第33話 ──どうして?
神様、どうかお願いします。
わたしが何か悪いことをしたなら謝ります。謝りますから。
だからどうか、お願いです。
もう、わたしを終わらせてください。
× 1 ×
「ん、むぅ……」
わたしは窓ガラスを覗き込み、そこに映ったわたしと睨めっこをする。頬を引っ張って、眉間を指で揉んで、それから両手で顔を叩いた。拳を硬く握り、力を込めて息を吐く。
「よし!」
「──失礼します、お嬢様」
「っ、ひゃあ!」
そうして聞こえてきたノックの音に、私は過剰に驚いて、その場で高く飛び跳ねてしまった。
わたしは慌てて服の皺を伸ばし、自分の短い前髪を整え、振り返る。
「あ、アンナ。おはよう! あ。おはようと言っても、ついさっき食堂で顔を合わせたばかりなのだけど。ええと、ええと……」
「……お嬢様、もしかして」
指を突き合わせてぺらぺらと喋るわたしを覗き込んで、アンナは自分の口元をそっと押さえた。
「緊張、なさっていますか?」
「きっ、緊張っ!?」
「はい」
「そ、そんな! 緊張なんかしてないわ! だってわたしはエルフェドール家の娘だもの! たとえ今日が学園の入学式の日で、そこで新入生代表の挨拶を任されているからって、その重圧に負けたりなんかしてません!」
「お嬢様、目が泳いでいます」
「あ、あわわわ……!」
わたしは後ろ髪を引っ張って、それで自分の顔を隠した。
そんなに分かりやすかっただろうか。自分ではちゃんと、顔の後ろに緊張を引っ込められたと思っていたのだが。
わたしは身体を縮こまらせながら、「だ、だって……!」と呟いた。
「挨拶の時に嚙んじゃったり、足を滑らせて転んでしまったりしたらと思うと、胸の辺りがキュッとなるの!」
「大丈夫ですよ。そう心配せずとも、お嬢様はいつも、皆が見惚れるほど完璧な令嬢として振る舞えておりますから」
「……そ、そう、かしら?」
「ええ!」
「そう、よね! ふぅ、ふぅ……」
わたしは深く息を吸って、それから自分の口角を指でピンと伸ばした。
よし、もう大丈夫だ。アンナの励ましと深呼吸のお陰で、わたしの心臓を鷲掴みにしていた緊張が、ちょっと離れた所まで引き返していった。
「……そういえばアンナ。わたしに何か用事でもあったの?」
「ええ。もうすぐアイザック様がお迎えに来られることをお伝えに」
「あっ! そうだったわ!」
いけない。自室で蹲って、今日の式辞を繰り返し頭の中で読み上げている場合じゃなかった。
わたしはもう一度髪を整え直し、慌てて玄関へと向かう。
「あ、アイザックさま、ごきげんよう!」
「ふふ。そんなに堅苦しくする必要はないよ」
「いえ、アイザック……あっ! アイザックさまは、この国の王子殿下でいらっしゃいますし……」
失礼がないように丁重な礼儀で守りを固めていると、耐え切れなくなったとでも言うように、アイザックが「ぶはっ」と噴き出した。
「む、無理しなくてもいいよ。僕と君とは長い付き合いじゃないか」
「で、ですが、わたしももう十五歳で。子供の振る舞いが許されるような歳では……」
「僕は全く構わないのに。むしろ、昔みたいに“兄様”と呼んでくれたって……」
「そっ、その節はっ、大変失礼なことをっ!」
悪戯っぽく微笑みながら言われ、わたしは羞恥心と動揺に苛まれた。
煌めく銀髪と麗しい碧眼を持つ彼は、この国の第二王子であるアイザック・フォン・セルベルクその人だ。そんな彼とわたしは昔から親交があり、彼の言う通り、幼い頃はよく彼を「兄様」と呼んで慕っていたのだ。思い返すだけで照れ臭く、恥ずかしい。しかも彼とわたしとは同い年なのに。
「寂しいなあ。僕は今でも君のことを、実の妹同然に思っているのに」
「そっ、それはとても有難いことなのですが……!」
わたしは顔の前で手を振って、その手を膝の上で彷徨わせた。
何はともあれ、彼とのやり取りのお陰で、心の中に張り詰めていた糸が緩んでくれた。彼の手を取り、用意してくれた馬車へと乗り込む。
そうして馬車の外を眺めながら、わたしはこれから学園で過ごす日々に思いを寄せた。
「……アイザックさま」
「うん? どうしたのかな」
「友達は……歳の近い女の子の友達は、できるでしょうか……!?」
「勿論、君ならきっとできるよ」
× × ×
王立魔法士養成学園に入学してから分かったことは、わたしにはあまりにも魔法の才がないということだった。
座学は問題ない。授業内容は理解できる。だが、いかんせん実技がダメだった。
この身には潤沢な魔力が満ちている。が、それを全く生かせていない。正に宝の持ち腐れ状態だ。
わたしは「ううう……」と唸り声を上げ、教科書を抱きしめながら辺りを見回した。
「ふぁ~あ……」
隣の席では、眠たそうに、至極授業に興味がないという様子で、眼鏡をかけた緑髪の青年が欠伸をしている。とても、「魔法の実践についてのコツを教えてください」と聞けるような雰囲気ではない。
「レイシア様っ!」
「ひゃあ!」
すると、肩の上に温かい手のひらが触れる。
わたしは驚き、振り返った。
そこには桃色の髪と唇を持つ少女──クラリナの姿がある。
「びっくりした……どうしたの?」
「えへへ。レイシア様と一緒にお昼を食べたくて。お誘いに来たんです!」
わたしが目を丸くすると、彼女はそう言って悪戯っぽく舌を見せた。
彼女はわたしの友人。そう、友人なのだ!
これまで同世代の女の子が身近に居なかったわたしにとって、彼女は初めてできた同性の友達だった。甘い物の話や、綺麗なお洋服の話、それに恋の話まで。ずっと憧れていた「女の子らしいおしゃべり」を一緒に楽しめる相手ができて、心臓が跳ね回りそうな心地だ。
じんと痺れるような気持ちになりつつ、わたしは彼女の誘いに迷うことなく頷いた。
そうして食堂で彼女と共にご飯を食べながら、「もっと努力をしないと」と改めて思う。
この学園に入り、わたしは友人に恵まれた。とても素晴らしい友達ができた。しかも彼ら彼女らは皆すごく優秀な人たちばかりだ。
そんな人たちと対等に付き合うためには、もっと精進しなければならない。
「……よし!」
授業が終わり、一人になったわたしは、こっそりと裏庭に駆け込んだ。
そして教科書を開き、ぶつぶつと呪文を唱え続ける。何度も何度も。
「……また不発!」
しかし思うような結果が出ない。初級中の初級魔法、少しでも魔力を持つ者ならちょっと本を読んで呪文を唱えただけで出来るような魔法が、また失敗に終わってしまった。
わたしは肩を落とし、地面に生えた雑草を意味もなくぷちぷちと千切る。
一体何がダメなのだろう。わたしの練習の方向性が間違っているのだろうか。
そんなふうにため息をついていた、その時のことだった。
「っ?」
わたしは勢いよく後ろへと振り向いた。
背後の茂みがガサリ、と揺れたからだ。
わたしは目を見開き、その物音に向けて恐る恐る声を掛けた。
「だ……誰か、いるの?」
するとしばらく間を置いてから、一人の青年が姿を見せた。
綿毛のように白い髪をふわふわと伸ばした、綺麗な顔の男の子だ。その瞳は深い深い海の底のような色をしていて、でも目の下に濃いクマがあるのがちょっと心配になる。ちゃんと健康的に眠れているのだろうか。
そんな彼は猫のように背を曲げて、残像が見えそうなほどに落ち着きなく目を泳がせていた。
「……あ。ぁ、あ、の」
すると白い髪の青年は、開いた口の隙間から、ほとんど聞き取れないくらいに小さな音量の声らしきものを漏らした。
「……ぬっ。ぬ、ぬ、盗み見っ。してた、わけ、じゃ、ない、んだ」
彼は言葉を小さく区切りながら言った。
どうやら随分と緊張しているらしい。その証拠に、彼の身体は狼に睨まれた狐みたいにか細く震えている。手の甲は力を入れ過ぎて、白いペンキを塗ったみたいに血の気を失っていた。
「た、たまたまっ。通り、かかって。それでっ、な、何、してるのかな、って」
「……あなた」
「ふっ! 不快っ、だった、よねっ? ご、ごめん。も、もう、近寄らない、し。と、とにかく、ごめん……」
何故か彼はしきりに頭を下げている。謝る理由なんてどこにもないだろうに。
わたしはそんな彼との距離を詰め、彼の顔をじっと見つめた。
「っ? な、なん、」
そうしてわたしは気が付いた。
「……あなた、セオドアくん!?」
「っ、へっ?」
「この間の魔法実技試験で一番だったセオドアくんよねっ!?」
わたしは彼の手を握りしめた。
そうだ。いつも教室で俯いて本を読んでいたから、すぐに気付けなかった。
彼はセオドアくんだ。この間廊下に張り出されていた試験順位表で一位に載っていた人だ。
「う、ぁ。な、な、ん……」
動揺した様子で、彼は足を後ろに引きずった。
その赤と青の間を行き来する顔色を見て、わたしは自分が距離感を見失っていたことに気付き、我に返る。
「あっ、ご、ごめんなさい……!」
「い、いや、いい、んだ。全然、うん……」
──あ。どうしよう。
これってチャンスかも。
きっと彼は魔法に精通しているのだ。同い年とは思えないほどの天才なのだ。
そんな彼に話を聞けば、魔法を上達させられるかもしれない。
でも初対面の彼にそんなことを頼むだなんて、図々しい女だと思われるだろうか。けれどこの機会を逃せば、次はいつ彼と二人きりで話せるか分からない。
「あ……じゃ、じゃあ。あの、僕、寮に、戻る、から」
「っ! 待って!」
ああもう、なるようになれ、だ。
こちらに背を向けた彼の服の端を掴み、わたしは彼を引き留めた。
「せ、セオドアくんっ!」
「っ?」
「わ、わたしに……わたしに、魔法が上手く使えるようになる方法を教えてほしいの!」
そういう次第で、わたしは持っていた教科書を突き出しながら、意を決して彼にそう頼み込んだのだった。
× × ×
「セオドアくん!」
わたしは彼の姿を視界に入れるや否や、彼に向かって一目散に駆け出した。途中で少々躓きそうになりつつも、無事に彼の前まで辿り着く。
裏庭のベンチに腰掛けたセオドアくんは、読んでいた本を閉じて、わたしを優しくて柔らかい瞳で見つめた。
「ど、どうしたの、レイシア」
「あのねっ。あの、ねッ。けほっ、けほっ」
「お、落ち着いてからで、いいよ。僕は、逃げないし……」
「ふぅ。ふぅ。……あのね、セオドアくん!」
「うん」
「わたしね、ちょっとだけ前より上手く魔法が使えるようになったの!」
「そ、そっか」
「見ててね……」
わたしは手のひらを上に向け、目を閉じ、身体の中を巡る魔力に意識を集中させた。
そして長々と呪文を唱える。セオドアくんは口を挟まず、真剣な表情でわたしを見守ってくれている。
そうして呪文の詠唱を終え、わたしは鋭く目を見開いた。
するとポッ、という音が似合いそうな、小さな小さなか細い炎が、わたしの手のひらの上に浮かぶ。その炎は僅かな風に吹かれただけで呆気なくかき消えてしまったが、わたしは両手を挙げて喜んだ。
「ほら! 前より長く保っていられるようになったの!」
「す、すごい。天才だ。千年に一度の逸材だと思う。い、今すぐ何らかの名誉ある賞をもらうべきだ……」
「えへへ……」
セオドアくんは人を褒めるのが上手だ。
いつも優しいし、どんなにわたしが失敗しても怒らない。躓くと一緒にしゃがんでくれて、わたしが分かるようになるまで懇切丁寧に教えてくれる。
「セオドアくんの教え方が上手なお陰よ」
「そ、そんなこと、ないよ。君の、飲み込みが早い、から」
そんなふうに言って、わたしを褒めて伸ばそうとしてくれる。
こんなに謙虚で丁寧で、そして魔法の才能に秀でた人に、直々に教えを受けられるだなんて。わたしは自分の幸運を噛みしめ、けれど同時に胸の底がちょっと冷たくなるのを感じる。
「……レイシア?」
「っ、あ。ど、どうしたの?」
「す、少し、暗い顔をしてたから」
「そ、そう? 全然、そんなことない、けど……」
「レイシア」
真剣な声色で、彼に名前を呼ばれる。
わたしは湿っぽくなってしまった気持ちを誤魔化すことができず、彼の前でそれを静かにさらけ出した。
「……申し訳ないなって、思ったの」
「え?」
「セオドアくんの大事な時間、わたしのために沢山使わせちゃってるから。きっと、もっと他にやりたいこともあると思うのに」
わたしがこんな面倒なことを頼んでしまったがために、彼の貴重な時間をわたしへの指導に浪費させてしまっているのだ。わたしは彼から沢山のものをもらっているが、彼にとっては何の得もない。そんな不平等を改めて見つめ直し、自分への不甲斐なさに襲われる。
すると彼は、本当に予想だにしていないことを言われたという顔をして、「そ、そんなこと、思ってたの?」と呟いた。
「うん……」
「あ、あのさ」
「うん」
「ぼ、僕はね。君の、役に立ちたいんだよ」
「……役に?」
「うん」
セオドアくんは、自分の手のひらを見つめながら言った。
「ぼ、僕は、君の役に立てれば、それでいいんだ。それ以上に、大事なことなんてない」
「──」
「だ、だから。こうして、君のために、何かできているだけで。僕は、世界で一番、幸せだから……」
──どうして、そうまで思ってくれるの?
それって、わたしを特別扱いしてくれてる、ってことでいい?
なんてことを聞きたい。でも聞けない。
だって、「え? べ、別に、人として当然のことをしてるだけだけど……」だなんて返されてしまったら、羞恥心に殺されてしまうだろうから。
全部わたしの自意識過剰による勘違いかもしれない。彼の善意を都合よく解釈しているだけかもしれない。そう思うと、とてもじゃないけどそんな質問はできなかった。
ドキドキとうるさく鳴り響く心臓を服の上から押さえて、わたしは赤くなった顔を見られないよう、俯いて髪のカーテンを作る。
その髪の隙間から、彼の真っ白な横顔をこっそりと見つめながら。
× × ×
「おや。レイシア?」
「あっ。アイザックさま!」
「だから、様はなしにしてくれって」
苦笑しながら彼は言う。
街を歩いていると、偶然アイザックと出会ったのだ。わたしは丁寧に頭を下げて、「アイザックさまは、何をしておられるのですか?」と尋ねた。
彼の前には街の人々による列ができていたのだ。
炊き出しを行っているのかと思ったが、料理を配っている様子はない。ならば、彼は一体ここで何をしているのだろう。
「街の人たちに魔力を分け与えていたんだ」
「魔力を?」
「ああ。少しでも、この国の民たちのために出来ることをしたいと思ってね」
聞けば、彼の魔力は少々特殊で、どんな人にも適合できるのだそうだ。だから街の人々の健康促進のため、こうして魔力を施しているのだと。
アイザックは少々照れ臭そうにそう語り、それからわたしを見て、「そちらは……」と少し驚いたような様子で言った。
「もしかして、デートかな?」
「でっ、で、デートっ!?」
わたしは声をひっくり返した。自分の顔が瞬時に真っ赤になったのが分かる。
わたしは隣に立っているセオくんと自分を交互に指さし、それから手をぶんぶんと横に振った。
「そっ、そんなんじゃありません! た、ただ、セオくんはわたしの買い物に付き合ってくれてるだけで……!」
「そうなのかい? 随分と楽しそうだから、てっきりデート中なのかなと思ったんだけど」
彼は首を傾げながら言った。わたしは赤くなった耳を押さえる。
デートだなんて、そんな。確かに街へと誘ったのはわたしだし、「魔法の参考書を買いたいから」と言いつつも、彼と街を散策できることを期待していた面もあったけれど。少なくともセオくんにとっては、これはただの街歩きなのだ。
わたしは同意を求めるように、セオくんの方へと顔を向けた。
そして目を見開き、身体を固くする。
「うッ……うぶっ……」
彼が顔を空より真っ青にして、今にも身体の中のものを外へと吐き出しそうだと言わんばかりに口を押さえていたからだ。
「せっ、セオくん!? どうしたの!?」
「しっ、知らない、人、はなし、うぷっ……」
どうやらこの人混みと、初対面の人と会話をすることへのプレッシャーに圧し潰され、彼は船の上で長時間揺られるよりも気分が悪くなってしまったらしい。
わたしはアイザックに手を振って別れを告げ、人通りの少ない日陰へとセオくんを連れて行った。
「大丈夫? ごめんね、わたしが無理言って連れ出しちゃったから……」
「い、いや。君の、せいじゃ、なくて……」
セオくんは首を横に振って、俯きながら言った。
「め、目さえ、合わせなければ。だ、大丈夫、だから」
「そうなの……?」
「う、うん。それなら何とか、話せる。いや、進んで話したくは、ないんだけど……」
彼はボソボソとそう呟いた。
わたしは彼への配慮が足りなかったことを自省しつつ、「ん?」と心の中で首を傾げる。
「セオくん」
「うん……?」
「でも、いつもはわたしと目を合わせて話してくれるじゃない?」
わたしは目を瞬かせた。
彼はいつも、真っ直ぐにわたしの目を見て喋ってくれる。わたしが座っていれば一緒にしゃがんでくれるし、目の高さを合わせてくれる。その仕草がとても好きだったのだが、もしかしてあれは、無理をさせてしまっていたということなのだろうか。
そう尋ねると、セオくんは「それは違う」と間髪入れずに答えた。
それなら一体、と思いつつ、わたしは彼をじっと見つめる。
「だって──勿体ないから」
「え」
「君の目を見ずに話すなんて、そんな惜しいことはできない」
「へっ!?」
思わず声が一段高くなってしまうのも仕方がないだろう。
今の言葉は一体どういう意味だ。そのまま額面通りに受け取ってもいいのか。受け取った場合、わたしが大変なことになっちゃうけれど、それでもいいのか。
わたしはその言葉の意図をもっと深く知りたくて、彼の方へと勢いよく身体を向けた。
けれど、その先を聞くことはできなかった。
「……ゔっ」
何故ならセオくんが、「ぁ、限界……」と低い声で呟いて、そのまま意識を失ってしまったからだ。
わたしは「セオくん!?」と叫んで彼の肩を揺さぶったが、健闘虚しくその日彼が目を覚ますことはなかったのだった。
× × ×
わたしは幸せだった。
世界で一番幸福だったし、その温もりがこれからもずっと続いていくものだと信じて疑わなかった。
「お綺麗です、お嬢様」
目元に浮かんだ涙をハンカチで拭いながら、アンナがわたしを見つめて言う。
わたしは目の前にある巨大な鏡と、その中に映る白いドレスを着た自分を見た。
まるで花嫁が着る衣装みたいだ、と思って、それから慌てて首を横に振る。違う。違うのだ。別に、そういうわけじゃない。ただ、プロムに誘ってくれたセオくんに合わせただけだ。彼は新雪みたいに綺麗な白い髪をしているから、その隣に立つに相応しいドレスを選んだだけ。
──でも、プロムに誘うって、そういうことよね?
わたしはドレスの端を握りしめながら、期待に胸を破裂しそうなほど膨らませた。
彼は人混みが苦手で、催物が嫌いで、公衆の面前を憎んでいる。そんな彼が、プロムに誘ってくれたのだ。わたしをエスコートしたいと言ってくれた。しかも顔を真っ赤にして、だ。
それがどういう意味なのか、分からないほど鈍くはない。
──プロムが終わったあと、わたし、なにか言われるのかな。
手を取って一緒に踊ったあと、彼はわたしに何を言うのだろう。どんな言葉をかけてくれるだろう。
わたしも、彼に言っていいのだろうか。
自分の気持ちを、飾らないままに。
わたしは幸せだった。
これからの人生が、もっと楽しくて美しいもので彩られていくのだと、無条件に信じ切っていた。
そんな保証はどこにもないのに、何故だか自分の未来は綺麗なもので満ちているのだと思い込んでいた。
「──ぇ?」
だから自分が地獄に突き落とされるだなんて思ってもみなかったし、その地獄に底がないことも知らなかった。
それを知ったのは、もうどうしようもない暗闇の中に沈み切ったあとのこと。
「ご、ごめんね。苦しいよね。辛いよね」
「ぉ、ご、」
「ごめん。本当にごめん。すぐ、すぐに終わらせてあげるからね」
何故、彼は謝っているのだろう。
何故、わたしは彼を見上げているのだろう。
何故──わたしは、彼に首を絞められているのだろう。
「あ、ぁ゙、だす、げ、」
手足をぎくしゃくと揺らし、周囲に助けを求める。
でもわたしに手を差し伸べてくれる人はいない。
さっきまで賑やかだったはずの大広間には、わたしを押し潰すくらいに重苦しい沈黙が広がっていた。
「静かに、してもらったんだ。君との時間、邪魔されたくなかったから」
「っ、ひゅ、っ」
「ずっと、ずっと考えてたんだ。君を守る方法を。だから沢山練習台で実験もした。君に知られると、寝不足は身体に悪いって怒られるから、秘密にしてたけど……」
何を言っているのか、分からない。
一体彼は何の話をしているのだろう。
ねえ、どうして? なんで、わたしに苦しいことをするの?
ねえ、セオくん、なんで? わたし、あなたに酷いことした? あなたに嫌われるようなことをした? ごめんなさい。ごめんなさい。あなたに何かしてしまっていたなら、ごめんなさい。
「ぎ、ぃ、や、ぁ゙」
嫌。嫌だ。死にたくない。死にたくない。死にたくない。
ごめんなさい。殺さないで。ごめんなさい。ごめんなさい。許してください。ごめんなさい。ごめんなさい。
ごめんな、さ、──ぁ。
「────」
遠くの方で、彼が何かを呟いている気がする。
でも、もう聞き取れない。何も見えない。
苦痛さえ遠ざかっていく。恐怖すらも離れていく。考えていたことがバラバラになって、溶けていって、それでも終わりの終わりまで残ったものがあった。
上手く動かせているのかも分からない。
きっと声にもなっていない。
けれどどうにか唇を震わせ、最後に紡いだ言葉は、たったこれだけだった。
──どうして?




