第九十三話 未来のために 三
夕食を終えても、昼間に聞いた話が、リリアの胸の奥に残っていました。
サハルディアのこと。
サライナのこと。
そして、ラシードのこと。
窓の外では、夜風が々を揺らしていました。
リリアは膝の上で指を重ねたまま、そばにいるラシードを見上げます。
「私、ラシードのこと、あまり知らないわ」
ラシードが、少しだけ目を向けました。
リリアはその視線を受け止めて、続けます。
「教えて。ラシードが、どんなふうに生きてきたのか」
ラシードは、少し遠いところに置いてきた記憶を、ひとつずつ拾い上げているように、息を吐きます。
「俺の父上は、前サハルディア王の王子だった」
リリアは黙って耳を傾けました。
「父上は、次の王になる者として育てられていた。若いころからサライナの領主を任されていたのも、そのためだ。サライナは王都から離れているが、砂漠を越えるための拠点で、古い遺跡も、魔石も、転送機もある。サハルディアにとって、砂漠の道を押さえる要地なのだ」
ラシードの声は、いつもの軽さを少しだけ失っていました。
「そこで父上は、サライナ地域の有力貴族だった母と結婚した。俺は、その二人の間に生まれた」
リリアの指が、膝の上で動きます。
ラシードは、その小さな動きに気づいたように目を伏せました。
「けど、俺が七歳のときだ。古い遺跡の一部が崩れた」
「遺跡……」
「ああ。前に話しただろ。蒼月の狼の姿が描かれていた壁画があった場所だ」
リリアの胸が、締めつけられました。
蒼月の姿が、千年の時を越えて残されていた場所。
そこが、ラシードにとっては父を失った場所でもあったのです。
「父上は、その崩落に巻き込まれて亡くなった」
ラシードは淡々と言いました。
けれど、その淡さが、かえって長い年月を感じさせました。
「それから俺は、母に引き取られて、母方の実家で育った。王都ではなく、サライナの貴族の家でな」
ラシードは、一度言葉を切りました。
「俺が十五のとき、前サハルディア王――父上の父で、俺の祖父が崩御した。その時、王位継承権第一位だったサフィーラ様が、王位を継いだ」
リリアは、息をのみました。
「サフィーラ様には、その時点でまだお子がいなかった。だから、俺がそのまま、次の継承権第一位になったんだ。それで、母方の祖父でもあるサライナの前領主に、本格的に鍛えられるようになった」
ラシードは、自分の手元へ視線を落としました。
「剣も、砂漠の歩き方も、人のまとめ方も、そこで叩き込まれた」
そして、少しだけ表情を緩めます。
「その後、女王陛下に王子が生まれて、その方が王太子殿下になった。それからの俺は、王位継承権第二位だった。……まあ、昨日までの話だがな」
そこで、ラシードは笑いました。
「そうして出来上がったのが、今の俺だ」
「そうなのですね」
リリアは小さくうなずきました。
王位継承権という言葉も、王家の血筋も、リリアにはまだ遠いものに思えます。
けれど、ラシードがその中で育ち、サライナで鍛えられ、今ここにいるのだということだけは、胸へ落ちていきました。
そばで聞いていた蒼月が、低く息を吐きます。
「人は面倒だな」
ラシードは肩をすくめました。
「否定はしない」
夜も更け、皆はそれぞれの部屋へ戻りました。
翌日。
サハルディア王宮の奥深くにある転送の間で、蒼月は帰還に使う魔石へ魔力を注ごうとしていました。
転送機の前で控えていた文官は、蒼月が魔石に手を伸ばすのを見て、思わず身を乗り出しました。
「おお……これは、すごい」
文官の声が、転送の間に小さく響きました。
「この魔石には、一度転送できるだけの魔力を、一年かけて補充しております」
「そうなのか」
蒼月は魔石に手を当てたまま、表面に流れる光をじっと見つめました。
「これなら、もっと転送の回数を増やせるぞ」
「え……」
文官が目を見開きます。
蒼月の手の下で、魔石の奥に淡い光が走りました。
やがて、石の表面に細い文字が浮かび上がります。
それは今の人間には読めない、古い時代の文字でした。
「設定が一になっている」
蒼月は、浮かび上がった文字を見ながら言いました。
「これが回数だ。この数を増やせば、その分だけ魔力を蓄えられる」
「そ、そのようなことが……」
「無闇に転送できぬよう、昔の者がそうしておいたのだろう。転送機は便利だが、好き勝手に使わせるには危うい」
蒼月はそう言うと、魔石の表面に指を滑らせました。
古代文字が淡く揺れ、ひとつ、またひとつと並びを変えていきます。
「とりあえず、上限まで広げておく。魔力も詰められるだけ詰めるぞ」
その言葉が終わるより早く、蒼月の周囲に風が生まれました。
床に刻まれた魔法陣の線が白く輝き、転送機の柱を伝って光が走ります。
次の瞬間、蒼月と魔石を中心に、強い風が渦を巻きました。
転送の間に置かれていた書類が舞い上がり、文官が慌てて腕で顔をかばいます。
「うわっ……!」
風は小さな竜巻のように膨れ上がり、魔石へ向かって吸い込まれていきました。
蒼月の銀の髪が大きく揺れ、深い蒼い瞳が光を映します。
やがて、魔石が眩いほどに輝きました。
一瞬、部屋全体が白く染まります。
そして、何事もなかったかのように、風が消えました。
舞い上がっていた紙だけが、ひらひらと床へ落ちていきます。
文官はしばらく声も出せず、ただ魔石を見つめていました。
蒼月は平然と手を離します。
「これで、しばらくは困らぬだろう。グランヴァルド側の地下神殿にある転送機の座標も登録した」
「な、なんと……座標まで。しかも、し、しばらく、でございますか……」
文官の声は震えていました。
蒼月は気にした様子もなく、リリアの方を振り返ります。
「そういえば、サライナの転送機には今、石がないのだったな」
リリアははっとして、鞄へ手を伸ばしました。
「もう一つ、持ってきてるわ」
「貸せ。つけてきてやる」
リリアは鞄から魔石を取り出し、蒼月へ差し出しました。
蒼月はそれを受け取ると、少し考えるように目を細めます。
「いや、このままでは持ちにくいな。リリア、鞄に入れて首にかけろ」
「え?」
「狼の姿で行く。その方が早い」
言うなり、蒼月の姿が白銀の光に包まれました。
人の輪郭がほどけるように消え、次の瞬間、そこには大きな銀狼が立っていました。
リリアは急いで魔石を鞄に入れ、紐を蒼月の首へかけます。
「蒼月、気をつけてね」
蒼月は、承知したと言うように軽く尾を揺らしました。
それだけを返事にして、銀狼は転送の間を駆け出します。
白銀の毛並みが風を裂き、次の瞬間には、廊下の奥へと消えていました。
残された文官は、しばらく呆然とその背を見送っていました。
「……神獣様というのは、本当に、規格の外におられるのですね」
ラシードが肩をすくめます。
「今さらだな」
蒼月が戻るまでのあいだ、王宮には妙な緊張と期待が残り続けました。
――夜。
リリアとラシードが待っている部屋に、蒼月が入ってきました。
人の姿をしていましたが、銀の髪にも、肩にも、服の裾にも、細かな砂がついています。
「リリア、褒めてくれ」
蒼月は当然のようにそう言うと、そのままリリアを抱き上げようとしました。
「待て」
ラシードが、すかさずその前に出ました。
「その前に、砂を落としてこい」
蒼月は、抱き上げようとした腕を下ろしませんでした。
「私は働いてきたのだぞ」
「だからだ。働いてきたなら、まず砂を落とせ」
リリアは少し困ったように笑いながら、蒼月を見ました。
「蒼月、ありがとう」
その一言で、蒼月の表情が明るくなりました。
「リリア。では、前のように一緒に入ろう」
「えっ」
リリアは一瞬、言葉を失いました。
以前なら、蒼月は銀狼の姿でした。
けれど今、目の前にいるのは人の姿をした蒼月です。
その違いに気づいた途端、リリアの頬に淡く熱が差しました。
「そ、蒼月。今は、その……」
「そういう話にするな」
ラシードが、低い声ですぐに遮りました。
蒼月は不思議そうに首を傾げました。
「何が違う」
「全部だ」
ラシードは即答しました。
蒼月は納得していない顔で、リリアへ視線を向けました。
「私は、ラシードのように不純な考えはない。安心しろ」
「誰が不純だ」
ラシードが低く返しましたが、蒼月は気にした様子もありません。
「ただ、慈しむだけだ」
リリアの頬に、さらに熱が差しました。
ラシードが遮ったことで、かえって言葉の意味がはっきりとし、リリアは視線の置き場を失いました。
「そ、蒼月……その言い方は……」
「リリアは、ようやく理解したのか」
ラシードが、少し呆れたように言いました。
「理解って……」
「そいつは狼の姿だっただけで、ずっとリリアのそばにいただろ」
リリアは、ますます頬を赤くしました。
「そ、それは……蒼月は、蒼月だったから……」
「だから今まで気づかなかったんだろ」
ラシードは短く言いました。
蒼月は、リリアとラシードを見比べました。
「何を今さら言っている。私はずっと、リリアを見ていたぞ」
「ラシードが案じているような営みも、私はできるぞ。ソフィアに教わった」
「……」
「リリアが望むなら……」
「蒼月……! 望みません!」
リリアの声が、思わず裏返りました。
ラシードは、こめかみに指を当てました。
あのくそ聖女は、千年前に何を教えてやがる。
けれど、問題はそれだけではありませんでした。
狼の姿だったから、誰も深く考えていなかったのです。
湯浴みのときも、着替えるときも、眠りにつく前の無防備な姿さえも。
蒼月は、ずっと同じ部屋にいたのでした。
ラシードは、顔を真っ赤にして固まっているリリアを見ました。
「まず砂を落とせ」
ラシードが、間を置かずに言いました。
「話はそれからだ」
ラシードはすぐに侍従を呼び、蒼月のために湯浴みを用意させました。
砂を落とすだけだと何度も言い聞かせられ、蒼月は不満そうな顔のまま湯浴み所へ連れていかれます。
けれど、しばらくもしないうちに、湯浴み所の方から小さな悲鳴が上がりました。
「何だ」
ラシードが眉を寄せます。
慌てて駆け込んできた侍従は、顔を真っ赤にしていました。
「そ、蒼月様が……」
「蒼月が何をした」
ラシードの声が低くなります。
侍従は言葉にならない様子で、震える手を湯浴み所の方へ向けました。
湯浴み所では、蒼月が平然とした顔で立っていました。
砂は落ちていましたが、周囲の侍従たちは妙に落ち着きを失っています。
その足元には、ひとりの侍従が気を失って倒れていました。
「……何をした」
ラシードが額を押さえながら尋ねます。
蒼月は、濡れた髪を後ろへ払いました。
「髪を一房持ち上げて、リリアにはこうしてやりたかったのだと示しただけだ」
「示すな」
「口づける仕草をしただけだ」
「それを示すなと言っている」
悪びれもなく言われて、湯浴み所にいた侍従たちが一斉に息をのみました。
倒れていた侍従は、あまりの衝撃に気を失ったままです。
ラシードは深く息を吐きました。
「蒼月」
「何だ」
「それを人前でするな」
「なぜだ。慈しんだだけだ」
「それで人が倒れているだろうが」
ラシードの隣で、リリアは両手で顔を覆い、真っ赤になってうずくまりました。
その様子を見て、蒼月はようやく足元の侍従を見ました。
「人は弱いな」
「そういう問題じゃない」
その日、湯浴み所はしばらく大騒ぎになりました。
ラシードは、時折見せる蒼月の人の感覚から外れた行動に、頭を抱えたくなりました。
これまでは、自分がそばで止めていただけなのです。
蒼月がリリアを愛し、慈しみたいと望む気持ちは、ラシードとリリアが婚約し、やがて結婚したとしても変わらないのでしょう。
しかも蒼月は、その行為が人にとってどのような意味を持つのかも分からず、相手も喜んでいると思っています。
悪気はなく、ただそうしたいという素直な気持ちから出た行動だからこそ、余計に厄介でした。




