第19話 きっと何も悪くない
レイシア・エルフェドール。
それはアイザックにとって、少なからず縁のある少女の名前だ。
彼女の家は代々王家に仕える大貴族であり、幼い頃にはよく王城の庭園で顔を合わせていたものだ。
彼女と初めて会った時のことはよく覚えている。幼い彼女は庭園に佇み、花弁で羽を休める蝶をじっと見つめていた。
星屑を散らしたような金髪の、ちょっと驚くくらいに美しい少女だった。
「ごきげんよう、アイザックさま」
彼女は同い年の少女だったが、アイザックにとっては妹のようなものだった。緊張した様子で声を上擦らせ、少し堅苦しいカーテンシーを見せた彼女の姿が、そう思わせたのかもしれない。
純粋無垢で、生真面目で、少し背伸びをしたところのある女の子。
それがアイザックにとっての、レイシアという少女だった。
自分よりもうんと優秀な、何をやっても敵わない双子の兄。そんな兄と、共感覚で繋がれた意識。毎日頭に直接突きつけられる、兄との違い。
父も母も、自分のような劣化品に構うことなどない。
誰も自分を見てくれない。
そんな色褪せた日々の中で、優しいレイシアとの交流は、唯一心休まる時間だったと言える。
彼女には、綺麗な自分を見てもらいたい。彼女の前では、頼れる人間でありたい。幼き彼女の、その何の毒も含まない純真な眼差しには、アイザックにそう思わせるだけの力があった。
それは、淡い初恋であったと言えるのかもしれない。
ともかく、彼女はアイザックにとって大切な少女であったのだ。
──けれど。
ちょうど、学園への入学日からだろうか。
レイシアは、目に見えてアイザックから距離を取るようになった。
いや、アイザックから、と言うのは間違いだ。
アイザックだけではない。周囲の人間との間に、目には見えない透明で分厚い壁を作るようになってしまったのだ。
氷の欠片が、彼女の心臓に突き刺さってしまったようだと思う。
誰にでも分け隔てなく優しく、身分を問わず穏やかに手を伸ばす彼女は、一体どこに行ってしまったのだろう。
レイシアが、自分に声を掛けてきた上級生を、「身の程を弁えろ」と言って突き放す瞬間を見たことがある。
確かに、身分差のある相手に無作法に話しかけることは無礼に当たる。その上級生に非がないとは言えない。だがここは魔法士養成学園だ。学内では基本的に、厳格な身分階級の格付けは行われていないし、どちらかと言えば立場より実力を重んじる風潮がある。
何より、昔の彼女ならば、そんなことを言うはずがないのだ。
一体、何が彼女を変えてしまったのだろう。
優しかったはずの彼女に、一体何が起きたのだろうか。
何か原因があるのなら、それを取り除いて、彼女の心を助けてあげたい。そして、元の心優しいレイシアに戻ってほしいと思うのだ。
──ある時から、彼女の周りにとある男が付きまとい始めた。
その男の名は、ウォーレン・グレッグという。
この学園に補欠で入学してきたらしい、平民の男だ。
いや、身分はどうだっていい。重要なのは、彼が嫌がるレイシアにしつこく纏わりついているらしいということだ。
それどころか、その男はレイシアを無理に自室へと連れ込んでいる、という噂まである。
……もしかすると、彼女が突然人が変わったように冷たくなったことに、何か関係があるのだろうか。
レイシアには、今も避けられ続けている。
彼女がそうしたいのなら、無理に近づくべきではないと思っていた。けれど、もう黙ってじっとしているわけにはいかない。
目立つ所で話しかけたとて、何の相談もできないだろう。アイザックはそう思って、彼女が一人になる機会を見計らった。
「──レイシア!」
人の居ない、階段の踊り場で、廊下の角を曲がってきた彼女に声をかける。
レイシアはギョッとしたように目を見開いた。宝石のような赤い目が、瞼の下から露になる。
こうして彼女と顔を合わせて話すのはいつぶりだろうか。アイザックはそう思い、不謹慎だとは分かっているが、胸を弾ませてしまった。もしかしたら、自分は彼女に話しかける動機を探していたのかもしれない。
「あ……。久しぶり、だね」
僅かに声が震える。アイザックは、けれどその緊張を顔には出さず、誰もが見惚れるような美しい笑みを浮かべた。
が、しかし、レイシアは──。
「……そう、ですね」
と他人行儀に一礼して、アイザックから顔を背けた。
そうして早足で自分の隣を通り過ぎていく彼女の手首を、アイザックは思わず反射的に掴んでしまう。
ただ、引き留めたかっただけなのだ。
もう少し話がしたかった。
「……何か、悩んでることがあるんじゃないか」
「──」
「僕を、頼ってはくれないか。君が、何か怖い思いをしているのなら……」
彼女の力になりたかった。頼りになる人だと、思ってほしかった。
彼女の心の拠り所になりたかった。
レイシアが振り返る。顔を上げる。
その瞳に浮かんでいたのは──。
──恐怖?
「え?」
アイザックの口から、間の抜けた音が漏れる。
するとレイシアは、パチン、と音を立てて、アイザックの手を叩き、振りほどいた。そして彼女自身も「やってしまった」とでも言うような顔をして、陶器のように白い頬を引きつらせる。
彼女は、確かに怯えていた。
他でもない、アイザックに対して。
──どうして?
怯えられる、心当たりがない。彼女に何かした覚えがない。でも確かに、レイシアは明確に拒絶していた。
アイザックは、彼女に掛ける言葉を見失った。
理由の分からない断絶が、彼女との間に横たわっていることを自覚した。
すると、その時。
「レ~イシアっ」
彼女の肩の上に、ぽん、と角ばった手が置かれた。
そうしてレイシアの背後からぬるりと現れたのは、背がやたら高く、蛇のように目つきの悪い男だった。
整った顔立ちをしているが、軽薄な笑みがそれを台無しにしている。黒縁の眼鏡の奥で、何か良からぬ企みを企てていそうな男である。
間違いない。これがウォーレンという男だ。
レイシアに付き纏っているという不届き者に違いない。
そんな、どう見ても軟派で胡散臭い男が、気安くレイシアの肩に手をのせているのだ。
きっと、彼女は恐ろしく思っていることだろう。
そう思ったアイザックは、彼女とその男の間に割って入ろうとした。その男から、レイシアを守ろうとした。
けれど、その時アイザックは見てしまったのだ。
「──」
強張っていたレイシアの顔が、彼を見た途端に緩む光景を。
それはまるで、怪物から自分を守りに来てくれた英雄を見るような眼差しだった。
その瞬間にアイザックは動けなくなって、唖然とした目をレイシアに向ける。
「……あ?」
するとウォーレンは、アイザックの姿を捉え、「うぉっ」と驚きの声を上げた。どうやらアイザックの存在に気が付いていなかったらしい。
彼は両手を挙げ、ちょっと焦った顔で言う。
「あ~。お取込み中か?」
「……いえ、別に」
「──。なら、ちょっとこっちに来れるか?」
「どうしたの?」
「セオが足攣って死にかけてんだよね。助けてやってくんない?」
「またやったの!? ほんっと仕方ないわね、あの鈍臭は……」
ぶつぶつとそう呟きながら、レイシアは彼の後ろについていく。
それから彼女はふと立ち止まり、アイザックの方へと振り返った。
いつからだろうか。彼女は長い髪を頭の上の方で一つに結ぶようになった。黒いリボンは彼女によく似合っていて、金色の滝のような髪が空気にとけるみたいに広がっている。
レイシアは少し眉を下げて、どこか物悲しそうな目をして言った。
「……あなたは、きっと何も悪くない」
何の話だろうか。
何の話かも分からないのに、何故だか、胸が苦しくなる。
彼女はそれだけを言い残して、ウォーレンと共に階段を下りて行った。
追いかけることはできなかった。追いかける権利が、きっとなかった。
彼女はきっと、そうされることを望んでいないだろうから。




