第九十二話 未来のために 二
白い光が収まった時、そこはハルディア王宮の奥にある転送の間でした。
待機していた兵は、ラシードの姿を見るとすぐに姿勢を正しました。
ラシードは、サフィーラ女王への正式な謁見を願い出ました。
兵は深く頭を下げ、すぐに奥へ取り次ぎに向かいました。
その後、リリア、蒼月、ラシードは控えの間へ案内され、謁見の許可が下りるまで待つことになりました。
やがて控えの間の扉が開き、女王付きの副官が姿を見せました。
副官はリリアたちの前まで進み出ると、深く頭を下げました。
「サフィーラ女王陛下がお会いになります。謁見の間へご案内いたします」
副官に案内され、リリア、蒼月、ラシードは謁見の間へ向かいました。
玉座にいたサフィーラ女王は、ラシードの姿を見て、それからリリアへ視線を移しました。
そして最後に、リリアの傍らに立つ蒼月を見ました。
その瞬間、女王は玉座から立ち上がりました。
居並ぶ臣下たちが息を呑む中、サフィーラ女王は蒼月の前まで歩み寄り、深く膝を折りました。
「蒼月様。あの時は、申し訳ありませんでした」
謁見の間に、静かな声が落ちました。
「魔物と瘴気が迫りくる恐怖で、私は少し、おかしくなっていたのかもしれません。けれど、それで許されることではありません。貴方様に対し、無礼な言葉を向けました」
蒼月は、サフィーラ女王を見つめました。
その眼差しは静かで、長い時を越えてなお揺るがない神のものに見えました。
「よい」
ただ、それだけでした。
短い一言でした。
けれど、その場にいた者たちは皆、その言葉が赦しとして下りたことを感じ取りました。
サフィーラ女王は深く頭を下げ、それからゆっくりと立ち上がりました。
凛とした女王の顔に戻りながらも、その瞳には、滲むものがありました。
「リリア公爵。だいぶ顔色がよくなられましたね」
「はい。皆様のおかげです」
リリアが頭を下げると、サフィーラ女王は柔らかく目を細めました。
「改めて、リリア公爵。蒼月様。我が国を救っていただき、誠にありがとうございました。私たちにできることがあれば、何なりとお申しつけください」
「ありがとうございます。サフィーラ女王陛下」
リリアが礼を返すと、女王は玉座へ戻りました。
その姿は、先ほど蒼月の前に膝をついた女性と同じ人とは思えないほど、まっすぐで気高いものでした。
そして、正式な謁見が始まりました。
ラシードはリリアの隣に立ち、一歩前へ出ました。
背筋を伸ばし、サフィーラ女王へ深く頭を下げます。
「サフィーラ女王陛下。この度は、ラシード・アル=ハーリドと、リリア・フォン・ヴァイスベルク公爵との婚約、ならびに結婚の許可をいただきたく参上いたしました」
謁見の間に、かすかなざわめきが走りました。
サフィーラ女王は、しばらくラシードを見つめていました。
その表情には、女王としての厳しさと、甥を見つめる叔母としての痛みが滲んでいました。
「……あなたは、何をしているのです」
低く、女王の声が落ちました。
「あなたも、王位継承権を持つ王族なのですよ。リリア公爵のために働きなさいとは言いました。けれど、王族としての立場を投げ出せとは言っていません」
ラシードは黙って頭を下げました。
女王は次に、リリアへ視線を向けました。
「リリア公爵。あなたは、どうされるおつもりですか。こちらで暮らすのですか」
リリアは少しだけ息を吸いました。
「いいえ。私は、グランヴァルド王国で暮らさせていただきたいと思っております」
「……そうですか」
サフィーラ女王は、息を吐きました。
わずかに沈黙が落ちます。
その沈黙の中で、女王はラシードを見ました。
「止めても、あなたは行くのでしょうね」
「はい」
迷いのない返答でした。
サフィーラ女王は目を閉じました。
ほんの一瞬だけ、叔母としての顔がそこに滲みました。
けれど次に目を開いた時、そこにいたのはサハルディア王国の女王でした。
「ラシード・アル=ハーリド」
「はい」
「本日をもって、あなたを王位継承権第二位より外します。あわせて王籍より離脱させ、サハルディア王国公爵位を与えます」
謁見の間が、再び揺れました。
「また、サライナ領主の任を解き、後任は追って王命により定めます。あなたには、サハルディア王国よりグランヴァルド王国へ派遣する外交官長の任を命じます」
ラシードは、深く頭を下げました。
「謹んで、お受けいたします」
サフィーラ女王は、ゆっくりとリリアへ視線を移しました。
「そして、ラシード・アル=ハーリドと、リリア・フォン・ヴァイスベルク公爵との婚約、ならびに結婚を許可します」
嬉しさと、申し訳なさと、言葉にならない不安が、一度に押し寄せてきました。
サフィーラ女王の目は、少し潤んでいました。
それでも最後まで、女王は凛としていました。
ラシードが顔を上げます。
「追放ではないのですか」
その問いに、サフィーラ女王はほんの少しだけ眉を上げました。
「かわいい甥を、なぜ追放しなくてはならないのです」
ラシードは一瞬だけ言葉を失いました。
女王はその顔を見て、続けました。
「数日後、公爵授与式を行います。それまでは王宮に滞在しなさい。正式な発表も、こちらで整えます。そして、あなたの母にもきちんと報告するのですよ」
「はい。ありがとうございます。女王陛下」
ラシードが深く礼をすると、リリアも慌てて頭を下げました。
「サフィーラ女王陛下。こちらをお受け取りいただけますでしょうか」
リリアは、用意していた魔石を差し出しました。
澄んだ光を宿したその魔石には、蒼月の魔力が込められています。
「転送機や結界の維持に、少しでもお役に立てればと思います」
サフィーラ女王は、それを大切そうに受け取りました。
「ありがとうございます。大切に使わせていただきます」
リリアは少しだけ迷ってから、顔を上げました。
「それから……結婚式には、ぜひご出席いただけますでしょうか」
その言葉に、サフィーラ女王の表情が柔らかくなりました。
「もちろんです。楽しみにしております。招待状を送ってもらえますか」
「はい」
リリアが微笑むと、女王もまた、微笑み返しました。
謁見を終えたあと、リリア、蒼月、ラシードは王宮内に用意された部屋へ案内されました。
扉が閉まった瞬間、リリアは振り返りました。
「ラ、ラシード」
「ん?」
「王族なんて聞いてないよ。しかも、王位継承権って……」
ラシードは少し困ったように笑いました。
「言ってなかったな」
「そんな大事なこと、言ってなかったで済ませないで」
リリアは戸惑ったまま、ラシードを見上げました。
「でも、女王陛下とラシードは、家名が違うでしょう?」
「ああ。俺は母方のハーリドを名乗っている」
ラシードは、少しだけ息を整えてから続けました。
「俺の父は、サフィーラ女王陛下の兄だった。前王陛下の在位中に事故で亡くなって、その後、俺は母方の家名で育った」
リリアは、言葉を挟まずに聞いていました。
「だから家名は違うが、血筋としては王家に連なる。王位継承権があったのも、そのためだ」
「そう、だったの……」
リリアは、少しだけ目を伏せました。
「お父さまは、亡くなっていたのね……。お母さまは?」
「ああ。これが終わったら挨拶に行こう」
「はい」
リリアはようやく、その言葉の重さを理解しました。
女王の甥。
王家の血を引く者。
そして、王位継承権を持っていた人。
そのすべてを、ラシードは今、手放そうとしていました。
「そんな大事なものを、私のために手放すなんて」
ラシードは、リリアの前に立ちました。
「リリア」
名前を呼ばれて、リリアは顔を上げました。
「俺は、リリアの隣に立ちたい」
その言葉は、リリアへ届きました。
「王族のままでは、いつかサハルディアの都合に縛られる。王位継承権が残っていれば、なおさらだ。そう思った女王陛下が、配慮してくれたのだろう」
「でも……」
「王位継承権第一位の王太子殿下がいる。その方に子供が生まれれば、俺の出番はない」
「そういう問題じゃないよ」
リリアの声が、小さく揺れました。
「俺が選んだのは、リリアと生きるためだ」
リリアは、胸の前で重ねた手に力を込めました。
「サハルディアとは、外交官として繋がり続ける。けれど、俺が戻る場所は、グランヴァルドにする」
「ラシード……」
「だから、これは俺が選んだことだと受け止めてくれ」
ラシードは、リリアの頬に手を添えました。
「俺が好きでやっている」
その声があまりに穏やかで、リリアの胸の奥に温かなものが広がりました。
次の瞬間、ラシードはリリアをふわりと抱き上げました。
「きゃっ」
「軽すぎるな」
「今、それを言うところではありません」
「じゃあ、何を言えばいい?」
ラシードはそう言って、リリアの顔を覗き込みました。
いつもより甘く、やわらかく、けれどリリアを逃がさない眼差しでした。
リリアが何かを言おうとした時、ラシードの唇が重なりました。
優しい口づけでした。
強く奪うのではなく、確かめるように触れて、離れて、また触れる。
それだけなのに、リリアの頭の中はふわりとほどけていきました。
「……ラシード」
名前を呼んだ声が、自分でも驚くほど甘く震えていました。
頬が熱くなります。
視界まで、少し滲んだように揺れました。
ラシードはその顔を見て、息を詰めました。
リリアは本当に無防備すぎる。
こんなふうに腕の中で頬を染めて、潤んだ瞳で見上げてくる。
そのくせ、自分がどれほど危うい顔をしているのか、まるで分かっていない。
ラシードは深く息を吐き、リリアを抱きしめ直しました。
「本当に、困った人だな」
そう言いながらも、ラシードの腕はとても優しかった。
リリアはその腕の中で、ゆっくりと力を抜きました。
「……私、いるんだけど」
低い声が、すぐそばから落ちました。
リリアとラシードは、同時にびくりと肩を揺らしました。
「そ、蒼月……!」
リリアが慌ててラシードから離れようとすると、ラシードも咳払いをして、腕を緩めました。
蒼月は二人をじっと見ていました。
「リリア、おいで」
蒼月はそう言うと、リリアを軽々と抱き上げました。
「わっ……」
リリアが驚いて蒼月の肩につかまると、蒼月はそのまま大切そうに抱え直しました。
「リリア。許可が下りてよかったな」
「うん……」
リリアが小さく頷くと、蒼月はサフィーラ女王のいる方角へ視線を向けました。
「下りなければ、私は女王をなんとかしていたかもしれない」
「蒼月!」
リリアが慌てて声を上げると、ラシードは思わず片手で顔を覆いました。
「……頼むから、それは本人の前で言うなよ」
蒼月は何食わぬ顔で、リリアを抱えたまま答えました。
「言わなければ問題ない」
「そういう問題じゃないよ」
リリアが困った顔をすると、蒼月の表情から悪戯めいた色が消えました。
「だが、リリアが悲しむ結果にならなくてよかった」
その一言に、リリアは言葉を失いました。
ふざけたように聞こえた言葉の奥に、蒼月の本気があることを知っていたからです。
「……ありがとう、蒼月」
リリアが礼を告げると、蒼月は返事の代わりに、リリアを抱く腕へ力を込めました。
「そうだ。結婚式では、私に祝福をさせてくれないか」
「祝福……?」
リリアは目を瞬かせました。
「蒼月が?」
「派手に祝福する」
「派手って……?」
リリアが首を傾げると、蒼月の口元に得意げな笑みが浮かびました。
「まあ、楽しみにしていろ」
神様の派手とは、いったい何なのだろう。
リリアは蒼月を見上げたまま、少しだけ考え込んでしまいました。
その横で、ラシードがぽつりと呟きました。
「嫌な予感しかしない」
蒼月は否定もせず、リリアを抱え直しました。
ハルディア王宮の窓辺には、夕陽の光が差し込んでいました。
淡い金色の光の中で、リリアは蒼月に抱えられたまま、ラシードを見ました。
ラシードは、どこか諦めたように笑っていました。
その笑顔を見て、リリアもまた、小さく笑いました。




