第九十九話 蒼月の涙
その夜、蒼月は荒野を走っていました。
人の姿のまま、月明かりの下をただ走っていました。
砂を含んだ風が頬を打ち、銀の髪を後ろへ流していきます。
その頬には、涙が伝っていました。
なんだ、これは。
どうしたらいい。
胸の奥が、焼けるように痛みました。
結婚式が終わった今夜は、リリアとラシードが初めて夜を共にする日でした。
その意味を教えてくれたのは、リリアでした。
ソフィアから教わったものとは、違いました。
愛し合う者が結婚し、初めて夜を共に過ごす日。
それを思った瞬間、また涙がこぼれました。
リリアが幸せになることを、望んでいたはずでした。
リリアが生きて、笑って、愛されることを、誰よりも願っていたはずでした。
どれだけ離れても、リリアの幸福な心の音が聞こえてきました。
そして胸の奥は、引き裂かれるように痛みました。
「おい、大地の」
空から声がしました。
蒼月は足を止め、荒野の中で振り返りました。
夜空の高みに、淡い光が浮かんでいます。
その光の中に、人の形がありました。
濃い紫の瞳は、夜そのものの色を宿していました。
髪は夜空のように深く、星を散らしたような細かな光をまとっています。
昼には空の色に、夜には夜の色に変わる、美しい空の柱でした。
「空の……」
空と呼ばれた者は、軽く手を上げました。
「久しぶりだな」
声は、遠い空の底から落ちてくるようでした。
蒼月は濡れた頬を拭うこともせず、その光を見上げました。
「おまえ、何をしている」
空の声は静かでした。
「呪いは解けたのだろう。なぜ宮へ戻らない」
蒼月は答えませんでした。
「地上のことは、眷属に任せればいい。そういう理だったはずだ」
「眷属は、いなくなっていた」
短く返すと、空の光が揺れました。
空は、思い出すように続けます。
「ああ、そうか。もともと一人しかいなかったな」
「おまえに付き従っていたやつは、ソフィアという女が死んだ時に、堕ちたぞ」
蒼月は、息を止めました。
「え……」
声が、かすれました。
「ヴァイドが、堕ちた……?」
「そうだ」
空の声には、余計な感情がありませんでした。
蒼月は、言葉を失いました。
千年前、自分のそばにいた眷属。
ソフィアが名付けた、ヴァイド。
その名が胸の奥に落ちた瞬間、蒼月の中で、冷たいものが広がりました。
「それより、大地の」
空の声が、蒼月を現へ引き戻しました。
「おまえ、人と魂が繋がっているぞ」
蒼月は、顔を上げました。
「……リリアのことか」
「名など知らぬ」
空の声は低くなりました。
「だが、おまえの魂に、人の魂が触れている」
蒼月は何も言えませんでした。
「おまえ、そんな状態で、その娘を失っても保てるのか」
「その娘の魂は、もうすぐ尽きるのだぞ」
蒼月の瞳が、大きく揺れました。
空の声が、荒野に響きました。
「眷属が落ちるのとは訳がちがうのだぞ。五柱の一柱が落ちるのはまずい。大地の理が揺らげば、世界そのものが崩れる」
蒼月は拳を握りました。
「だから地上に関わるなという理がある。おまえ自身が地上に縛られてどうする」
空の光が、夜の中で強くなりました。
「大地の。おまえが堕ちすれば、世界の五分の一を支える理が失われるぞ」
「その娘も、その娘が愛したものも、すべて消えてしまうのだぞ」
蒼月は黙っていました。
風が吹きました。
荒野の砂が、足元を薄く流れていきます。
「リリアは……」
蒼月の声は、かすれていました。
「リリアは、私の魂を繋いだ」
「それが危ういと言っている」
空の声は厳しく返しました。
「人は死ぬ。私たちとは違う」
蒼月の頬に、また涙が落ちました。
「知っている」
声が震えました。
「知っているのに、どうしたらいいのか分からぬ」
空はしばらく黙っていました。
蒼月は荒野の中に立ち尽くしていました。
月明かりが銀の髪を照らし、濡れた頬に白く光を残します。
やがて、空の声が落ちました。
「大地の」
蒼月は空を見上げました。
「宮へ戻れ」
「……」
「その娘から離れろ」
「では、なぜあの時、呪いを解いてくれなかったのだ」
「呪われ、封じられていても、おまえは存在していたからな」
空の声は、少しも揺らぎませんでした。
「他の柱も、同じように考えたのだろう」
蒼月は、すぐには言葉が出ませんでした。
「なぜ、空のは声をかけてくれたのだ」
空は、少しだけ沈黙しました。
「おまえのその顔を、見ていられなかった」
蒼月は、濡れた瞳で空を見上げました。
「私も、おまえより前に、人と関わりをもって痛い思いをしたことがある」
「人の時間は短い。それを知ったとき私は耐えられなかった」
「だから、もう二度と人の世に関わらぬと決めたのだ」
空の声が、夜風に混じりました。
「数千年前のことだ」
「そうか」
「だが、私は堕ちる前に引いた」
淡い光が、揺れました。
「大地の。引け」
蒼月の指が、強く握られました。
答えは出ませんでした。
ただ、胸の奥で繋がった魂だけが、遠く、震えていました。
「それに、あまり度が過ぎれば、理がおまえ自身を戻すぞ」
蒼月は、息を止めました。
「今持っている記憶も、気持ちも、すべて消える。以前のように、理を見守るだけの存在へ戻されるということだ」
「なら、どうすればいい」
蒼月の声が、震えました。
「宮へ戻ったところで、この気持ちは消えぬ」
空は、しばらく黙って蒼月を見下ろしていました。
「その娘との魂の繋がりを切れ」
蒼月の瞳が揺れました。
「できるだろう」
「できない」
迷いのない答えでした。
空は、困ったように目を伏せました。
「もう少しだけ、時間はある。心を整理するのだな」
「おまえが、堕ちることだけは、避けねばならぬ」
そう言って、空の光は天へ昇っていきました。
蒼月は、しばらくそれを見上げていました。
夜空に浮かんでいた淡い光は、雲の向こうへ溶けるように消えていきます。
残された荒野には、風の音だけがありました。
宮へ戻れ。
その娘から離れろ。
空の言葉が、胸の奥で何度も響きました。
けれど、そのたびに、リリアの魂が遠くで震えます。
細く、あたたかく、消えそうで、それでも確かに繋がっている光でした。
蒼月は、濡れた頬を拭わないまま、月明かりの下に立ち尽くしました。
整理をつける。
その言葉の意味を、まだ見つけられませんでした。
夜明け前、蒼月が離宮へ戻ると、入口の前にラシードが立っていました。
夜の冷えた空気の中で、ラシードは外套を羽織ったまま、こちらを見ていました。
蒼月の気配に気づいて、出てきたのでしょう。
蒼月は足を止めました。
涙は、まだ頬を伝っていました。
月明かりの名残を受けた銀の髪が、夜明け前の薄青い光の中で揺れていました。
ラシードは、その顔を見て、ふっと息を吐きました。
「……ひどい顔してるな」
蒼月は何も答えませんでした。
ラシードは、何かを言いかけて、やめました。
夜明け前の冷たい風が、肩にかけた外套の裾を揺らします。
そのまま、ラシードは一歩だけ蒼月へ近づきました。
「蒼月」
低い声が、落ちました。
「お前の心は、俺が受け止めてやる」
蒼月の瞳が、揺れました。
「それから、お前の面倒も、俺がみてやる」
「……ラシード」
「だから、泣くな」
蒼月は、唇を震わせました。
「無理だ」
あまりにも素直な答えに、ラシードは少しだけ困ったように笑いました。
「だろうな」
そう言って、ラシードは手を伸ばしました。
「ほら、こい。拭いてやる」
指先が涙を拭うと、蒼月の瞳から、また新しい涙がこぼれました。
「……止まらぬ」
「いい」
ラシードは、声を落としました。
「止まるまで、ここに一緒にいてやる」
蒼月は、濡れた瞳を伏せました。
「私は、宮へ戻れと言われた」
ラシードの指が、蒼月の頬に残った涙をぬぐいました。
「誰に」
「空のだ」
ラシードは、少しだけ眉を寄せました。
「帰りたいのか」
蒼月は、ゆっくりと首を振りました。
夜明け前の薄い光の中で、銀の髪が揺れます。
ラシードは、それ以上は聞きませんでした。
「じゃあ、ここにいろ」
その言葉は、命令のようで、ひどく優しいものでした。
蒼月は何も答えられませんでした。
ただ、また一粒、涙が頬を伝いました。
ラシードは小さく息を吐き、指先でそれをぬぐいました。
夜明け前の冷たい光の中で、ラシードは、泣き虫な神様のなみだをぬぐっていました。




