第九十一話 未来のために 一
湖畔から戻ったラシードとリリアは、まずハインリヒのもとへ挨拶に向かいました。
執務室に通された二人を見て、ハインリヒはすぐに用件を察したようでした。
けれど、何も急かさず、二人の言葉を待っていました。
ラシードはリリアの隣に立ち、深く頭を下げました。
「ハインリヒ様。リリア嬢との婚約、ならびに結婚の許しをいただきたく参りました」
リリアも緊張した面持ちで、頭を下げました。
ハインリヒは、すぐには答えませんでした。
ラシードを見て、それからリリアを見ました。
その沈黙は責めるものではなく、二人の覚悟を確かめるためのものでした。
「リリア」
「はい、父さま」
「あなた自身の望みですか」
リリアは、胸の前で手を重ねました。
「はい。私が、自分で選びました」
その返事を聞いて、ハインリヒの表情が和らぎました。
「そうですか」
ハインリヒは頷き、今度はラシードへ視線を向けました。
「ラシード様。リリアは、グランヴァルド王国の公爵です。ただ守られるだけの娘ではありません。けれど同時に、これまであまりにも多くのものを背負ってきた娘でもあります」
「承知しております」
「ならば、その隣に立つという意味を、決して軽く考えないでいただきたい」
ラシードは、まっすぐにハインリヒを見返しました。
「軽く考えたことは、一度もありません」
ハインリヒはしばらくラシードを見ていました。
やがて、ゆっくりと息を吐きました。
「分かりました。私から反対する理由はありません」
その言葉が届いた瞬間、リリアは思わず父の顔を見ました。
「ラシード様」
「はい」
「リリアを、どうかお願いいたします」
その一言は、公爵としての言葉ではなく、父としての願いでした。
ラシードは表情を引き締め、深く頭を下げました。
「必ず、大切にいたします」
リリアは胸がいっぱいになり、思わず唇を結びました。
「ありがとうございます、父さま」
ハインリヒは、リリアへ穏やかな眼差しを向けました。
「あなたが自分で選んだのなら、私はその道を尊重します」
「はい」
ハインリヒは小さく頷き、それから立ち上がりました。
「では、国王陛下と王妃殿下にも、正式にお話ししましょう」
その後、二人はハインリヒの取り次ぎにより、正式にアレクシス王とヴィクトリア王妃へ謁見することになりました。
謁見の間には、アレクシス王とヴィクトリア王妃が並んで座っていました。
その前に進み出たラシードとリリアは、そろって深く礼をしました。
ハインリヒは少し離れた位置に控え、二人を見守っていました。
ラシードは一歩前に出ると、顔を上げ、よく通る声で口を開きました。
「アレクシス・フォン・グランヴァルド国王陛下。ヴィクトリア・フォン・グランヴァルド王妃殿下。本日は、このような謁見の場を賜り、誠にありがとうございます」
謁見の間に、ラシードの声が響きました。
そこに立っているのは、サハルディア王国の王族に連なる者であり、サライナを預かる領主でした。
「サハルディア王国、サライナ領主、ラシード・アル=ハーリドでございます」
ラシードは、もう一度深く礼をしました。
「この度は、リリア・フォン・ヴァイスベルク公爵との婚約、ならびに結婚の許しをいただきたく、正式にお願いに参りました」
アレクシス王は、しばらくラシードを見ていました。
その視線は穏やかでしたが、王としての重みを含んでいました。
「ラシード殿」
「はい」
「リリアは、我が国の公爵です。あなたがリリアの隣に立つということは、個人の想いだけでは済みません」
「承知しております」
「また、あなたはサハルディア王国において重い立場を持つ方でもあります。正式なことは、サハルディア王国の裁可を得てからとなりましょう」
「はい」
「そのうえで、我が国として、二人の婚約と結婚を妨げる理由はありません」
ラシードは深く礼をしました。
「ありがとうございます」
アレクシス王は頷き、次にリリアへ視線を向けました。
「リリア」
「はい」
「あなた自身の気持ちは、もう決まっているのだな」
リリアは一度、隣に立つラシードを見ました。
ラシードは何も言わず、ただリリアの言葉を待っていました。
リリアは胸の前で手を重ね、もう一度アレクシス王へ向き直りました。
「はい。私は、ラシード様と一緒にいたいと思っています」
その声は大きくはありませんでした。
けれど、謁見の間にいる誰にも届くほど、まっすぐでした。
アレクシス王の表情が、少しだけ和らぎました。
「そうか」
短い言葉でした。
けれどそこには、王としてだけではなく、リリアを見守ってきた一人の大人としての温かさがありました。
「おめでとう。幸せになるのだぞ、リリア」
リリアの胸に、温かなものが広がりました。
「はい」
声が、少し震えました。
「ありがとうございます、アレクシス陛下」
ヴィクトリア王妃は、そんなリリアを見つめていました。
その瞳は、やわらかく潤んでいました。
「リリアさん」
「はい、王妃様」
「本当におめでとうございます。よかったですね」
その優しい声に、リリアの瞳が潤みました。
何度も守られ、見守られてきた日々が、胸の奥で重なっていきます。
「……ありがとうございます、王妃様」
ヴィクトリア王妃は、微笑みました。
「無理をしていませんね。誰かのために、自分の気持ちを押し込めているのではありませんね」
リリアは顔を上げました。
「はい。これは、私が自分で選びました」
「そう。なら、私はあなたの幸せを願います」
リリアは深く頭を下げました。
その隣で、ラシードもまた頭を下げました。
アレクシス王は、今度はラシードへ視線を向けました。
「ラシード殿」
「はい」
「リリアを託す、とは申しません。リリアは誰かに預けられるだけの存在ではありませんから」
ラシードは目を伏せました。
「はい」
「ですが、隣に立つと決めた以上、その覚悟に恥じぬように」
「必ず」
ラシードは、もう一度深く頭を下げました。
「リリア公爵の隣に立つ者として、誠心誠意、尽くしてまいります」
その言葉に、アレクシス王は頷きました。
「よろしい」
こうして、リリアとラシードは、ハインリヒ、アレクシス王、ヴィクトリア王妃の許しを得ました。
謁見の間を退出したあと、リリアは廊下で小さく息を吐きました。
張りつめていた肩から、少しだけ力が抜けます。
それに気づいたハインリヒが、リリアへ声をかけました。
「リリア」
「はい、父さま」
「よく、自分の言葉で伝えましたね」
その一言に、リリアは胸がいっぱいになりました。
「……はい」
ハインリヒは、それ以上多くを言いませんでした。
ただ、父として、リリアを見守っていました。
ラシードはハインリヒへ向き直り、改めて頭を下げました。
「ハインリヒ様。ありがとうございます」
「礼なら、すべてが整ってから改めて受け取りましょう」
ハインリヒはそう言って、少しだけ目を細めました。
「ですが、ラシード様」
「はい」
「リリアを悲しませることだけは、決してなさらないように」
ラシードは、真剣な顔で頷きました。
「承知しております」
その返事を聞き、ハインリヒは頷きました。
やがて三人は、蒼月の待つ場所へ戻りました。
すべてを聞いた蒼月は、リリアのそばに立ちました。
「終わったのか」
「ええ」
リリアが頷くと、蒼月はラシードを一度だけ見ました。
その瞳には、軽い冗談を許さない静けさがありました。
「なら、行くか」
蒼月の声に、リリアは小さく頷きました。
こうしてリリアとラシードは、蒼月を伴い、転送機でサハルディア王国へ向かいました。




