第九十四話 未来のために 四
――サハルディア王宮 大広間
大広間には、砂色の石に磨かれた床が、鏡のように静かな光を返していました。
高い天井から垂れる金の布飾りは、風もないのにかすかに揺れているように見えました。
けれど、その場にあるものは華やぎではなく、王宮に満ちる厳格な沈黙でした。
玉座には、サフィーラ女王が座していました。
その傍らには王太子殿下が控え、左右にはサハルディアの重臣たちが並んでいます。
その列の一角に、ラシードの母の姿もありました。
明るい金色の髪を美しく結い上げ、式の始まりを待っていました。
ラシードと同じ色の瞳は、華やかさを宿しながらも、今は母としてではなく、サライナの一族として、この場の重みを受け止めているようでした。
大広間には、衣擦れの音さえ吸い込むほどの静寂が満ちていました。
並ぶ重臣たちの背筋は揃い、玉座へ向けられた視線だけが、式の重みを物語っていました。
リリアは、グランヴァルド王国の公爵として、定められた席の前に立っていました。
白を基調とした礼装は、サハルディアの陽光の下でも眩しすぎることなく、清らかな光をまとっていました。
胸元から裾へかけて、翡翠色の刺繍が細く流れ、葉と蔓の模様が歩くたびに淡く揺れます。
金の飾りは控えめで、けれど一つ一つが上質でした。
髪は一筋の乱れもなく美しく結い上げられ、小さな真珠と翡翠の髪飾りが、白い首筋の上で静かに光っていました。
かつて、自分もこうして爵位を授けられました。
あの日の重みを、リリアは今も覚えていました。
名を呼ばれ、剣を受け、もう戻れない場所へ一歩進んだ日のことを。
けれど今日、その重みを受けるのはラシードでした。
大広間の扉が、ゆっくりと開きました。
ラシードが、一人で入ってきました。
黒にも近い深い藍の礼装に、砂金の刺繍が襟元と袖口を縁取っています。
肩には白い外套が掛けられ、その留め具には、サハルディアの王家に連なる者であることを示す金の紋章が輝いていました。
腰には、儀礼用の細い湾刀を帯びていました。
金の鞘に収められた刃は抜かれていなくても、彼が武に身を置いてきた者であることを物語っていました。
ラシードは、玉座へ向かって歩みを進めました。
肩に掛かる白い外套は揺れすぎず、足音だけが磨かれた床に低く響きます。
砂漠の風を従える者のように、その姿は静かで、鋭く、そして美しく見えます。
ラシードは公爵位を授けられる者として、女王の前へ進み出ました。
そこで片膝をつき、深く頭を垂れました。
サフィーラ女王が立ち上がりました。
侍従が、黄金の儀礼剣を女王へ差し出します。
サフィーラ女王は柄に手をかけ、鞘から刃を抜きました。
磨かれた刃が、天窓から差す光を細く受けます。
その光に、静寂はいっそう澄みわたりました。
女王は、剣を構え直しました。
「ラシード・アル=ハーリド」
女王の声が、大広間に響きました。
「そなたは、サハルディア王家に連なる血を持つ者であり、サライナを治め、砂の民を守ってきた者である」
ラシードは片膝をついたまま、女王の声を受け止めていました。
胸元に添えた手も、垂れた睫毛も乱れず、その姿勢だけで彼の覚悟が伝わってきました。
「このたびの災厄において、そなたは異国との道を繋ぎ、我が国とグランヴァルド王国との絆を守った」
女王は、一歩前へ進みました。
黄金の儀礼剣の先が、ラシードの右肩に触れました。
「そなたは、王座を望む道ではなく、国を支える道を選んだ」
剣が、左肩へ移されました。
「その選択を、サハルディア王国女王サフィーラの名において認める」
大広間の空気が、張りつめました。
リリアは胸の前で指先を重ねました。
自分の爵位式の日と同じように、今この瞬間、ラシードの名が別の重みを帯びていくのが分かりました。
女王は、剣をラシードの前に下ろしました。
「本日をもって、ラシード・アル=ハーリドに公爵位を授ける」
重臣たちが、一斉に頭を下げました。
布の擦れる音が、波のように大広間を渡ります。
その中で、ラシードの母も頭を下げていました。
「そなたは今後、サハルディア王国公爵として、女王直属の特命を担う者となる」
女王の声は、揺らぎませんでした。
「砂の国を背負い、グランヴァルド王国との誓いを繋ぎ、我が国の名に恥じぬ働きを果たせ」
ラシードは、深く頭を下げました。
「女王陛下の御命、謹んで拝受いたします」
その声は低く、よく通りました。
いつものラシードではなく、王宮のすべてを前にしても揺るがない、一人の貴人の声でした。
「砂の国サハルディアの名に恥じぬよう、この身を尽くします」
サフィーラ女王は、侍従から公爵章を受け取りました。
金の縁に、深い青の石がはめ込まれた章でした。
それは夜明け前の砂漠の空のような色をしていました。
女王はそれを、ラシードの胸元へ留めました。
「立ちなさい。ラシード」
ラシードは、立ち上がりました。
白い外套が肩から流れ、胸元の公爵章が光を受けてきらめきました。
その姿に、大広間の誰もが目を奪われていました。
彼はただ美しいだけではありませんでした。
軽やかで、危うくて、自由でありながら、この瞬間だけは誰よりも厳格な責務を背負う者に見えました。
ラシードの胸に留められた公爵章は、栄誉の印であると同時に、ひとつの道を閉ざした証でもありました。
王家に連なる者として、いつか王座へ続いたかもしれない道。
その可能性を自ら手放し、それでもサハルディアを支える側に立つと決めた証。
その決断の奥に、自分がいるのだと思うと、リリアは胸の前で重ねた指先に、少しだけ力を込めました。
ラシードの視線が、リリアへ向きました。
ほんの一瞬でした。
けれどその瞳には、静かな覚悟がありました。
リリアは、公爵として深く一礼しました。
ラシードもまた、サハルディア王国公爵として、頭を下げました。
その礼は、二つの国に名を刻まれた者同士が、厳かな場で交わす、正式な礼でした。
サフィーラ女王が玉座へ戻りました。
王太子殿下が一歩進み、ラシードへ向かって深く礼をします。
その姿を見て、大広間にいた者たちは、継承の道と、公爵としての道がこの場で明確に分かたれたことを悟りました。
ラシードは、その礼を受けました。
そして、迷いのない所作で一礼を返しました。
その瞬間、ラシード・アル=ハーリドは、ただ王家に連なる者としてではなく、サハルディアを支える一人の公爵として、大広間に立っていました。
サハルディア王国公爵。
その名が、女王の宣言とともに、静寂の中へ深く刻まれました。
やがて、重臣たちが一斉に礼を解きました。
続いて、拍手が一斉に沸き起こりました。
重く厳かな音が大広間を満たし、磨かれた石の床と高い天井に幾重にも反響しました。
ラシードの公爵位授与式が終わったあとも、王宮にはまだ式の余韻が残っていました。
リリアは控えの間へ案内され、ようやく少しだけ息をつきました。
そこには、先ほど大広間でラシードを見つめていた女性が待っていました。
リリアを見るなり、その人はぱっと顔を明るくしました。
「まあ、こんなにかわいいお嫁さんが来るなんて。ラシード、やるじゃない」
からかうような声に、リリアは思わず頬を赤くしました。
けれど、隣に立っていたラシードは、少し困ったように息を吐きます。
「悪いが、母上。リリアはこの国には住めない」
「あら、そうなの」
ラシードの母は、残念そうに眉を下げました。
それでも、その声は少しも沈んでいませんでした。
「それなら、遊びに来てくれるだけでもいいわ。ねえ、リリアさん」
そう言って微笑まれると、リリアは少し戸惑いながらも、胸の奥があたたかくなるのを感じました。
リリアは慌てて姿勢を正しました。
「初めまして。リリア・フォン・ヴァイスベルクと申します」
そう言って、リリアは丁寧に礼をしました。
「先ほどは、きちんとご挨拶もできず失礼いたしました」
ラシードの母は、その礼を見て、少しだけ目を細めました。
先ほどまでの明るい笑みとは違う、相手を見るまなざしでした。
「まあ……本当に、綺麗なお嬢さんね」
「母上」
ラシードが、少し低い声でたしなめます。
「分かっているわ。からかってばかりではいけないものね」
ラシードの母は楽しそうに笑うと、今度はサハルディアの礼に従い、胸元に手を添えてリリアへ頭を下げました。
「お会いできて嬉しいわ、リリアさん。ラシードの母、スハイラ・アル=ハーリドです」
リリアは、もう一度小さく頭を下げました。
「こちらこそ、お会いできて嬉しいです」
その言葉に、ラシードの母はやわらかく微笑みました。
「この子が、ずいぶんお世話になったようね」
「いえ。お世話になっているのは、私の方です」
リリアはそう答えてから、隣にいるラシードを見ました。
「ラシード様には、何度も助けていただきました」
ラシードは少しだけ目をそらしました。
「大げさだ」
「大げさではありません」
リリアが言うと、ラシードの母は楽しそうに二人を見比べました。
「ふふ。ラシードがこんな顔をするなんて、珍しいわ」
「母上」
「はいはい。今日は言いすぎないわ」
そう言いながらも、ラシードの母の瞳は、どこか嬉しそうでした。




