第九十五話 未来のために 五
ラシードの公爵位授与式のあと、王宮では公爵位のお披露目と、リリアとの婚約のお披露目が続けて行われました。
大広間の厳かな空気は少しだけやわらぎ、集まった者たちの間には、祝いの気配が広がっていました。
ラシードは、サハルディア王国公爵としてサフィーラ女王の傍らに立っていました。
その隣には、グランヴァルド王国の公爵であり、婚約者でもあるリリアが控えています。
先ほどまでの張りつめた静けさとは違い、今は人々の視線にあたたかな色が混じっていました。
「おめでとうございます、ラシード様」
最初に声をかけたのは、サライナから来ていた年配の臣下でした。
白い髭を震わせるようにして深く頭を下げ、その目元には、隠しきれない喜びが滲んでいました。
「ありがとうございます」
ラシードは、いつもの軽さを少しだけ抑え、穏やかに礼を返しました。
すると、その隣にいた女性が、目元を押さえました。
「あんなにわんぱくだったラシード様が……」
声が途中で詰まりました。
リリアは思わずラシードを見上げました。
ラシードは、わずかに顔をそらします。
「昔の話だ」
「いえいえ。砂まみれで屋敷に戻ってこられて、奥方様に叱られていた頃を思えば、本当に立派になられて……」
「だから昔の話だと言っているだろ」
ラシードの声には困ったような響きがありました。
けれど、本気で嫌がっているわけではありません。
その様子を見て、リリアの胸に小さな笑みが灯りました。
サライナの人々にとって、ラシードはただの王族でも、ただの公爵でもないのだと分かりました。
砂漠を駆け、叱られ、笑われ、それでも大切に見守られてきた人。
そのラシードが今、自分の隣に立っているのです。
「リリア様」
呼ばれて、リリアははっとしました。
先ほどの年配の臣下が、今度はリリアへ深く頭を下げていました。
「ラシード様を、どうかよろしくお願いいたします」
その言葉は、形式ばったものではありませんでした。
長い年月を見てきた者の、静かな願いのようでした。
リリアは背筋を伸ばしました。
「はい」
短く答えてから、リリアは丁寧に礼をします。
「私も、ラシード様を大切にいたします」
その場が、ほんの少し静まりました。
ラシードが、隣で息を止めたような気配がしました。
リリアが顔を上げると、彼は少しだけ困ったように目を伏せています。
「……そういうことを、真っ直ぐ言うな」
「言ってはいけませんでしたか?」
「いや」
ラシードは小さく息を吐きました。
それから、リリアにだけ届く低い声で言いました。
「嬉しいから困るんだ」
リリアの頬に、淡い熱が差しました。
その様子を見ていたサライナの者たちの間から、やわらかな笑いがこぼれました。
それは砂漠の夜に灯る小さな明かりのように、あたたかく大広間へ広がっていきました。
蒼月は、しばらくその場にいました。
けれど、サハルディアの者たちがラシードへ祝いの言葉をかけ、リリアへあたたかなまなざしを向けるのを見ているうちに、蒼月はふいに目を伏せました。
「……祝宴など、つまらん」
蒼月の視線は、リリアに向けられたまま離れませんでした。
けれど、彼女が微笑むたびに、それが自分に向けられたものではないという事実が、鋭い針のように胸を刺します。
蒼月は誰に断ることもなく、大広間をあとにしました。
「蒼月?」
リリアが小さく呼びましたが、蒼月は振り返りませんでした。
サハルディア王宮の外廊へ出ると、夜の風が砂の匂いを含んで吹いていました。
昼の熱を残した石床は、月明かりの下で冷めていきます。
遠くでは、祝いの席のざわめきが、布を一枚隔てたように淡く響いていました。
蒼月は手すりのそばに立ち、空を見上げました。
砂漠の夜空には、月がありました。
白く、静かで、何も言わずに地上を照らしていました。
リリアが幸せになることを、望んでいました。
リリアが笑い、誰かに大切にされ、守られ、愛されることを、願っていました。
そのはずなのに。
胸の奥が、少しだけ痛みました。
魂の繋がりを通して、リリアの感情が流れてきます。
戸惑い。
照れ。
あたたかさ。
そして、ラシードの隣に立つことを受け入れようとする、やわらかな幸せ。
それは蒼月にとっても、嬉しいものであるはずでした。
リリアが笑っている。
リリアの心が、痛みではなく、あたたかなものに満たされている。
それなのに、その幸福が流れ込むたびに、胸の奥で何かが軋みました。
「どうしたらよいのだ」
蒼月は、誰に聞かせるでもなく呟きました。
月明かりが、銀の髪に降り注ぎます。
風がその髪を揺らし、白い外廊に淡い影を落としました。
「ソフィア」
遠い名を呼ぶ声は、夜風にほどけるほど小さなものでした。
「教えてくれ」
人を慈しむことは、知っているつもりでした。
守りたいと思うことも、失いたくないと思うことも、もう知っていました。
けれど、幸せであってほしいと願う相手が、自分ではない誰かの隣で幸せになっていく時。
その痛みを、どう受け止めればよいのか。
蒼月には、まだ分かりませんでした。
夜風だけが、銀の髪を揺らしていました。
千年前と同じ月明かりが、蒼月の足元に淡い影を落としていました。
その時でした。
外廊の奥で、かすかな衣擦れの音がしました。
蒼月が目だけを向けると、一人の女性が立っていました。
サハルディア王宮に仕える者でしょう。
薄い砂色の衣をまとい、両手を胸の前で重ねたまま、蒼月を見つめています。
その瞳は、どこか焦点を失っていました。
「なんて……美しい人なのでしょう」
吐息のような声でした。
蒼月は、しばらくその女を見ていました。
おそらく、蒼月の魅惑にあてられてしまった一人なのでしょう。
神と呼ばれていた頃から、自分の姿に心を奪われる者はいました。
名を伏せても、力を隠しても、ただそこに立つだけで、人の心は勝手に傾くことがありました。
信仰はいらんと、何度も告げたはずでした。
崇めるなと。
跪くなと。
自分を見るなと。
それでも人は、時折こうして、蒼月の前で目を奪われてしまいます。
蒼月は、目を細めました。
「そうか」
女は、その声に小さく肩を震わせました。
蒼月は月明かりの中で、ゆっくりと手を伸ばしました。
「そんなに美しいか」
女は黙ったまま、その足が一歩、蒼月へ近づきました。
蒼月は、その様子をただ見ていました。
「では、こちらにおいで」
呼びかけは、命じるほど強くはありませんでした。
けれど、月の下に落ちたその声には、人の足を止めるにはあまりに甘い響きがありました。
女は、吸い寄せられるように歩きました。
迷いも、戸惑いもない足取りでした。
そして次の瞬間、蒼月の腕の中へ入っていました。
蒼月は、その体を胸に包み込みました。
細い肩。
あたたかな体温。
かすかに震える息。
リリアではありませんでした。
分かっていました。
けれど、誰かが自分を美しいと言い、自分の方へ来て、自分の胸に収まる。
蒼月は女の顎に指を添え、その顔を上げさせました。
月明かりの下で、女の瞳は夢を見るように潤んでいます。
蒼月は、その唇へ顔を近づけました。
けれど、触れるか触れないかの寸前で、胸の奥が冷えていきました。
そこには、欲しいものが何ひとつありませんでした。
「……違うな」
蒼月は、ぽつりと呟きました。
女はその声に、うっとりと目を閉じたままでした。
胸の奥は、少しも満たされませんでした。
先ほどまで痛んでいた場所は、むしろ冷えていくようでした。
この痛みごと、リリアでなければ意味がないのだと、ただそれだけが分かりました。
リリアの感情は、まだ遠くから流れてきています。
それは、蒼月が望んだもののはずでした。
蒼月は、ようやく女の肩から手を離しました。
「戻れ」
その声は、先ほどよりも静かでした。
けれど、今度は確かに、解くための声でした。
女は夢から覚めるように瞬きをしました。
そして、自分が蒼月のすぐそばにいることに気づいた途端、顔を真っ赤にしました。
「あ……私……」
「何もない」
蒼月はそう言いました。
女は震えるように頭を下げると、逃げるように外廊の奥へ戻っていきました。
ひとり残された蒼月は、もう一度、月を見上げました。
美しいと言われても。
求められても。
抱き寄せても。
胸の奥にある痛みは、少しも消えませんでした。
遠くの大広間からは、まだ祝いの声がかすかに届いていました。
そのあたたかな響きだけが、蒼月の背に触れて、また夜の中へ消えていきました。




