第27話 がらがらがら
それから、一年の月日が流れた。
× × ×
「──んん」
カーテンの隙間から暖かい朝日が差し込んでくる。
小鳥のさえずりと共に私は目を覚まし、ベッドから身を起こした。寝間着を脱ぎ、白いシャツに袖を通してスカートを履く。
洗面所で歯を磨き、顔を洗っていると、キッチンから優しくて穏やかな朝食の匂いが吹き込んできた。
私は街の外れにある小さな白い家で、ウォーレンと共に暮らしている。
家は二人暮らしにちょうどいいくらいの広さで、近所の人たちは皆温厚で優しい。時々作った野菜をおすそ分けしてくれたりして、いつも助かっている。
家事は主にウォーレンが担当していて、朝目を覚ますといつも美味しい朝食が用意されている。彼は相当な朝型人間らしく、私よりも起きるのが早いのだ。最近は手作りパンにハマっているようで、毎日日替わりで異なる種類の焼きたてパンが食卓に並んでいる。
一年前までの奮闘が、まるで夢だったみたいに平穏だ。
誰にも殺されたくないと気を張っていたのが遠い昔のことに思えるほど、この生活は温かい。ずっと柔らかい毛布にくるまれているような心地がする。それくらいに幸せだ。
不満があるとすれば、やっぱりセオドアが一度も顔を見せに来ないことくらいだ。何度も手紙で『遊びに来い』と誘っているのに、帰ってくるのは事務的な返事ばかりだ。
「……やっぱり、真レイシアのことがあるからよね」
それこそが彼の心の一番多くを占めているのだ。彼女にこの身体を返さないことには、気兼ねない友人関係を続けることはできないのだろう。
彼曰く、理論的には精霊術の応用で、彼女の魂を引き上げることが可能らしい。だがそれを可能にするには、まだ私の技量が足りないようだ。しかし努力は私が最も得意とする分野だ。彼女の魂を目覚めさせることができれば、セオドアも顔を出さずにはいられないだろう。
「……ウォーレン?」
私は部屋の中を見回した。彼はどこに居るのだろう。こんなに美味しそうな朝食をほったらかしにして、また近所のおばさまにでも捕まっているのだろうか。それともこの間みたいに、私を驚かそうとして家のどこかに隠れている?
私は家中の扉を開けて、かくれんぼをする子供のように顔を覗かせた。
──私は、忘れていたのだ。
いや、忘れようとしていた。
だって、そうなってほしくなかったから。この穏やかな日々がずっと続いてほしかったから。
「全く。どこに居るのよ」
忘れていたかった。
──大好きな日常が壊れる時には、何の音も鳴ってくれないのだということを。
ギ、と床が軋む音がする。
それは人の足音だった。私は何も疑うことなく、それがウォーレンのものだと思った。
足音は後ろから聞こえてきた。だから私は振り返った。
そこに居たのは、確かにウォーレンだった。
──けれど、その振り上げたその手には、何故か包丁が握りしめられていて。
「──え?」
避けようと思えば避けられた。でも、身体が動かなかった。
理解ができない。訳が分からない。
……そんなことを、彼がするはずない。
理解をしたくなかった。
だって、私は、彼が、彼のことが。
「……、ぁ?」
背中に生温かいものが触れる。
刺されたのだ、と瞬時に思った。だって刃物を振り下ろされた。それで背中が温かいもので濡れたのだ。彼に刺されたと、そう思うのは当然だ。
けれど私は、それが錯覚だとすぐに気が付いた。だって、全く痛みがない。火傷したような熱さがない。私は刺されていない。
それなら、この感触は何?
「……ぐ」
彼が私の首元で呻く。私は彼に抱きしめられたような形になっていて、私の背で何が起きているのか見えない。
カラン、と乾いた金属音が鳴る。多分、包丁が床に落ちる音だ。
彼の首筋に浮いた脂汗を見て、私はようやく理解した。
彼が刺したのは、彼自身の手のひらだ。
「──ぁ」
ずるり、と彼がその場で膝をつく。思った通り、彼の左手にはばっくりと深い切れ目ができていて、そこから真っ赤な血が噴き出ていた。
「……ぁ、ぁ!」
治さ、ないと。今すぐ治さなければ。致命傷ではないにしろ、手に後遺症が残るかもしれない。私は精霊を呼び出し、治癒魔法をかけてもらおうと頼みかける。
けれどそれより先に、彼が傷のない方の手で私の服の端を掴んだ。
「聞、い、てく、れ」
「な……」
「オレの、傷、は、治さない、ままで、聞け」
ウォーレンの手が、私の腕を、痕がつくほど強く握りしめる。そのあまりに異様な気迫に、私は動きを止めて彼を見つめた。
「オレは、多分、なにかの、……精神、干渉、みたいなものを、受けてる」
「っ!」
「い、まは、痛みで、何とか。正気を、保ってる、けど」
彼の顔が歪む。痛みではない、何か別のものと戦っているみたいに。
「気を抜くと、……お前を、殺したくて、たまらなくなる……」
「──!」
「だか、ら。オレ。おれは、お前を。あれ? 違う、殺しっ、だって、お前が、オレにっ。あれ、なん、なんで?」
「……分かった、分かったから……!」
彼は酷く取り乱していた。目の焦点が合わない。私を見ているのに見ていない。彼は正気を失う一歩手前で、それを痛みで何とか繋ぎ止めているのだ。
──あ。いや。嫌だ。なんで。終わったんじゃなかったの。どうしてまた、同じことが起きるの。
心臓が喉元までせぐりあげてくる。息が浅くなって、頭の中が真っ白になる。
──だめ。落ち着け、私。
深く息を吸い込む。吐き出す。
そうだ。彼が私に刃を向けたのは、彼の意志によるものじゃない。何か別の力を受けているのだ。それなら、その何かを排除すれば、彼は元通りになる。
私は彼の腕を、自分の肩の上にのせた。
「ウォーレン。歩ける?」
「……あ、ああ」
「私の背に乗れる?」
「……だめ。首、絞める、かも、オレ」
「……分かったわ」
心臓が酷い音を立てる。何とか冷静になりたいのに、指先の震えが止まらない。
「王城に、行きましょう」
「……うん」
「何かあったら知らせろと、国王に言われてるの。あなたの異常の、原因を突き止めてもらえるかも」
とにかく、彼の身体に何が起きているのか調べてもらう必要がある。これまでのループでは、発狂した者に何が起こっているのか、直接調べる余裕がなかった。けれど今回のウォーレンは、まだ何とか踏みとどまってくれている。ならば、まだ希望はある。
「大丈夫。だ、だいじょう、ぶ」
声が上擦る。
自分に言い聞かせるみたいに言う。
大丈夫だ。まだ取り返しはつくのだ、と。
「大丈夫よ。な、なんとか、なるから」
玄関の扉を開ける。
外には雲一つない爽やかな青空が広がっていて、洗濯日和を絵に描いたような天気だった。穏やかで、暖かくて、気持ちのいい朝だ。
その太陽の眩しさが、私を追い詰める。
助け、ないと。彼を、早く。取り返しがつかなくなる前に。早く、早く。
「あ」
ふと、身体が傾いた。
私は、焦るあまり、躓いてしまったのかと思った。
けれど違う。私は誰かに身体を押されたのだ。
──誰に?
「……ぇ?」
地面を転がる。手をつき、振り返って、顔を上げる。
そこには、私に指先を向ける、街の住人の姿があった。彼の目に正気の光はない。まるで何かに操られているみたいだ。周囲を見渡すと、いつの間にかぞろぞろと、私の周りを街の人々が取り囲んでいる。けれど、誰も私を押せるような距離には居ない。
それなら──。
「……ウォーレン?」
私の足元に、何故か彼が倒れている。
地面に、何かが散らばっていて。何、だろう。多分、零れてはいけない、何かが。
……あれ。
どうして、彼のおなかに、大きな穴があいているんだろう。
「ぁ、ぁ、」
だめ。だめだ。血が。血が止まらない。彼の中身が零れていく。からっぽになっていく。やめて。嫌だ。やめて、やめてよ。
「うぉ、れ、」
「……ぁ」
彼の唇が、微かに動く。彼が、何かを言おうとしている。
喋らなくていい。これ以上喋ったら、余計に何かが失われていく。そう思うのに、でも、彼の声を聞かないわけにはいかなくて。
「……き」
一体、何を。
「──ながいき、しろよ」
……。
…………。
「……うぉーれん?」
呼びかける。
返事はない。
返事が、ない。
「……ねえ。ウォーレン、ってば」
呼びかける。彼の身体は動かない。
目線を上げる。私に向けて、水の弾が飛んでくる。飛んでくると分かっていれば、簡単に防げる。
これは、魔法だ。放っているのは、街の人たち。
本来ならば、扱えるはずがない。そもそも普通の人間は、魔力を持ってすらいないのだ。だから魔法なんて使えるはずがない。なのに、一体何故。
ただ、確かに言えることがあった。
ウォーレンは、私のことを庇ったのだ。私を突き飛ばして、それで、代わりに魔法を受けた。
彼だって、私への殺意に苛まれていたのに。
……あ、と思う。
頭の中で、何かが割れた。
ガシャン、と、ガラスが割れるような音が聞こえた。
それはもしかすると、頭のネジが外れてしまう音だったのかもしれない。頭の中にある枷みたいなものが壊れて、私は、その瞬間に自分の口内に指を突き入れ、何もない所を掴んだ。
それをずるり、と引き抜く。喉を冷たい鉄の感触が過る。
吐き気と共に引き抜いた剣を、私は宙へと突き立てた。
カチャリ。と、鍵が開くような音が鳴る。
──媒介体は、精霊を呼び出せる。だから一般的には、精霊術師、なんて呼び方をされることが多い。
けれど、この媒介体という体質の本質は、そこにはない。
あくまで媒介体は、「異なる世界と繋がる体質」のことを指すのだ。精霊術師と呼ばれているのは、数多くある異世界の中でも、とりわけ精霊の住む世界と繋がりやすいから。最も呼び出しやすいのが精霊というだけの話であり、つまり別の世界と繋がることさえできれば、「精霊以外」でも呼び出せる。
それなら、私が今呼び出したものは、何だろう。
自分でも分からない。でも、もう、何だっていい。
白い空を見上げながら、そう思う。
白い、白い、空。漂白したみたいに、色のない空。
その空の真ん中に、大きな目玉が浮かんでいる。白い空の切れ目が瞼みたいになっていて、その周りには、小さな目玉がいくつも輪を描くように並んでいた。それは、精霊とは到底呼べない何かだった。言うなれば、神に近しい何か。
巨大な目玉が瞬きをする。
その瞬間、光の雨が降った。
「──しんで」
それが自分の口から発せられた言葉だと気が付いたのは、再び私を魔法で撃ち抜こうと手を上げた男の頭を、光の雨が貫いた後だった。
男は自分の身に何が起きたのかも分からず、ただ目を見開いたままその場に倒れる。
周囲の人間は、誰もそのことを気にしていない。
ただ私を殺すことだけに頭を支配されて、私の元へと近づいてくる。
「──しんで、しんで、死んで死んで死んで!!」
光の雨が降り注ぐ。皆、糸の切れた人形みたいに倒れていく。
倒れた人の中には、見知った顔もあった。いつも挨拶をしてくれる人。この前野菜をくれた人。私に優しくしてくれた人たちを、私は呆気なく殺した。
邪魔を、されたくなかったのだ。
「なおって、治ってよぉ、お、お願い、だからぁ……!」
微精霊たちに、ウォーレンの治癒を頼む。
けれど微精霊たちは、どうすればいいのか分からないとでも言うように、ただ彼の周りをひらひらと回るだけだ。
分かっている。分かっているのだ。たとえ傷が塞がったとしても、もう意味はない。本当に大切なものが、もう身体から抜け落ちてしまっている。
「お、おいて、いかない、で……」
死体が積み重なっていく。それでも街の人たちは、その死体を踏みつけながら、私を殺そうと歩み寄ってくる。
光が降る。
光が降って。降って。降って。降って。
降って降って降って降って降って降って──。
静寂。
何の音も聞こえない。誰の足音も、声もない。
私は血の海の中で、ただウォーレンのことを見下ろしていた。
いつの間にか、光の雨は止んでいた。巨大な目は跡形もなく消え、空には青色が戻っている。
「…………」
彼の顔を、血のついていない手の甲で擦る。どうにか、せめて、綺麗にしたくて。
「……ウォーレン。私」
話しかける。
答えは帰ってこない。
当然だ。だって彼はもう死んでいる。
「私ね。妹が居ると、前に言ったでしょ」
彼へ向けた独り言を、邪魔する者は居ない。
「不思議なことだけど。こっちの世界に来てからも、何だかどこかで、妹が私を見てくれている気がしていたの」
それは、ただの気のせいなのかもしれない。
そうだったらいいのに、という願望が見せた錯覚なのかもしれない。だって、世界を隔てても大好きな妹と繋がっていられたなら、それ以上の幸せはないじゃないか。
でももしも、それが錯覚なんかじゃなくて、本当なのだとしたら。
本当に、妹がどこかで私を見てくれているんだとしたら。
「私は、お姉ちゃんだから。格好悪い所は、見せられないでしょ?」
私は、世界で一番のお姉ちゃんなのだ。
だから格好悪い所も、間違った姿も見せられない。私は妹が憧れられる、お手本でなくてはならないのだ。
そう思っていたから、頑張れた。諦めずにいられた。何とかしようともがき続けられた。
「……でも、私。私……沢山、殺して、しまった」
なのに、私は殺した。
手にかけた。命を奪った。
だって、許せなかった。好きな人を殺された。大事な人を奪われた。やっと手に入れた大切な日常を、また滅茶苦茶にされた。
死ねばいい、と思ってしまった。
皆、死ねばいい。私の大切なものを壊した全部が、跡形もなく壊れてしまえばいい。そう思った。だから殺した。
そんな私にはもう、胸を張る資格なんてない。
「私は……私には、もう……!」
もう、どうすればいいのか分からない。
ただ、置いて行かないでほしい。一人にしないでほしかった。
死んで、それで終われるなら、そうしたかった。けれど私は、どうせ死んだってまた戻るだけ。
戻った先で、もう一度立ち上がるなんて、もう。
だってそこに、私の知っている彼は。
「……?」
ふと、顔を上げる。
何か白いものが、私の元へと降ってくる。
──手紙だ。
私はそれを手に取り、折られた紙を開いた。
「──」
送り主の名は、セオドア・イリアス。
こんな送り方をしてくる人なんて一人しか居ない。だから、紙を開く前から分かっていたことではあった。
でも、今更何の用だろうか。今何を言われたって、私の頭には入らないだろう。けれど他に何をすればいいかも分からず、私は黙って視線を下とすしかできない。
そうして私はぼんやりと、その手紙に目を通した。




