第34話 ────どうして?
× 2 ×
目を開けると、そこには見覚えのある白い壁が広がっていた。
何が起きたのか分からなくて、わたしはしばらくの間、ただ瞼を上下させることしかできなかった。
「──ぁ?」
何故かわたしは実家の私室にいて、制服を着て、椅子に腰掛けている。
どうしてわたしはここに居るのだろうかと、わたしは自分の頭の中を探る。ついさっきまで何があったのかと、記憶の糸をぼんやりと辿って──。
「っ、あ」
全てを思い出した。
そうだ。わたし、わたしは。
わたしは、彼に、殺され、
「ッ、あ、ああああああああああああ!!」
その瞬間、わたしは金切り声をあげた。
椅子を倒し、床に転がり、血が滲むほど強く首を掻く。
ギリギリと食い込む爪の感触が、皮膚に焼き付いて離れない。
「あッ、ああああああッ、なん、なんでッ」
上手く息ができない。空気を吸い込めない。かひゅ、かひゅ、と喉が乾いた音を立てる。
何もかもが分からなかった。
彼に殺された理由も、殺されたはずの自分が、今こうして五体満足に生きているのも。
「なん、なんで、わたし、し、死んだんじゃっ」
理解ができない。
けれど確かに、わたしは今動いている。
わたしは必死で辺りを見回した。一体わたしの身に何が起きているのだろう。死後の世界にしては平凡すぎるし、走馬灯にしては長すぎる。
すると、部屋の外から慌てた様子の足音が聞こえてきた。
「──お嬢様っ!」
部屋の扉が開け放たれ、そこから顔色を悪くしたアンナが姿を見せる。
彼女は蹲るわたしを見て、顔を真っ青にして駆け寄ってきた。
「お、お嬢様ッ。どうされたのですかっ!」
「あ、アンナ……。なんで、アンナが、ここに?」
「えっ?」
そう尋ねると、彼女は目を見開き、それから殊更に気遣わしげな表情を浮かべた。
わたしの背を摩りながら、彼女は張り詰めた声で言う。
「お嬢様、落ち着いてください。もしや、どこかで頭を強く打たれたのでは? 先程の悲鳴も、もしやその時の?」
「……え?」
心の底からの心配を顔中に滲ませるアンナを見て、わたしはようやく少しの平静を取り戻した。
長く息を吸って、深く息を吐く。
そこでわたしは、肩の上を滑り落ちる自分の髪が、記憶にあるものよりも幾分か短いことにやっと気が付いた。
──彼に殺されたあの瞬間、わたしは三年前の世界に戻されたらしい。
わたしが殺されたという事実はどこにもなくなっていて、入学式の朝へと時間が巻き戻っていた。
あるいは、わたしがこれまで見てきた全てが、長い長い予知夢であった、という可能性もあるが──命を奪われたあの感覚を、ただの夢であると片付けることは難しい。
もしやこれは、神様が与えてくれたチャンスなのだろうか。
訳も分からないまま命を落としたわたしを哀れんだ神様が、もう一度人生をやり直していいのだと授けてくれた奇跡なのだろうか。
間抜けなわたしは、本気でそんなことを考えた。
──そうだとして、どうすればいいの?
わたしは、わたしを殺した彼の顔を思い浮かべる。
セオくん。セオドア・イリアス。
優しかったはずの人。愛おしかったはずの人。
大好きだった人。
わたしを、殺した人。
わたしは自分でも気づかない内に、彼の心を傷つけてしまっていたのだろうか。彼を凶行に走らせるほどの過ちを、わたしは犯してしまっていたのだろうか。
でも、もしそうでないとしたら。
わたしが彼を「優しい人」だと思い込んでいただけで、彼の本性が「ああ」なのだとしたら──。
「……ゔ」
思わず込み上げてくる吐き気をこらえるため、わたしは両手で口を押さえた。
彼との思い出が黒く塗り潰されていく。彼から受け取っていた優しさに、急に虫がわいたようだった。甘くておいしいと思って食べていたお菓子が、人の血肉で出来ていたと気づいたような気分だ。
わたしは彼の顔を脳裏から遠ざける。これ以上彼のことを考えたくない。考えてしまえば、心が歪んで崩れていくような気がした。
わたしは未来で彼に殺されるのだ、と言ったって、誰にも信じてもらえないだろう。もし仮に信じてもらえたとしても、今の時点で彼には何の罪もない。彼からすれば何一つ身に覚えのない話だ。それで今の彼を苦しめるのは、望む所ではない。
──彼とは関わらない。
それが、わたしにできる最善だろう。
彼には話しかけず、距離を取って、赤の他人として過ごす。そうすることで、彼に殺される未来は回避できるはずだ。
万が一、また彼に殺意を向けられるようなことになったとしても、警戒心を解かなければ、少なくとも前よりは対処できるだろう。
「……大丈夫かい? レイシア」
アイザックは「随分と顔色が悪いようだけど」と言って、わたしを思わしげに覗き込む。
──そうだ。わたしは決して、一人じゃない。
わたしを支えてくれる人が居る。助けてくれる人が居る。友達が居て、家族が居る。
頼れる人たちが居るのだ。
だから、大丈夫だ。わたしの心は、まだ形を保っていられる。
「……アイザックさま」
「うん?」
わたしは、彼の服の裾を握りしめた。
「……もし。もしこれからわたしが、危険な事や、恐ろしいことに見舞われて、どうしようもなくなったとしたら。──その時は、わたしを助けてくれますか」
わたしは彼に、縋るように言った。
彼は一瞬不思議そうに目を丸くして、けれどすぐに真剣な表情を浮かべ、「ああ。勿論だよ」と答えてくれた。
彼のことを信頼していた。
昔から、困ったことがあればすぐに手を差し伸べてくれる人だった。頼りになる兄のような人だった。
だから彼にそう言われて、わたしは心の底から安堵したのだ。
──どうして?
「君が──、君が、悪いんだ」
頭の中に、沢山の「どうして」が浮かぶ。
「ぼ、僕以外に、笑いかけて! 僕以外と話して! 僕以外と手を繋いで、僕以外と見つめ合って、僕以外に、僕以外に!!」
兄のように慕っていた人だった。
家族のように頼りになる人だった。
優しい人だった。
優しい人だと、思っていたのだ。
「僕だけを、僕だけを見てよ、レイシア!!」
涙を流しながら、目を血走らせてアイザックが叫ぶ。
プロムの夜、突然彼は豹変した。
それまで誰にも明かさず隠し持っていた狂気をおおっぴらに取り出して、わたしへと振りかざしたのだ。
わたしは冷たい床を這いずって、彼から逃げようと足掻いた。吐く息は雪のように白く、段々と手足の感覚がなくなっていくのが分かる。
氷の魔法は彼の十八番だ。けれどこれまで、それが誰かを傷つけるために振るわれている所なんて、見たこともなかったのに。
身体が動かなくなっていく。
分かっている。逃げ場なんてどこにもない。
まただ。
またわたしは、殺されるのだ。
「──どうして?」
何一つ分からない。
理解ができない。
わたしが殺されなくてはならない確かな理由があるのだとしたら、教えてほしい。
わたしに駄目な所があるのなら、治します。殺したいほど許せない所があるのなら、今度こそちゃんとします。
だから。
「────どうして?」
だから、教えてください。
わたしは、何か悪いことをしましたか?




