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銀狼物語 ~森で出会った銀狼と紡ぐ運命の物語~  作者: ななお
第一部 第五章 千年前の真実

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第九十八話 静かな夜の始まり

夜の帳が降りたころ、王都の空には、まだ祝いの花火が上がっていました。

淡い金と桜色の光が夜空に開いては消え、そのたびに、離宮の窓にもやわらかな明滅が映ります。


披露の席を終えたリリアは、湯殿でセシリアに身を清められていました。

桜の羽衣のベールも、白い婚礼衣装も、すでに丁寧に外されています。

湯を含んだ髪はゆるく梳かれ、薄衣だけを纏った肌には、まだ淡い湯の香りが残っていました。


セシリアは、最後までいつも通りに振る舞おうとしていました。

けれど、リリアの髪を梳く指先も、薄衣の襟元を整える手も、いつもより少しだけ丁寧でした。


「リリア様」


「はい」


「どうか、今夜は何も案じずに。お幸せでいてくださいませ」


その言葉に、リリアの胸が震えました。


「ありがとう、セシリア」


セシリアは深く頭を下げました。

それから、リリアをラシードの部屋へ案内します。


廊下は静かでした。

遠くから、花火の音と、王都の賑わいがかすかに届いています。

昼間あれほど多くの人に囲まれていたことが、今は少し遠い夢のように感じられました。


やがて、セシリアは一つの扉の前で足を止めました。

その向こうに、ラシードが待っている。

そう思っただけで、リリアの胸の奥で、鼓動が小さく跳ねました。


セシリアが、扉を叩きます。


「ラシード様。リリア様をお連れいたしました」


少しの間のあと、内側から扉が開きました。


ラシードが、そこに立っていました。

上着はすでに外され、昼間の礼装も少しだけ緩められています。

けれど、その瞳には、大聖堂で誓いを口にした時と同じ、静かな熱が残っていました。


リリアは、思わず視線を伏せました。


「リリア」


ラシードの声が、低く、やわらかく響きました。


セシリアは、ラシードへ深く一礼します。


「ラシード様。リリア様を、お願いいたします」


ラシードは、真剣な顔で頷きました。


「ああ」


セシリアはもう一度だけリリアを見つめました。

それから、音を立てないように扉を閉めます。


部屋の中には、燭台の灯りと、遠くで上がる花火の音だけが残りました。


ラシードは、しばらく何も言いませんでした。

ただ、扉の前に立つリリアを見つめていました。


薄衣を纏ったリリアは、昼間の花嫁姿とは違っていました。

桜のベールも、白い婚礼衣装もない。

けれど、湯上がりの濡れた髪が肩にかかり、白い夜着が燭台の灯りに淡く浮かび上がる姿に、ラシードは息を呑みました。


「……ラシード」


リリアが小さく名を呼ぶと、ラシードはようやく瞬きをしました。


「悪い」


低く言って、ラシードは少しだけ目を伏せました。


「見惚れてた」


その言葉に、リリアの頬が一気に熱を帯びました。


「そんなふうに、言わないでください」


「言わない方がよかったか」


「……わかりません」


リリアは視線を落としたまま、薄衣の前を押さえました。

花火の光が窓の向こうで開き、その淡い明かりが、彼女の横顔を一瞬だけ照らします。


ラシードは、ゆっくりとリリアへ歩み寄りました。

けれど、すぐには触れませんでした。


手を伸ばせば届く距離で足を止め、リリアの顔を覗き込むように、少しだけ身をかがめます。


「疲れてないか」


その声があまりに優しくて、リリアは胸の奥がほどけるような気がしました。


「大丈夫です」


「本当に?」


「はい」


リリアは小さく頷きました。


「今日は、嬉しいことが多すぎて……まだ、夢の中にいるみたいです」


ラシードの目元が、やわらかく緩みました。


「夢じゃない」


そう言って、ラシードは手を差し出しました。


「リリア」


リリアは、その手を見つめました。

昼間、蒼月に導かれて祭壇まで歩いた時のことが、ふと胸をよぎります。

蒼月の手から、ラシードの手へ。

あの瞬間、たしかに自分は、この人の隣へ進んだのだと思いました。


リリアは、ラシードの手へ自分の手を重ねました。


ラシードの指が、壊れものに触れるように、リリアの手を包みます。


「今日から、リリアは俺の妻だ」


低く落ちた声に、リリアは息を呑みました。


昼間、大聖堂で聞いた誓いの言葉とは違う響きでした。

公爵としてではなく、夫として。

誰にも聞かせるためではなく、リリアだけに向けられた声でした。


「……はい」


返事は、思ったよりも小さくなりました。

けれど、ラシードはその声を大切に受け取るように、微笑みました。


「怖くないか」


リリアは、すぐには答えられませんでした。

胸は早く鳴っていました。

頬も、耳も、熱くなっています。

けれどそこにあるのは、怖さではありませんでした。


戸惑い。

恥ずかしさ。

それから、目の前の人のそばにいたいという、消えない願い。


リリアは、ゆっくりと首を振りました。


「怖くは、ありません」


ラシードの瞳が、かすかに揺れました。


「でも、少しだけ……緊張しています」


「俺もだよ」


思いがけない返事に、リリアは顔を上げました。


ラシードは、困ったように笑っていました。


「情けないだろ」


「いいえ」


リリアは小さく微笑みました。


その答えに、ラシードの肩から、ほんの少し力が抜けました。

困ったようだった目元がやわらぎ、愛おしむような眼差しがリリアへ落ちます。


「少し、安心しました」


「安心?」


「ラシードも同じなのだと思ったら」


そう言うと、ラシードは一瞬だけ言葉を失ったようにリリアを見ました。

それから、深く息を吐きます。


「リリアには、かなわないな」


窓の外で、ひときわ大きな花火が上がりました。

白い光が夜空いっぱいに広がり、部屋の中を一瞬だけ明るく照らします。

弾けた光の尾が、壁にも、床にも、薄衣の裾にも淡く流れました。


その光の中で、ラシードはリリアの手を引き寄せました。

リリアは、一歩だけ彼に近づきます。


近づいた距離の分だけ、互いの息遣いが近くなりました。


ラシードの手が、リリアの頬へ触れます。

湯上がりの肌に触れた指先は、驚くほど慎重でした。


「リリア」


名前を呼ばれるだけで、胸の奥が熱くなりました。


「昼間、誓ったことは、全部本気だ」


リリアは、ラシードを見上げました。


「リリアが笑う日も、泣く日も、苦しい日も。俺は、その隣にいる」


静かな言葉でした。

けれど、どんな誓約の文よりも、深く胸に届きました。


リリアの瞳に、涙が滲みます。


「……私もです」


声は小さく震えていました。

けれど、そこには昼間の誓いと同じ強さがありました。


「私も、ラシードのそばにいたいです」


ラシードは、もう一度だけ息を吐きました。

それから、リリアの手を持ち上げ、その指先に唇を触れさせます。


リリアの睫毛が震えました。

触れられた場所から、あたたかなものが胸の奥へ広がっていきます。


遠くで、また花火が上がりました。

夜空に咲いた光が、窓辺の二人を照らします。


ラシードは、リリアの手を離さないまま、額が触れそうなほど近くで囁きました。


「今日は、リリアを泣かせたくない」


「もう、泣いてしまいそうです」


「それは困ったな」


そう言いながらも、ラシードの声はやわらかく笑っていました。


リリアも、小さく笑いました。

涙の滲んだ瞳で、けれど幸せそうに。


その笑顔を見た瞬間、ラシードはもう何も言えなくなったように、リリアを抱き寄せました。

リリアは、その胸に身を預けます。


ラシードはリリアの頬に触れ、唇を重ねました。

触れた唇はすぐには離れず、互いの想いを確かめるように重なり続けました。


昼間の拍手も、祝福の声も、王都の賑わいも、今は遠くにありました。


聞こえるのは、窓の外で打ち上がる花火の音だけでした。


そして、互いの胸の奥で重なる鼓動だけでした。

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