第43話 無条件の信頼
「──何をしているの」
声が聞こえた。
夏の空のように清々しく透き通った声だ。
振り返るとそこには、長い金髪を頭の頂点で一つ結びにした美少女──ミコトが腕を組んで立っている。
ロザールも声の聞こえた方へと目を向ける。そして目を見開き、固まった。
彼女のあまりの美しさに言葉を失ったのだろう。彼が連れていた女たちですら、笑みを忘れて彼女の立ち姿に見入っている。
ミコトは迷いなく足を進め、ウォーレンの目の前で立ち止まった。
「もう。中々帰ってこないから心配したじゃない」
「ぁ……」
「それで……む。ちょっとあなた。これはどういうことなの」
彼女は片側の眉をピクリと上げた。
ウォーレンは、自分の心臓が低い音を立てて震えるのを感じた。肺の中が軋んでいるみたいな心地がする。言葉が小骨のように喉に突き刺さって出てこない。
するとその時、我に返ったらしいロザールが、二人の間に割って入った。
「君。この男と知り合いなのか?」
「……誰かしら」
ミコトがロザールに視線を向ける。彼女の赤い眼差しに答えるように、ロザールは髪をかきあげ、気障に笑った。その顔立ちは、彼の自信に比例する程度には整っている。ウォーレンはこの男の本性を知っているから「癪に障る顔だな」と思うだけだが。
「俺はロザール。フランギス男爵家の長男だ。君みたいに綺麗な女の子と出会えて嬉しいよ」
ロザールはミコトの手を取って、その手の甲に唇を付けようとする。が、ミコトは彼に触れられないようにさっと手を引っ込めた。
「……随分と礼儀知らずな男ね」
「おっと。もしかして照れてるのか? ハハ。見かけ通り、初心で可愛らしいな」
ミコトは顔だけをウォーレンの方に向けた。そして「この男は一体何なの?」という感情の込められた、本当に不可解そうな視線を送る。
ロザールの取り巻きの女たちは、はっとした様子で彼の腕を引き始める。彼の関心がミコトへと寄せられていることに気が付いたのだろう。けれどそんな彼女たちには目もくれず、ロザールはミコトへと無遠慮に詰め寄った。そして彼女とウォーレンを見比べて、明らかな嘲笑を口元に浮かべる。
「……ははぁ、成程。そういうことか」
「?」
「君、この男を下人として雇っているんだろう?」
彼はウォーレンを指さしながら、自信満々にそう言った。
ミコトは「はぁ?」と言って、眉間に皺を寄せる。しかしロザールは、そんな彼女の怪訝な表情を完全に見逃し、意気揚々と自分の推測を展開してみせた。
「見た所君は、それなりに裕福な生まれだろ? 俺にはよく分かる。その気品はただの平民には身につけられないものだ。それで、恐らく君はこの男の主人だ。恐らくは路頭に迷っていたこの男を、優しい君は同情心故に拾ってしまった──そうなんだろう?」
ウォーレンは横目でミコトの顔を見た。
彼女の赤い瞳は、触れれば指が張り付きそうなほどに冷たい色をしていた。
そんな彼女の前で、ロザールは哀れなものを見たような顔をして肩を竦める。
「だが、それは間違いだ。君はこの男のことを何も知らない」
「……はぁ?」
「──君は騙されているんだ!」
ロザールはミコトを指さした。
彼女はウォーレンに目を向ける。
「知らないようだから教えてあげるよ。その男は、盗──」
「ねえ、ウォーレン。これはどういうこと、と聞いているの」
「ど、どうって……」
「目を逸らさない。私、怒っているのよ」
「……その男は、昔領主の息子である俺に──」
「あなた、ちょっと黙っててくれる?」
「……はっ?」
「私は今、ウォーレンと大事な話をしているの」
本当に煩わしそうにミコトが言う。
これまでの人生で邪魔者扱いなどされたことのなかったロザールは、口を大きく開けたまま固まった。
ウォーレンが目を泳がせていると、ミコトはその頬をそっと両手で挟み、ウォーレンだけを視界に映す。
そうして彼女は、「信じられない!」とでも言いたげに眉を吊り上げて言った。
「──どうして! ハートのストローがついていないものを選んじゃったのよーっ!!」
彼女はぷりぷりと怒りながら叫んだ。
ロザールが目を見開いて「はっ?」と言う。
ウォーレンも一瞬何を言われているのか分からず硬直したが、彼女の言葉の先が店で買った飲み物を指しているのだと気が付き、拍子抜けした。
「え、ええ……? だってやっぱ、二人で一つの器を使うのって難しいだろうし……」
「それが醍醐味なの! 一つしかないカップを二人で仲睦まじく分け合うことにこそ意味があるのよ!」
「て、照れちゃうし……」
「あなたの! 照れた顔が! 見たかったの!」
子供のように駄々を捏ね始めるミコトに、ウォーレンはおろおろとして手と視線を揺らすことしかできない。
誰もがぽかん、と口を開けている。
とりわけ唖然としていたのはロザールだ。彼は目玉が零れそうなほどに瞼を上げて、それから小刻みに声を震わせた。
「な、なっ……ど、どういうっ」
「仕方がないから、このアイスを私にあーんする、ということで手を打つわ。さ、ウォーレン。行きましょ」
「ッ、まっ、待てッ!」
ロザールがミコトを呼び止める。
ミコトは眉を顰め、「もう、何よ」と言った。
「見て分からないかしら? 今デート中なの。邪魔しないで」
「は……はぁッ!? そっ、その男は使用人だろっ!?」
「何言ってるのよ。どこからどう見ても、私の未来の旦那様♡でしょ?」
ミコトはウォーレンの腕に抱き着き、両手でハートマークを作ってみせた。周囲に居た男たちは羨ましそうにウォーレンを眺めている。
「っ、その男はッ!」
ロザールが目を赤くして叫ぶ。頭に血が昇ったのか、彼の顔からはわざとらしい笑みが消えている。
身なりが良く美人な彼女が、よりにもよって見下していた自分に好意を向けているのが許せなかったのだろう、とウォーレンは思う。彼女に冷たくあしらわれ、彼のプライドは大いに傷ついたはずだ。こうなればロザールは、何が何でも自分を排除しようと躍起になるだろう。
「その男は! うちの領地の金を盗んで逃げたんだぞ!」
ビクリ、とウォーレンの肩が揺れる。
「その上罪を認めず、嘘をついてこの俺に罪を着せようとした大法螺吹きなんだぞ!?」
「──」
「何を吹き込まれたかは知らないが、君は騙されてるんだ! さっさと目を覚まして、その罪人から離れるべきだろうが!」
言い返したい。言い返すべきだ。なのに、言葉が出ない。何を言っても「嘘つき」と罵られた記憶が数秒前のことみたいに頭の中に蘇って、金縛りにあったように身動きが取れなくなった。
そんなウォーレンを指さして、ロザールは「黙っているのがその証拠だ!」と言う。
するとミコトは、ウォーレンの腕から手を離した。
「ウォーレン」
ウォーレンは恐る恐る彼女の顔を見た。
彼女の瞳には、軽蔑も、失望も、嫌悪も浮かんでいなかった。彼女は透き通った瞳で、ただじっとウォーレンだけを見つめている。
「どうなの?」
「……え」
「私にとって大事なのは、あなたの言葉。私が聞きたいのはあなたの声よ。……だから、教えて」
ミコトが問いかける。
「あの男は、嘘をついているの?」
盗みを働いたのか、ではなく。
本当にそんなことをやったのか、でもなく。
あなたは嘘をついたのか、でもなく。
「あの男は嘘をついているのか」と、彼女は尋ねてきた。
ウォーレンはロザールを見た。
彼の身体からは黒いヘドロのような何かが滴っている。これはウォーレンにしか見えない、嘘をついている人間の精神から溢れる澱みだ。彼はこれまでの人生において、一体どれほどの嘘を積み重ねてきたのだろう。そう思わずにはいられないほど、その黒い澱みは彼にべっとりと染み付いていた。
自分以外には見えないもの。誰にも信じてもらえないもの。
信じてもらえないから、何の意味もなかったもの。
だけど、今は──。
「──オレは、やってない」
ただ唇を震わせる。
「……あいつが、嘘をついてる」
そうして見えているものを、ありのままに言った。
「……そう」
ミコトが頷く。
「なら、それを信じるわ」
ほんの少しの迷いもなく、彼女は言い切った。
どうしてそこまで、とウォーレンは思う。
何故そんなにも無条件に信頼してくれるのかが分からない。だって彼女の中では筋が通っているのだろうその信用の在処を、ウォーレンは知らないのだ。
ウォーレン・グレッグ。お前は彼女に一体何をしてやれたというのだろう。
自分の知らない自分の積み上げた信頼に、どうすれば今の自分が報いられるのだろうか。
躊躇なくウォーレンを信じ切ったミコトに向かって、ロザールが血管の浮いた声で叫ぶ。
「なッ……な、何を、馬鹿なっ。そんな平民風情の言葉を、鵜呑みにすると言うのかッ!?」
「ええ。だって私、彼がどれだけ嘘をつくのが下手か知ってるもの」
「っ、ッ……あーあーそうか! ちょっと顔が可愛いからって調子に乗るなよ、馬鹿女……!!」
──今、この男は何と言ったのだろうか。
ウォーレンは彼の顔を凝視した。頭の中が真っ白になるのが分かる。自分が何か言われるのはまだいい。けれど、その悪意の先を彼女に向けるというのなら。
そうしてウォーレンが一歩前に踏み出そうとすると、彼女の白くて細い腕に制止された。彼女が目線で「待って」と訴えかけてくる。
そんなやり取りすら怒りで視界に入っていないのか、ロザールは顔を真っ赤にして好き放題にミコトを罵った。
「いいかッ、俺は貴族だぞ!? この俺に逆らったんだ、そのクズ共々まとめて処分してやる……!」
「……あなた、ロザール・フランギス、と言ったかしら。フランギス男爵家、ね」
「ああ? 今更ビビったか? だがさっきの不敬を取り消そうったって、そうは──」
「それは、フランギス男爵家から、我が公爵家に対する宣戦布告と捉えていいのかしら?」
「──へ?」
彼女の言葉を聞いた瞬間、それまで喚き散らしていたロザールが、一瞬で黙り込んだ。
彼は額に汗を浮かせて、「な、何を、馬鹿な」としどろもどろに言う。
「こっ、公爵家っ? そっ、そんな大物がこんな市街を歩いているはずがっ。で、出まかせを言うのも、いい加減に……」
「まあ、信じないならそれでもいいわ。別にあなたからの信用なんて欲しくもないし。ただ、覚悟はしておきなさい。フランギス領の金の流れについては洗いざらい調べておくわ。……、わたしたちは我がエルフェドール公爵家の名において、必ずやあなたの悪行を日の下へと引きずり出します」
浜に打ち上げられた魚のように、ロザールは口をはくはくと動かした。エルフェドール公爵家という名前には、流石の彼にも聞き覚えがあったのだろう。彼の顔は土色を通り越すほど悪くなった。
それにしても、今一瞬レイシアちゃんの方の人格が表に出てこなかったか? もしかして話を聞いていて堪え切れなくなったのだろうか。と、ウォーレンは黙って推察する。
しかしながら、ロザールは大変な相手に喧嘩を売ったものだ。公爵家の令嬢が護衛もつけずに街を歩くはずがない、その上ウォーレンのような平民を連れているはずがない、と自分の都合のいいように思い込んだのが仇となった。男爵家が公爵家に喧嘩を売るということがどれほどの大事なのか、平民生まれ平民育ちのウォーレンですら理解できる。しかもエルフェドール家はこの国の財務を担う大貴族なので、そんな大物に目を付けられたとなれば、これまでは隠し通せてきた悪事も丸ごと詳らかにされることだろう。事の重大さを理解したのか、ロザールは慌てて彼女に縋り始めた。
「ま、待てっ、いや、待ってくださいっ。ち、違うんです、これはっ、し、知らなかっただけでっ」
「後ろ暗いことが何もないのなら、精査されたとて問題ないはずよ」
「……なッ、なん、でっ」
ロザールは血相を変え、ミコトへと詰め寄った。万が一にも彼が凶行に及ばないように、ウォーレンはミコトの前に壁となって立つ。
ロザールを取り巻いていた女たちは、状況の不利を悟ったのか彼に近寄ろうともしなかった。
「どうして俺なんだ」と、ロザールは被害者のように叫ぶ。
「ッ、もっと悪い人間なんて、他にいくらでも居るだろう! そいつらを裁けよ! なのに、どうして俺がこんな……!」
彼が顔を覆って呻く。
ミコトは目を細め、「そうかもしれないわね」と呟いた。
「確かに、あなたよりタチの悪い人間は、他に居るのかもしれないわ」
「なっ、ならっ……!」
「だからこれは、純粋な私怨よ」
「……ぁ、えっ?」
「惚れた男を悪し様に言われてムカついたの。理由なんてそれだけ」
それから彼女はウォーレンの手を取って、「行きましょ」と清廉な声で言った。
ロザールはその場にくずおれて動かなかった。ウォーレンは彼の方へと一度だけ振り返って、その後はもう彼に目を向けなかった。
ウォーレンはしばらく黙ってミコトの後ろをついていった。彼女の足取りは普段通りに軽やかで、ウォーレンはその後ろ姿に見惚れた。
少し歩いた所で、ミコトが振り返る。
ウォーレンは彼女に問いかけた。
「……ミコトちゃんって、オレのことどんだけ知ってたの」
彼女は何度も同じ時間を繰り返している、らしい。故にウォーレンは、「それならオレの過去だってとっくに知られていたんじゃないか」と考えた。自分の知らない自分が彼女に全てを打ち明けていて、だからさっきも容易に信じてくれたのではないかと。
しかし彼女は、まるで拗ねているみたいに唇を尖らせた。
「……知らないわよ」
「え」
「だってあなた、自分のことは全然話さなかったんだもの」
ミコトはそう呟いて、ウォーレンの胸を軽く拳で叩いた。その瞳には溺れそうなほどの寂寥が滲んでいて、見ているだけで胸に鈍痛が走る。
「三年一緒に居て、一年一緒に住んでたのよ? なのに全然、自分のことを教えてくれなかった。私が聞いても、『面白くない話だから』って苦笑いするだけ」
「……そりゃあ、まあ、知られたくなかったんだろうね」
ウォーレンは腕を摩りながら呟いた。
その気持ちは理解できる。忘れたい昔話なんて、特に彼女には聞かせたくなかったのだろう。
ウォーレンが苦笑すると、ミコトは目を伏せながら言った。
「でも私、あなたのことなら何でも知りたかったのよ」
「……楽しくないことでも?」
「ええ」
「……つまんない話でも、いいの?」
「それがあなたの話なら」
──ウォーレンには、他人の嘘が見える。
だからこそ分かる。彼女の好意には嘘がない。彼女はずっと、心からの言葉をくれている。
失望されるのが嫌で嫌で、ならば初めから嫌われていた方がマシだと思う自分にとって、その温もりは恐ろしいものだった。
けれど、そんな臆病な自分すらも受けて入れてくれるというのなら。
「……や、オレ、滅茶苦茶ダセェな」
「そう? どこが?」
「結局ミコトちゃんに庇ってもらったとこ。オレ一人で何とかすべきだったのに、オレじゃ何も言い返せなかったし」
「そんなの、私だってレイシアの家名を使ったんだから同じことよ」
「レイシアちゃんはなんて?」
「“好きにやったれ”って」
「カッケ~……」
「いいじゃない。使えるものは何だって使えば」
ミコトが柔らかく微笑む。
彼女は空に向けて腕を真っ直ぐに伸ばし、それから背中側にその腕を回した。
「悪くないデートだったわ。あなたについて詳しくなれたし」
「……そう?」
「ええ」
「……それなら、よかった」
「あのウザ男は帰ってからきっちりと処罰しましょう。あなたの能力の見せ所よ? じゃんじゃん嘘を見抜いてちょうだい。証拠なら私が揃えるから。私、悪い貴族を相手にするのは慣れてるのよ」
彼女は金髪を風になびかせ、「そうそう」と思い出したように言った。
「悪徳貴族と言えば、そろそろね」
「? 何が?」
「もうすぐヴァージル侯爵一派が動き出す頃合いなのよ」
「ヴァージル侯爵って……」
ウォーレンが目を瞬かせると、ミコトは腕を捲って拳を突き出した。
「とりあえずまあ、ぶっ飛ばすべき相手ね」
と、勇ましい光を目の奥に宿しながら。




