第九十七話 結婚式 誓いと祝福
王宮の大聖堂には、朝から静かな光が満ちていました。
ステンドグラスを通した色とりどりの光が、石畳の上に模様を描いています。
参列席には、グランヴァルドの貴族たち、サハルディアからのサフィーラ女王一行、そして近隣諸国から集まった使者たちが、席を埋めていました。
セシリアとミラは、リリアの控室で、最後の身支度を整えていました。
「リリア様、こちらをどうぞ」
セシリアが、ベールを掲げます。
淡い光をまとった桜の刺繍が、控室の灯りを受けて、揺れていました。
「……綺麗」
リリアは、鏡に映る自分の姿を見つめました。
白いドレスに、蒼月から贈られた羽衣のベール。
その組み合わせは、まるで最初からそのために誂えられていたかのようでした。
「泣かないでくださいね、セシリア」
「泣いておりません」
セシリアは、きっぱりと言いながらも、目元を拭いました。
ミラが、その様子に小さく笑います。
やがて、大聖堂の扉が開かれる時間になりました。
控室の扉が、叩かれました。
入ってきたのは、ハインリヒでした。
その傍らには、ヴィクトリア王妃がいます。
そして、その少し後ろで、リリアの母が立ち止まっていました。
花嫁姿のリリアを見た瞬間、母は言葉を失ったように、両手で口元を覆いました。
こらえようとした涙が、すぐに瞳の端へ滲みます。
「……リリア」
震える声で名を呼ばれて、リリアの胸がいっぱいになりました。
「お母さん」
母は何度も頷きました。
王都へ送り出した日の不安も、離れていた時間の寂しさも、今はすべて、目の前の白い姿に溶けていくようでした。
「綺麗よ。本当に……綺麗」
その言葉を聞いたリリアは、涙をこらえるように微笑みました。
ハインリヒも、花嫁姿のリリアを見つめたまま、息を吐きました。
いつも穏やかに整えられている表情が、揺れています。
「……綺麗だよ、リリア」
「父さま」
リリアがそう呼ぶと、ハインリヒは少しだけ目を伏せました。
それから、微笑みます。
「君を、娘として送り出せることを、心から誇りに思う」
ヴィクトリア王妃は、リリアの肩に手を添えました。
「行ってらっしゃい、リリアさん。今日は、あなたが誰よりも幸せになる日です」
リリアは、三人を見つめ、ゆっくりと頷きました。
「はい」
その声は小さく震えていました。
けれど、そこには確かな喜びがありました。
大聖堂の扉の前には、蒼月が立っていました。
人の姿のまま、けれど纏う空気だけは、どこか常人とは違う静けさを湛えています。
蒼月は、リリアの姿を見て、目を細めました。
「リリア、誰よりも綺麗だ」
その短い言葉に、リリアは胸の奥があたたかくなるのを感じました。
「ありがとう、蒼月」
蒼月は何も言わず、リリアへ手を差し出しました。
リリアは、その手に手を添えます。
扉が開き、リリアと蒼月が姿を現した瞬間、大聖堂の中に、小さなどよめきが広がりました。
白いドレスに、淡く光る桜のベール。
その隣を歩く銀の髪の青年は、まるで月光そのもののように静かでした。
リリアは、蒼月に導かれながら、ゆっくりと祭壇へ向かって歩き出しました。
一歩ごとに、参列者たちの視線が、優しく彼女を包みます。
祭壇の前まで来ると、蒼月は足を止めました。
蒼月は、リリアの手をラシードの方へ導きます。
ラシードは、その手を受け取りました。
蒼月は一歩下がり、二人を見守る位置に立ちます。
祭壇の前に二人が並ぶと、神官長が、口を開きました。
「本日、皆様ご臨席のもと、リリア・フォン・ヴァイスベルク公爵と、ラシード・アル=ハーリド公爵の婚姻の儀を、執り行います」
その声が、大聖堂に響きました。
「誓いの言葉を」
神官長が、二人を促します。
ラシードは、リリアの手を取りました。
その手は、震えていました。
「リリア」
ラシードの声は、これまでのどんな時よりも、まっすぐでした。
「私は、リリアの隣で生きると誓う」
その一言に、参列席から小さなざわめきが起こりました。
定型の誓いの言葉ではない、ラシード自身の言葉だったからです。
「リリアが笑う時も、泣く時も、怖い思いをする時も。私は、そのそばを離れない」
その言葉に、リリアの瞳が揺れました。
「これから先の時間の、全部を、リリアと生きたい」
リリアは、涙をこらえながら、頷きました。
「ラシード」
リリアの声も、震えていました。
「私は、ずっと、誰かのために生きてきました」
「けれど、今は違います」
リリアは、まっすぐにラシードを見つめました。
「私は、私自身の願いで、あなたのそばにいたいと思っています」
「あなたと生きた時間を、後悔しないように。最後の一日まで、笑っていられるように」
「だから、どうか、私と一緒にいてください」
その言葉に、ラシードの目が、大きく揺れました。
神官長が、頷きます。
「誓いは、確かに受け取りました」
そして、二人の手の上に、自らの手を重ねました。
「リリア・フォン・ヴァイスベルク、そしてラシード・アル=ハーリド。両名の婚姻を、ここに認めます」
その瞬間、大聖堂の中に、割れんばかりの拍手が沸き起こりました。
サフィーラ女王は、目元を押さえながら、微笑んでいました。
アレクシス王とヴィクトリア王妃も、深く頷き合っています。
ガレスとエレナ、ルークとナーディルも、参列席の中で、それぞれに笑顔を交わしていました。
「よかった……本当に、よかったです」
アステルが、隣にいたセシリアへ、小さく囁きました。
その時でした。
蒼月が、一歩前へ出ました。
「祝いとして、皆に贈るものがある」
その声は、大聖堂全体に、不思議なほどよく通りました。
蒼月が、天へ向けて、片手を掲げます。
次の瞬間、大聖堂の天井――否、その先にある空そのものに、巨大な金色の陣が描かれていきました。
幾重にも重なった光の紋様が、まるで生きているかのように、ゆっくりと回転しながら広がっていきます。
その輝きは、ステンドグラスの光すら、かき消してしまうほどでした。
「な……」
参列者たちが、次々と天を仰ぎました。
金色の陣の中心から、無数の光の粒が、降り注ぎ始めます。
それは雨のようでいて、雨よりもずっと優しく、まるで祝福そのものが、形を持って舞い落ちてくるようでした。
光の粒は、参列者一人ひとりの肩に、髪に、手のひらに、触れては、淡く弾けて消えていきました。
「あたたかい……」
誰かが、そう呟きました。
金色の光に触れた者たちの表情が、次々と、驚きから、静かな安堵へと変わっていきます。
まるで、長く抱えていた疲れが、溶けていくようでした。
「これは、加護だ」
蒼月は、降り注ぐ光を見上げたまま、言いました。
「この場にいる者、皆に。これからの日々に、幸多からんことを」
サフィーラ女王が、涙を拭いながら、小さく笑いました。
「すごい、祝福ですこと」
その言葉に、近くにいた貴族たちが、思わず笑い声を漏らしました。
光は、しばらくの間、大聖堂と、その周囲一帯を、包み続けました。
やがて、金色の陣が、ゆっくりと空に溶けるように消えていきます。
最後の光の粒が、リリアの手のひらの上で、弾けました。
リリアは、その光の余韻を見つめながら、隣に立つラシードを見上げました。
「綺麗でしたね」
「ああ」
ラシードは、リリアの手を、握り直しました。
「あいつらしい、派手な祝い方だ」
蒼月は、二人の方を振り返り、いつものように、少しだけ得意げな顔をしました。
「これくらいは、私にもできる」
その言葉に、リリアは、涙の残る顔で、やわらかく笑いました。
大聖堂の外では、王都中の鐘が、一斉に鳴り響いていました。
その音は、風に乗って、遠く、街の隅々まで届いていきました。
新しい誓いが結ばれた日を、国中が、祝っていました。
やがて、参列者たちは大聖堂をあとにし、王宮の大広間へと移っていきました。
大広間には、白い花と淡い桜色の布が飾られ、長い卓には祝いの料理と酒杯が並べられています。
高い窓から差し込む光は、先ほど大聖堂に降り注いだ金色の加護の余韻を、まだどこかに残しているようでした。
リリアとラシードが広間へ姿を見せると、待っていた人々から、あたたかな拍手が沸き起こりました。
「リリア様、ラシード様、ご婚姻、誠におめでとうございます」
最初に進み出たのは、ハインリヒでした。
その声はいつも通り穏やかでしたが、目元には、隠しきれない喜びが滲んでいました。
それから、公爵としての口上を脇へ置くように、少しだけ声をやわらげます。
「リリア、ラシード様、おめでとう」
「ありがとうございます、父さま」
リリアがそう答えると、ハインリヒは一瞬だけ言葉を詰まらせました。
けれどすぐに、柔らかく微笑みます。
「どうか、幸せに」
その短い言葉に、リリアは胸の奥がいっぱいになりました。
ヴィクトリア王妃は、リリアの手を包みました。
「本当に綺麗でしたよ、リリアさん。今朝も美しかったけれど、今はもっと幸せそう」
「王妃様……」
リリアが頬を染めると、近くにいたセシリアが、涙をこらえるように唇を結びました。
「本当に、おめでとうございます」
少し離れた場所では、ラシードの母が、二人を待っていました。
サフィーラ女王は、その少し後ろで、穏やかに様子を見守っています。
ナーディルやサライナの者たちも、その傍らに控えていました。
ラシードは、リリアを伴って母の前へ進みます。
「母上」
ラシードがそう呼ぶと、母はしばらく何も言えないまま、息子の姿を見つめていました。
サハルディアの公爵として礼装をまとい、隣には白い花嫁を迎えている。
その姿に、胸の奥から込み上げるものがあったのでしょう。
「……立派になりましたね、ラシード」
その声は、少しだけ震えていました。
ラシードは、いつものように軽く返そうとして、けれど言葉を選ぶように一度だけ目を伏せました。
「ありがとうございます、母上」
母はゆっくりと頷き、それからリリアへ視線を移しました。
「リリア様」
「はい」
「どうか、この子をよろしくお願いいたします」
リリアは、少し驚いたように目を見開きました。
それから、両手を重ね、深く頷きます。
「お義母さま、こちらこそ、よろしくお願いいたします」
母はその言葉に、ようやくやわらかく微笑みました。
「あなたが隣にいてくださるなら、この子も、きっと大丈夫ですね」
「母上、それはどういう意味ですか」
ラシードが困ったように笑うと、母は少しだけ目を細めました。
「そのままの意味です」
近くにいたナーディルが、堪えきれないように小さく笑いました。
サライナの者たちも、どこか胸を詰まらせたような顔で、ラシードを見つめています。
そこで、サフィーラ女王が歩み寄りました。
「よい式でした、ラシード」
「ありがとうございます、女王陛下」
ラシードは、いつもの軽さを少しだけ抑え、深く礼をしました。
けれど、顔を上げた時の目には、隠しきれない誇らしさがありました。
サフィーラ女王は、その表情を見て、やわらかく目を細めました。
「あなたがこのような顔をする日が来るとは、思っておりませんでした」
「それは、褒めてますか」
「もちろんです」
そのやり取りに、ナーディルが笑みをこぼしました。
やがて、楽師たちが弦を鳴らし、祝宴の音楽が広間に満ちました。
杯が掲げられ、祝いの言葉が交わされます。
近隣諸国の使者たちも次々とリリアとラシードのもとを訪れ、二人へ祝福を述べました。
その中で、蒼月は少し離れた柱のそばに立っていました。
人々の輪の中心に入ることはなく、けれどリリアの姿から目を離すこともありませんでした。
桜のベールを揺らしながら笑うリリアを見て、蒼月は目を細めました。
その顔は、どこか満たされていました。
「蒼月」
リリアが、ふと彼に気づいて近づいてきました。
ラシードも、その隣に並びます。
「来てくれないのですか」
「私は、ここで十分だ」
蒼月は淡く笑いました。
「おまえが笑っている。それだけでよい」
リリアは、少しだけ目を潤ませました。
けれど、今日は泣く日ではありません。
そう思ったように、リリアは涙をこらえて微笑みます。
「でも、蒼月にも一緒に祝ってほしいです」
蒼月はしばらくリリアを見つめていました。
やがて、小さく息を吐きます。
「ならば、一杯だけ付き合おう」
「一杯だけかよ」
ラシードが思わず笑うと、蒼月は涼しい顔で答えました。
「私が本気で付き合えば、酒蔵が空になる」
「……それは困るな」
ラシードが肩を揺らして笑い、リリアもつられるように笑いました。
その頃、王宮の外では、王都の広場にも人々が集まっていました。
大聖堂の鐘の音を聞いた者たちが、次々と通りへ出て、窓辺には灯りがともされていきます。
店先には花が飾られ、子どもたちは白いリボンを手に走り回っていました。
やがて、夕暮れが王都の屋根を淡く染め始めた頃、最初の花火が空へ上がりました。
ひゅう、と細い音が夜へ昇り、次の瞬間、王都の空に大きな光の花が開きました。
白と金の火花が、春を待つ空に広がります。
少し遅れて、歓声が街のあちこちから沸き起こりました。
大広間の窓辺にも、人々が集まり始めます。
リリアはラシードに手を引かれ、窓のそばへ歩きました。
二つ目の花火が上がります。
今度は淡い桜色でした。
空に咲いた光の花は、ほどけるように散り、夜の底へ消えていきます。
「……綺麗」
リリアが小さく呟きました。
「ああ」
ラシードは、隣に立つリリアを見つめました。
「今日の王都は、リリアのために咲いてるみたいだな」
「そんな、大げさです」
リリアは頬を赤くしました。
けれど、その目は花火の光を映して、幸せそうに揺れていました。
少し離れたところで、蒼月も窓の外を見上げていました。
夜空に咲いては消える光を、その蒼い瞳に映しています。
花火の音。
人々の笑い声。
杯の触れ合う澄んだ音。
王都に満ちる祝いの気配。
そのすべてが、リリアとラシードを包んでいました。
この日、王宮では祝宴が続き、王都では夜更けまで花火が上がりました。
春を待つ空の下で、街も、人も、灯りも、すべてが新しい誓いを祝っていました。




