第九十六話 結婚式の準備
年が明け、王都グランリューネには、新しい年を祝う鐘が鳴りました。
その年、リリアは二十二歳になりました。
ラシードも、セシリアも、ミラも、王宮に仕える者たちも、それぞれに新しい年を迎え、ひとつ歳を重ねました。
離宮では、アレクシス王とヴィクトリア王妃、ハインリヒ、セシリアたちが集まり、ささやかな新年の祝いの席が設けられました。
大きな宴ではありませんでしたが、あたたかな灯りと、穏やかな笑い声に包まれた時間でした。
「新しい年だな」
ラシードが、隣に立つリリアへ言いました。
「はい」
リリアは、少し照れたように微笑みました。
「私も、二十二歳になりました」
「そうだな」
ラシードは、その言葉をやわらかく受け止めました。
「俺もまた、ひとつ歳を重ねた」
蒼月は、しばらく二人を見つめていました。
「人は、こうして年を数えるのだな」
その声には、祝いだけではない響きがありました。
リリアはそれに気づきながらも、蒼月へやわらかく微笑みました。
「ええ。新しい年を迎えられるのは、嬉しいことです」
蒼月は、小さく頷きました。
やがて年明けの祝いが落ち着くと、王宮では結婚式の準備が本格的に動き始めました。
会議室には、いつもとは違う空気が流れていました。
卓上に広げられているのは、戦況を示す地図ではなく、招待客の名簿と、式次第の草案でした。
アレクシス王、ハインリヒ、そしてサハルディア側からはナーディルが、書類を挟んで向かい合っています。
リリアとラシードも、その場に同席していました。
「まず、式の規模について確認したい」
ハインリヒが、口を開きました。
「両国の関係を考えれば、小さな式では済ませられません。かといって、あまりに大々的にすれば、周辺国への配慮も必要になります」
ナーディルが、名簿に目を落としながら頷きます。
「サハルディア側からは、女王陛下ご自身が出席されます。それに伴う随行、警護の人数も決めなければなりません」
「グランヴァルド側は、主だった貴族を招くことになるでしょう。あとは……」
ハインリヒは、少し言葉を選ぶように間を置きました。
「近隣諸国にも、招待状を出すべきかと」
アレクシス王が、深く頷きました。
「先の戦で、援軍を送ってくれた国々だ。礼を欠くわけにはいかない」
リリアは、名簿に並ぶ数の多さに、思わず息を呑みました。
「こんなに、たくさんの方が……」
「リリア」
ラシードが、隣から声をかけます。
「気負うことはない。俺たちは、ただ誓うだけだ」
その言葉に、リリアは小さく頷きました。
けれど、卓上に広がる名簿の重みは、決して軽いものではありませんでした。
「日取りについては、いかがいたしましょう」
ナーディルが、話を進めます。
「早い方がいいだろう」
ラシードが、間を置かずに答えました。
その声には、これまでの軽さとは違う、静かな切実さがありました。
ハインリヒが、少し困ったように眉を寄せます。
「お気持ちは分かります。ですが、近隣諸国からの参列を考えると、そう簡単には日取りを詰められません」
「転送機を持たぬ国々は、馬車と馬での移動になります。通常であれば、招待状が届くだけでひと月、そこから参列のために辿り着くまで、さらにひと月からふた月はかかるかと」
その言葉に、リリアの表情が曇りました。
「では……」
「招待状の到着だけなら、私が請け負おう」
そう言ったのは、蒼月でした。
会議室の視線が、一斉に蒼月へ集まります。
「紙鳥を使う。宛名を記せば、鳥の姿になって空を飛び、直接届ける」
ハインリヒが、目を見開きました。
「それは……どれほどの速さで」
「距離にもよるが、遠国でも、数日とかからぬだろう」
その言葉に、会議室がざわめきました。
「では、招待状さえ早く出せば、あとは参列にかかる移動の時間だけで済むということですね」
ハインリヒは続けて、書類に視線を落としました。
「馬車での移動を考えれば、それでもひと月からふた月はかかります。式そのものは、そのあたりを目処に定めるのがよろしいかと」
アレクシス王も、深く頷きました。
「では、招待状の発送を最優先に。蒼月殿、宛名の一覧はこちらで整えよう」
蒼月は、小さく頷きました。
「任せろ」
ラシードは、その様子を見ながら、息を吐きました。
「……こういうところは、本当に頼りになるな」
会議が終わり、皆が席を立つ中、リリアは小さく息を吐きました。
「思っていたより、大変なのですね」
「そうだな」
ラシードは苦笑しました。
「けど、これも含めて、俺たちの始まりだ」
その言葉に、リリアはやわらかく微笑みました。
その日のうちに、蒼月は宮殿の中庭へ出ました。
文官たちが用意した名簿を手に、一枚ずつ、宛名を紙へ書き記していきます。
書き終えた紙に、蒼月が短く言葉を紡ぐと、紙は淡い光に包まれ、白い鳥の姿へと変わりました。
一羽、また一羽と、鳥は空へ舞い上がっていきます。
「規格外にも、ほどがある」
その様子を見ていたハインリヒが、思わず呟きました。
鳥は、次々と王都の空へ放たれていきます。
やがて、最後の一羽が空へ溶けるように消えていきました。
蒼月は、空を見上げたまま、息をつきます。
「これで、あとは届くのを待つだけだ」
その言葉を聞いて、リリアはほっと胸をなでおろしました。
その後、リリアはセシリアに連れられて、離宮の一室へ向かいました。
そこには、何着ものドレスが並べられていました。
白を基調にしたもの、淡い金の刺繍が施されたもの、レースを幾重にも重ねたもの。
どれも、これまでリリアが袖を通したことのない、特別な輝きを纏っています。
「わあ……」
リリアは、思わず声を漏らしました。
「リリア様に似合いそうなものを、あらかじめ何着か選んでおきました」
セシリアが、誇らしげに言いました。
「まずは、こちらから」
侍女が、白いドレスを一着、持ち上げました。
胸元には控えめな刺繍が施され、裾にかけてやわらかく広がる、清楚な意匠でした。
「これも素敵ですけど、リリア様には、もう少し華やかな方が映えると思います」
セシリアが、別のドレスを示しました。
金糸の刺繍が肩から裾まで流れる、華やかなドレスです。
「セシリア、それは少し、目立ちすぎではないかしら……」
「いいえ、リリア様。この日ばかりは、目立ってくださらないと困ります」
セシリアは、きっぱりと言い切りました。
「これは、リリア様の晴れの日です。誰よりも輝いていただかなくては」
その勢いに、リリアは思わず笑ってしまいました。
「分かったわ。ありがとう、セシリア」
リリアは、一着ずつ丁寧に袖を通していきました。
鏡の前に立つたび、セシリアとミラが、真剣な顔で意見を交わします。
「こちらは、少し袖が重たく見えますね」
「では、こちらの、レースが軽いものはいかがでしょう」
何着も試すうちに、リリアの頬に、自然と赤みが差していきました。
これほど自分のために、誰かがこんなに一生懸命になってくれることが、くすぐったくもあり、嬉しくもありました。
「リリア様」
セシリアが、ふと手を止めて、リリアを見つめました。
「本当に、おめでとうございます」
その声には、これまでの誇らしげな響きとは違う、静かな感情が滲んでいました。
「ずっと、リリア様の傍でお仕えしてきました。だからこそ、こうして幸せになられる姿を見られることが、私にとっても、何よりの喜びです」
リリアは、鏡越しにセシリアを見つめました。
「セシリア……」
「泣いてはいけません。目元が赤くなってしまいます」
セシリアは、慌てたように笑いながら、自分の目元を拭う仕草をしました。
その様子に、リリアも、ミラも、思わず笑い声をこぼします。
窓の外には、冬の淡い陽射しが差し込んでいました。
選ばれたドレスが、光を受けて輝いています。
それは、リリアにとって、これまでのどんな戦いとも違う、優しい時間でした。
衣装合わせを終え、部屋の扉が開いた時でした。
少し離れた廊下に、蒼月が立っていました。
華やかなドレスに袖を通し、頬を染めるリリア。
それを囲んで笑うセシリアやミラ。
その輪の中には、やわらかな光がありました。
蒼月は、その光を廊下の影から見つめていました。
リリアは、幸せそうでした。
セシリアも、ミラも、その幸せを少しでも美しい形にしようとしていました。
その光景を見つめているうちに、蒼月の胸の奥で、まだ消えきらない痛みがかすかに疼きました。
けれど、リリアの笑顔は壊したくありませんでした。
リリアを、誰よりも美しくしてやりたい。
そう思った時、蒼月はふと、宮に置き去りにしていたものを思い出しました。
蒼月は踵を返しました。
向かった先は、自分の宮でした。
淡い光の中、蒼月は宮の奥へと進みました。
長く開かれることのなかった古い櫃の前で足を止め、蓋を上げます。
その奥に、淡く光を宿す布が眠っていました。
一枚の羽衣でした。
それがいつからそこにあったのか、蒼月自身にも、はっきりとは思い出せませんでした。
桜の刺繍が施され、花びらはまるで生きているかのように、布の中で舞い流れています。
触れるだけで、遠い記憶の底に沈んでいた春の匂いが、ふっとよみがえるようでした。
蒼月は、その羽衣を手に、地上へ戻りました。
離宮の廊下で、セシリアを呼び止めます。
「セシリア」
「蒼月様? どうかなさいましたか」
蒼月は、手にした羽衣を、差し出しました。
「これを、ベールに仕立ててくれぬか」
セシリアは、目を見開きました。
差し出された羽衣は、淡い光をまとっていました。
布の中では、桜の花びらが揺れていました。
「これは……」
セシリアの声が、かすかに震えました。
「私の宮にあったものだ」
蒼月は、言いました。
「リリアに、纏わせてやりたい」
セシリアは、しばらくその羽衣を見つめていました。
それから、両手で受け取ります。
「……承知いたしました」
その声には、深い敬意がこもっていました。
「必ず、リリア様に相応しい姿に仕立てさせていただきます」
蒼月は、小さく頷きました。
そして、もう一度だけ、リリアたちのいる部屋の方へ視線を向けました。
扉の向こうから、リリアの小さな笑い声が、かすかに響いていました。
蒼月は、その声をしばらく聞いていました。
それから何も言わず、廊下の奥へ歩いていきました。
それから、春を待つ日々が過ぎていきました。
近隣諸国からは、驚きと共に、次々と返書を携えた使者が訪れるようになりました。
中には、鳥が届いた瞬間の様子を、興奮気味に語る使者もいました。
「窓の外に、白い鳥が舞い込んできましてね。手に取った途端、招待状に変わったのです」
その報告に、王宮の官吏たちは何度も顔を見合わせました。
一方、ラシードは、日々の合間を縫って、蒼月から基礎魔法の手ほどきを受けていました。
「違う。力を込めすぎだ」
中庭に、蒼月の低い声が響きます。
「押し出すのではなく、流れを整える」
ラシードの手のひらから、淡い光がいびつな形のまま弾けました。
額には、うっすらと汗が滲んでいます。
「くそ……簡単に言うがな」
「簡単ではない、と言っているだろう」
蒼月は、涼しい顔で返しました。
「だから、基礎からやれと言ったのだ」
ラシードは舌打ちしながらも、もう一度手のひらを構え直しました。
その姿を、リリアは回廊の陰から、見守っていました。
「頑張っていますね」
「あれで、まだ入り口だ」
蒼月は、ラシードから目を離さないまま言いました。
「だが、筋は悪くない。人にしては、な」
その物言いに、リリアは小さく笑いました。
セシリアは、蒼月から預かった羽衣を前に、来る日も来る日も針を動かしていました。
桜の刺繍はそのままに、ベールとしての形を丁寧に仕立てていきます。
「セシリア様、根を詰めすぎでは」
ミラが、心配そうに声をかけたことも一度や二度ではありません。
「これは、私にしかできない仕事です」
セシリアは、そのたびに、きっぱりと同じ言葉を返しました。
「リリア様の晴れ姿に、傷一つ残すわけにはまいりません」
その手つきは、日を追うごとに迷いなく、確かなものになっていきました。
リリアもまた、日々を過ごしていました。
アステルの診察を受け、体調を整え、時折、蒼月やラシードと共に、離宮の庭を歩きます。
「疲れていないか」
蒼月が、隣を歩きながら尋ねました。
「大丈夫よ」
リリアは、やわらかく微笑みました。
「今は、楽しみの方が大きいから」
その笑顔に、蒼月はそれ以上、何も言いませんでした。
けれど、リリアの歩調に合わせて、ほんの少しだけ、寄り添う距離を縮めていました。
各国からの参列者が、少しずつ王都へ集まり始めたのは、二月の終わりが近づく頃でした。
三月に入ると、王都の宿は次々と埋まり、街には、見慣れぬ旗や装束が行き交うようになりました。
「本当に、来てくださったのですね」
リリアは、王宮の窓から、賑わう街並みを見下ろしました。
「当然だろう」
ラシードが、隣に立ちました。
「リリアと蒼月が、この国と、多くの命を守ったんだ。誰も、無視できるはずがない」
リリアは、その言葉を、胸に納めました。
そして、式の前日。
王宮には、これまでにない数の人々が集い、静かな熱気に包まれていました。
サフィーラ女王をはじめとするサハルディアの一行、近隣諸国の使者たち、王都の貴族たち。
誰もが、明日という日を待ちわびていました。
セシリアは、最後の一針を通し終えると、完成したベールを、掲げました。
淡い光をまとった桜の刺繍が、灯りの下で、揺れています。
「できました」
その声は、涙で少し滲んでいました。
リリアは、鏡越しに、それを見つめました。
明日、この身にまとうものが、ようやく形になったのです。
窓の外では、王都の灯りが、いつもより多く、明るく灯っていました。




