第九十話 愛がゆえに
翌日の昼前。
リリアたちは、昼食を詰めた籠を持って、湖畔へ向かっていました。
秋の空は高く澄み、雲ひとつない青を、静かな湖面に映しています。
春に訪れたときよりも空気は冷たく、けれど陽射しはやわらかく、頬に触れる風も心地よいものでした。
湖のほとりには、小さなボートが用意されていました。
ラシードが先に乗り込み、手を差し出します。
「足元、気をつけろよ」
「はい」
リリアはラシードの手を借りて、ゆっくりとボートに乗りました。
続いて蒼月も、少しだけ足元を確かめるようにして乗り込みます。
ボートが湖面へ押し出されると、水が船べりを静かに叩きました。
ラシードが櫂を取るたび、澄んだ水面に小さな波紋が広がっていきます。
リリアは、膝の上に置いた昼食の籠を押さえながら、湖の上から見える秋の森を見渡しました。
「きれい……」
赤茶や黄金に染まった木々が、湖の上にも同じように揺れていました。
空に一つ。
水の中に、もう一つ。
まるで、秋の森が二つ並んでいるようでした。
蒼月は、しばらく黙って水面を見つめていました。
その横顔を見て、リリアが首をかしげます。
「蒼月?」
呼ばれて、蒼月は顔を上げました。
「ボートというものには、乗ったことがないな」
「えっ、そうなの?」
リリアが驚いたように目を丸くします。
ラシードも櫂を動かしながら、少し意外そうに蒼月を見ました。
「あれだけ長くいて、ないのか」
蒼月は、ほんの少しだけ目を伏せました。
「……私は、大地を守っていただけだ。地上の暮らしのことなど、ソフィアが来るまでほとんど知らなかった」
その名が出た瞬間、湖面を渡る風が少しだけ静かになったように感じられました。
「ソフィアとは、修行をしたり、魔物を討ったりするばかりだったからな。このように景色を眺め、皆で食事を楽しむような時間はなかった」
リリアは、蒼月を見つめました。
その言葉は淡々としていましたが、どこか遠い記憶に触れているようでした。
「それなら、今日は蒼月の初めてですね」
蒼月が、リリアを見ました。
「初めて?」
「はい。ボートに乗って、湖の上から景色を見て、お昼を食べるんです。蒼月の初めてを、一緒にできるのは嬉しいです」
リリアはそう言って、柔らかく笑いました。
蒼月はすぐには答えませんでした。
ただ、リリアの笑顔を見つめます。
湖面から返る光が、蒼月の白銀の髪に淡く揺れていました。
「……そうか」
やがて、蒼月は小さく答えました。
「なら、よく覚えておこう」
その言葉に、リリアの表情がさらに明るくなります。
「はい。忘れないでくださいね」
「忘れない」
蒼月は言いました。
ラシードは二人のやり取りを聞きながら、少しだけ口元を緩めました。
「じゃあ、初めての船旅が転覆で終わらないように、二人ともおとなしくしてろよ」
「転覆なんてしません」
リリアが少しむっとして返すと、蒼月も真顔でうなずきます。
「問題ない。私がいる」
「その自信が一番怖いんだよ」
ラシードが呆れたように言うと、リリアは思わず笑いました。
秋の湖に、穏やかな笑い声が広がっていきます。
ボートはゆっくりと、色づいた森を映す湖面の上を進んでいきました。
そうして、お昼を食べ終わったころ。
湖の上を渡る風が、少しだけ冷たくなってきました。
籠の中には、焼き菓子がいくつか残っているだけです。
リリアは膝の上で包み布を丁寧に畳み、満足そうに息をつきました。
「おいしかったです」
「よく食べたな」
ラシードが櫂を休めながら言うと、リリアは少しだけ得意そうに笑いました。
「今日はたくさん景色を見ましたから」
「食べる理由が景色なのか」
「だって、お外で食べると、いつもよりおいしいんですもの」
リリアがそう言うと、蒼月は目を細めました。
「分かる気がする」
「蒼月も?」
「ああ。地上の食事は、景色と一緒に覚えるものなのだな」
その言葉に、リリアはふわりと笑いました。
「では、今日のお昼も覚えていてくださいね」
「忘れない」
蒼月は短く答えました。
その声は、湖の静けさに溶けるほど穏やかでした。
湖の上をしばらく進んだころ、蒼月がリリアへ手を伸ばしました。
「リリア、こちらへおいで。膝の上だ」
「えっ……でも」
リリアは戸惑ったように目を瞬かせ、向かいに座るラシードを見ました。
ラシードは、少しだけ息を吐いてから、黙ってうなずきます。
この頃から、ラシードは蒼月がリリアのそばへ寄ることを、あまり邪魔しなくなっていました。
もちろん、何も感じないわけではありません。
リリアが蒼月に手を引かれ、膝の上へ座るのを見れば、胸の奥が小さくざわつきます。
それでも、止めようとは思いませんでした。
蒼月もまた、リリアを大切に思っている。
それが、今のラシードには分かっていました。
蒼月は、あの時、はっきりと「愛している」と言っていました。
俺がまだ、口にできずにいる言葉を。
もちろん、やきもちがないわけではありません。
けれど、リリアに残された時間は、あまりにも限られている。
その中で、リリアを大切に思う誰かとの時間まで、奪うような真似はしたくありませんでした。
リリアは蒼月の膝の上に座り、少しだけ落ち着かない様子でラシードを見ます。
「大丈夫だ。落ちるなよ」
ラシードがそう言うと、リリアはほっとしたように小さく笑いました。
「はい」
蒼月はリリアの背を片腕で支えながら、もう片方の手を差し出しました。
「リリア。魔法を教えてあげる」
「魔法?」
「ああ。リリアは攻撃魔法に向いていないだろう。だが、使い方によっては、結界も身を守る力になる」
リリアは不思議そうに蒼月を見上げました。
「結界を、ですか?」
「そうだ。手の上で、薄く、平たく、丸く整える」
「ええ……?」
リリアが困ったように声を漏らすと、蒼月は淡々と自分の手のひらを上へ向けました。
「こうだ」
蒼月の手のひらの上に、淡い光が生まれました。
それは薄い円のように広がり、透明な硝子の刃にも似た結界となって、回っています。
湖面の光を受けて、その輪郭がかすかに揺れました。
「これを、方向を定めて放つ。必要なら、割って分散させてもいい」
蒼月が軽く手を動かすと、薄い円の結界が音もなく飛びました。
それは湖面を滑るように進み、岸辺に伸びていた細い枯れ木へ触れます。
次の瞬間、枯れ木の幹がすぱりと断たれ、水辺へ倒れました。
リリアは驚いて、息をのみます。
「すごい……」
「攻撃魔法を無理に使うより、負担は少ない。もともとリリアの力は、守るものに近いからな」
蒼月は、リリアの手を取らず、手のひらの下へ自分の手を添えました。
「普通の魔法なら、杖が流れを助けてくれる。だが、浄化は駄目だ。あれは魂に触れる。今のリリアには、使わせられない」
その声は、静かでした。
けれど、そこには譲らない強さがありました。
リリアは、蒼月の言葉を受け止めるように、ゆっくりとうなずきます。
「はい。浄化は、使いません」
「なら、試してごらん」
蒼月の手が、リリアの手のひらの下に添えられます。
触れているのは、支えるためだけのわずかな温もりでした。
リリアは息を吸いました。
湖の上を渡る風が、二人の髪を揺らします。
やがて、リリアの手のひらの上に、小さな光が生まれました。
薄く、頼りなく、それでも確かに丸い形を保とうとしています。
「そうだ。上手いぞ」
蒼月の声に、リリアはほっと息をつきました。
ラシードは櫂を止め、黙ってその様子を見守っていました。
リリアの手のひらに残っていた淡い光が、ゆっくりと消えていきます。
湖の上には、また静かな風だけが戻ってきました。
蒼月は、リリアの手の下から自分の手を離しました。
そして、リリアにだけ聞こえるほどの低い声で、耳元に囁きます。
「リリア、幸せにおなり」
リリアの肩が、かすかに揺れました。
「リリア、愛している。その気持ちに変わりはない」
蒼月の声は、秋の湖面のように静かでした。
けれど、その奥には、決して消えない深い熱がありました。
「そして、私には遠慮はいらない。おまえが選びたいものを選べ」
リリアは息を止めたまま、何も言えませんでした。
蒼月は、それ以上言葉を重ねませんでした。
ただ一度だけ、リリアの髪に触れるか触れないかの距離で手を止め、それから立ち上がります。
「では、私は先に岸へ戻る」
「えっ」
リリアが顔を上げた時には、蒼月の身体はもう、ふわりとボートの縁を越えていました。
蒼月は水音も立てず、まるで風に乗るように湖面へ降り立ちました。
次の瞬間、白銀の髪を秋風になびかせながら、水面を蹴るようにして岸へ向かっていました。
足元に小さな波紋だけを残し、その姿は光の上を渡っているように見えます。
少し離れたところで、蒼月が振り返りました。
「ラシードが変なことをしたら、その結界で斬ってやれ」
そう言って、珍しく少しだけ笑います。
「蒼月……!」
リリアが思わず声を上げたころには、蒼月はもう岸辺へ向かって進んでいました。
ボートの上に、妙な沈黙が落ちます。
リリアの顔は、耳まで真っ赤になっていました。
膝の上で、ぎゅっと両手を握りしめています。
ラシードはしばらく蒼月の背を見送っていましたが、やがて眉を寄せました。
「……なんだ、あいつ」
「さ、先に岸へ戻るって……」
リリアはそう答えましたが、声が少し上ずっていました。
ラシードはゆっくりと視線をリリアへ戻します。
赤く染まった頬。
伏せられた瞳。
何かを言われたのだと、聞かなくても分かりました。
「……何を言われた」
「えっ」
「その顔で、何もないは通らないだろ」
リリアはさらに頬を赤くして、膝の上の布をきゅっと握りました。
「そ、それは……」
ラシードは櫂を持ったまま、少しだけ息を吐きます。
嫉妬がないわけではありません。
けれど、不思議と怒りはありませんでした。
蒼月が何を言ったのか。
すべてを聞いたわけではないのに、なぜか分かる気がしました。
あの神は、リリアを縛るために言葉を残したのではない。
リリアを自由にするために、あえて自分から離れたのだ。
ラシードは、岸へ向かっていく蒼月の背をもう一度見ました。
「……格好つけやがって」
小さくこぼした声に、リリアが目を瞬かせます。
「ラシード?」
「なんでもない」
ラシードは、握っていた櫂を置きました。
小さなボートが、湖面の上で揺れます。
「リリア」
「はい」
「蒼月に、何を言われたのかは聞かない」
リリアは、まだ頬を赤くしたまま、視線を落としました。
「でも、あいつが何のために先に戻ったのかくらいは分かる」
ラシードは、まっすぐにリリアを見ました。
「……俺は、リリアを愛している」
湖面を渡る風が止まったかのように、リリアの息が止まりました。
湖の上を、秋の風が通り過ぎていきます。
色づいた森が水面に揺れ、空の青が、二人の間に淡く落ちていました。
「昨日、お母上にも話した」
リリアは驚いたように、ラシードを見つめました。
「ラシード……?」
「勝手に決めたわけじゃない。リリアの気持ちを置いて進めるつもりもない。ただ、俺が本気でいることだけは、先に伝えておきたかった」
ラシードの声は低く、けれどはっきりしていました。
「俺は、今ここにいるリリアが好きだ。綺麗なものを見て笑うところも、すぐ無理をするところも、誰かのために泣けるところも、全部」
リリアの瞳に、じわりと涙が浮かびました。
「だから、俺の隣にいてほしい」
ラシードは、リリアの目を見て言いました。
「俺、いやっ、私と、結婚してくれないか」
リリアは何も言えませんでした。
差し出されたラシードの手を見つめ、次に、その顔を見上げます。
湖面の光が、涙に揺れる翡翠の瞳を淡く照らしていました。
「……私で、いいのですか」
その声は、とても小さなものでした。
ラシードは、すぐに首を振りました。
「リリアがいい」
即座に返された言葉に、リリアの涙が一粒こぼれました。
「残された時間が、短くても?」
「ああ」
「ラシードを、悲しませてしまうかもしれなくても?」
「それでもいい」
ラシードは、少しだけ苦しそうに笑いました。
「悲しむのが怖くて手を伸ばさなかったら、俺はきっと、その方を一生後悔する」
リリアは、胸の前で握っていた手をゆっくりとほどきました。
そして、震える指先で、ラシードの手に触れます。
「……私も」
言葉が、涙に滲みました。
「私も、ラシードが好きです」
ラシードの目が、揺れました。
「ラシードと、一緒にいたいです」
その返事を聞いた瞬間、ラシードはリリアの手を包みました。
強く握りすぎないように。
けれど、もう離さないと伝えるように。
「リリア」
名前を呼ばれて、リリアは涙をこぼしながら微笑みました。
「はい」
ラシードは、ゆっくりと身を寄せます。
「触れてもいいか」
リリアの頬が、涙の上から赤く染まりました。
「……はい」
その返事を聞いてから、ラシードはリリアの頬に手を添えました。
湖の上を渡る風が、二人の髪を揺らしていきます。
リリアは涙の残る瞳でラシードを見上げ、やがて目を閉じました。
ラシードは、身を寄せます。
最初は、触れるだけでした。
リリアの指が、ラシードの手をきゅっと握りました。
その力が返事のように伝わってきて、ラシードはもう一度、深く名を呼ぶ代わりに、口づけを重ねました。
湖面が小さく揺れ、ボートの縁に淡い波が触れます。
遠くで水鳥の羽音がしました。
けれど二人のあいだには、風の音さえ遠くなるような静けさだけがありました。
やがてラシードがゆっくりと離れると、リリアは真っ赤な顔でうつむきました。
涙の跡が残る頬に、湖面の光が淡く揺れています。
「……ラシード」
名前を呼ぶ声は、ひどく小さく、けれど確かに甘く震えていました。
ラシードは、リリアの頬に触れたまま、少しだけ苦しそうに笑いました。
「悪い。止まらなかった」
リリアは何か言おうとして、言葉にならず、うつむきました。
けれど、繋いだ手は離しませんでした。
ラシードはその手を包み直します。
言葉にすればこぼれてしまいそうなものを、二人はただ、静かな湖の上で抱きしめていました。
「安心しろ。俺は、あの面倒な神様もまとめて面倒見る」
その声に、リリアは涙の残る顔で小さく笑いました。
「ふふ。ラシードらしいですね」
リリアは、微笑みました。
その笑みに、ラシードの表情もほどけました。
ボートは、淡い波の上で揺れています。
高い空と色づいた森が湖面に重なり、秋の光の中でゆっくりと滲んでいました。
岸へ戻ると、蒼月が二人を待っていました。
ラシードはリリアをボートから降ろし、その手を取ったまま蒼月の前へ進みました。
蒼月は、繋がれた二人の手へ目を向けます。
「蒼月。話しておきたいことがある」
ラシードの声に、蒼月は二人を見ました。
「俺は、リリアと結婚する」
迷いのない言葉でした。
リリアは隣に立ち、ラシードの手を握り返しました。
「私も、ラシードと生きていきたいと思っています」
蒼月は、二人の顔を交互に見つめました。
「そうか」
蒼月の口元に、笑みが浮かびました。
「おめでとう、リリア。ラシード」
「ありがとう、蒼月」
リリアの瞳に喜びが広がりました。
「ああ。だが、泣かせたら許さない」
「分かっている」
二人の答えを聞き、蒼月は満足したように頷きました。
これから先、何が待っていようとも、二人が選んだ未来を、蒼月もまた祝福していました。




