜、クラリナはいつも母のことを思い出す。
今の家に養子として迎えられる前に共に暮らしていた、実の母親のことだ。
美しく、優しい人だったことを覚えている。夕焼けのような金色の髪に、穏やかな青い瞳。自分も母とお揃いの金色の髪が良かったのに、と、頬を膨らませて泣いたこともあった。
──クラリナは、ずっと後悔している。
あの時、母を楽にしてあげられなかったことを。
あれはクラリナが十歳の頃のことだ。クラリナが母と馬車に乗っていた時のこと。崖から崩れてきた岩が、運悪く馬車へと降り注いできた。
クラリナだけは、寸前で母に馬車の外へと放り出されて無事だった。けれど不幸なことに、母は岩の下敷きになってしまった。
でももっと不幸だったのは、母が一瞬で命を落とせなかったことだ。例えば、せめて頭を潰されていれば、母は苦しむ間もなく息を引き取っただろう。けれど岩が押し潰したのは母の下半身だけで、彼女は中途半端に苦しみを味わい続ける羽目になった。
「お。おかあ、さんっ。おかあさんっ……!」
「大丈夫、だいじょ、う、ぶ。よ」
そう言って母は、クラリナの髪を撫でて微笑んだ。
その時の彼女の苦痛がどれほどのものだったのか、クラリナは今でも知らないままでいる。けれど広がっていく赤い水たまりと、辺りに飛び散っていた彼女のひとかけらを思い出す度に、悔恨で息ができなくなるのだ。
幼い自分にも、できることはあった。命を救えないのなら、せめて楽にすることくらいはできたはずなのだ。
なのに自分はただ泣きじゃくって、冷たくなっていく母の手を握ることしかしなかった。
それからクラリナは、貴族の養子として迎え入れられた。母は元々上流階級の生まれだったらしく、クラリナの身には潤沢な魔力が流れていたのだ。
新しい家族は、決して悪い人たちじゃなかった。父も母も良くしてくれたし、兄たちも優しかった。けれど、やはり彼らとの間には見えない一線が引かれていて、完璧な家族にはなり切ることができなかった。
だからクラリナの遊び相手はいつもお人形だった。冷たくて、硬くて、何も喋らないお人形。そんな無機物を抱きしめていると、クラリナは酷く安心した。だって人形は、壊れても苦しい思いをしないだろうから。
「……きれい」
十五歳になった頃、クラリナは王立魔法士養成学園へと通うことになった。
そこでクラリナは、レイシアという少女と出会った。
否、出会ったというには一方的すぎるだろう。クラリナはただ、離れた所から彼女の姿を一目見ただけだ。けれどその一瞬で心を奪われた。
太陽のような金髪は、少しでも触れれば雪みたいに溶けてしまいそうだった。くるりと半円を描いた睫毛も、つんと尖った鼻先も、陶器のような唇も、まるで完璧に設計された人形のようだった。
その柔らかな髪の色が、どこか母を思い起こさせたことも、一目で彼女に心を射抜かれた理由の一つかもしれない。
けれど彼女はとても忙しそうで、いつも近寄りがたい雰囲気を放っていた。それに何故か学園に来ることも少なく、話しかける機会などなかった。いつか少しでも話せたらと淡い期待を抱いていたが、そんな望みは到底叶いそうにない。
などと、思っていたのだが。
意外にも彼女と関わる機会は簡単に訪れた。
というか、「一言でもいいから話してみたい」などと考えている場合ではなくなってしまった。
何せこの国は今現在とんでもない問題事に見舞われていて、彼女たちはその解決のために奔走しているらしいのだ。
クラリナがその事実を知ることができたのは、学園地下研究所のマルファン所長に頭を下げて頼み込まれたからだった。
「どうか、どうか、あなたのお力を貸していただきたい……!」
「え、ええと……。わたしの魔法が、お役に立てるのなら……」
あまりの勢いに面食らいつつも、クラリナはそう言って頷いた。
クラリナは植物に関する魔法を得意としていて、様々な植物を自在に生やしたり、操ったりできる。彼が言うには、その魔法が人工精霊の研究に役立つかもしれない、とのことだった。
正直に言って、全く頭が追い付かなかった。しかし、これが絶望するべき場面だということだけは理解できる。だって自分たち魔力持ちは、知らない間に魔法生物に身体を侵されていて、被害の拡大を防ぐために四年後には凍結されるらしいのだ。いつの間にか自分の終わりを勝手に決められて、それでも未来のために戦ってほしいと望まれているのだ。
けれど、クラリナは然程のショックを受けなかった。
それは多分、自分よりも余程過酷な道に向けて走り出そうとする彼女の姿があったからかもしれない。
レイシア。いや、今はミコトという異世界から来た少女の魂も、その身体に収まっているのだそうだ。
彼女たちには「死ぬと時間が巻き戻る」という魔法がかけられていて、だからこの国を救う方法を確立するまで死を繰り返し続けるつもり、らしい。
その計画を聞いた時には耳を疑った。いつ終わるかも分からないまま、自分から死を選び続けるだなんてどうかしている。死は、恐ろしいものなのに。死は、苦しいものなのに。
あまつさえ彼女は媒介体という体質で、毒も薬も効かないらしい。毒を飲んで、眠るように穏やかに死ぬことすら許されないのだ。
せめて、死ぬことが避けられないなら。せめて、同じ死なら──。
「──あ」
魔法とは、思いの力である。
基礎的な部分は学問的に体系化されていて、魔力持ちなら努力をすればある程度までは平均的に扱えるようになる。けれど結局の所は、術師の「意志の強さ」こそが魔法の原動力となっており、より強い願いや思いを抱える者ほど突出した魔法を扱える。だからこそ各々が得意とする魔法には、当人の抱える願いが反映されやすいのだ。
例えば、誰かの足を止めて自分を見てほしいと願うことだったり。
例えば、大切な人が死ぬ前まで時間が巻き戻ってほしいと祈ることだったり。
例えば──死にゆく人に、せめて苦しみから解放されてほしいと望むことだったり。
この世界には、亡くなった人に花を手向ける慣習がある。美しい花には死者の魂を癒す力があるとされていて、死の苦痛を和らげてくれるとされているのだ。
だからこそクラリナの身には、植物を操る魔法が宿ったのだろう。
けれどクラリナは知っていた。己の魔法が、単に儀式的な意味合いでの弔いで完結しないことを。自分の望みを、真の意味で叶えられるものだということを。
「っ、ぁ……、ぁ、どう、す、れば」
クラリナは悩んだ。
自分は彼女と友人でも何でもない。彼女からすれば自分は、ただの顔見知りでしかない。そんな相手から、突然こんな申し出をされても困るだけかもしれない。
けれど。
けれど、自分には、できる。
彼女を、苦痛のないまま、ただ眠るように殺すことができるのだ。
生物の命を吸って咲く花がある。その花は一瞬で生命力を吸い取るので、宿主は苦しみを感じる間もなく死んでいく。毒とは性質が異なるため、きっと彼女にも効くだろう。
それは道徳的に正しくない行為なのかもしれない。願いの結論が「人を殺す魔法」だなんて知られれば、嫌悪に満ちた眼差しを向けられるに違いない。
それでも、誰かの苦痛をただ見ているだけなんて耐えられない。
自分の手を汚してでも、苦しみを断ち切ることこそが救いではないのか。その勇気があったなら、母はあんな苦しみ方をせずに済んだのではないか。
「その必要はないわ!」
──そんな申し出は、きっぱりと断られた。
ミコトは何の迷いもなく、クラリナに拒絶を突きつけた。そうなることは薄々分かっていた。突然やってきた他人に、「あなたを楽に死なせてあげられる」なんて言われても、断るのが当然だろう。
それでもクラリナは、それこそが自分にできる最善だと信じていた。
「な、なら……。ミコトさんたちは、どうやって死ぬつもり、なんですか?」
「それは……。……。……」
彼女は眉間に皺を寄せ、腕を組み、頭を振り子のように動かした。
「……頭を、撃ち抜く、とか?」
「──」
クラリナは絶句した。
確かにそれは、一瞬で命を絶つ方法の一つなのかもしれない。でももし失敗して、長い苦しみを味わうことになってしまえば? 自分の命を自分で絶つという行為に躊躇わないでいられる保証なんてどこにもないだろう。
「わたし、なら」
それなら。
それなら、わたしが。
「わたしなら、絶対。苦しませずに、終わらせられます」
そうすれば、あの時の罪滅ぼしができるだろうか。
こんな自分でも、誰かの救いになれるだろうか。
「……駄目よ」
けれど、やっぱり彼女は首を横に振る。
彼女は目を細め、その唇に美しい微笑を浮かべて言った。
「楽に死ねたとしても、友人に手を汚させるのは気分が悪いもの」
「……ゆうじん」
クラリナは呆気に取られた。
「ゆうじん、なんですか。わたし」
「ええ。私にとっても、レイシアにとっても」
「……ともだち、だから。わたしには、殺させてくれないんですか」
「当然じゃない」
ミコトは、「どうしてそんな当たり前のことを聞くんだろう?」とでも言いたげに首を傾げた。
クラリナはその時初めて、自分はただ他人の苦痛から目を逸らしていただけなのかもしれないと自覚した。苦しんでほしくないのではなく、ただ「苦しんでいる所を見たくない」のかもしれないと。
彼女を苦しませずに死なせられたら、きっと自分は安堵するだろう。ただの人形になった彼女を見て、自分が苦痛から解放されたように思うはずだ。
ああ、でも。
『大丈夫、だいじょ、う、ぶ。よ』
あの時も、もしかしたら母は。
『──だいじょうぶ。あなたが、いて、くれるだけで』
苦しみから解放されたいだなんて、思っていなかったのかもしれない。この手を汚して苦痛を終わらせたとしても、喜ばなかったのかもしれないと、気が付いた。
それならきっと、クラリナに本当に必要だったのは、安心して抱きしめられる人形などではなく。
「……ここじゃない世界でも、わたしとお友達になってくれますか?」
そう尋ねると、彼女は花のように笑って言った。
「ええ。いつか何にも縛られず、沢山楽しい話をしましょうね」
涙が一筋、頬を伝った。クラリナはその雫を拭って、彼女と同じように笑ったのだった。




