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銀狼物語 ~森で出会った銀狼と紡ぐ運命の物語~  作者: ななお
第一部 第五章 千年前の真実

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第八十九話 それぞれの思い

秋も深まり、少し肌寒くなってきたころ。

一行は、ふたたび湖畔の小館を訪れていました。


春に見た湖畔は、今は少し遅い秋の色に包まれていました。

森の木々は赤茶や黄金に染まり、その美しい景色を、静かな湖面に映しています。


訪れたのは、ラシード、リリア、蒼月、リリアの母、セシリア、そして最小限の侍従だけでした。

大勢で騒ぐためではなく、ただ、リリアに穏やかな時間を過ごさせるための滞在でした。


「わぁ……とってもきれいね」


小館の前で足を止めたリリアが、湖を見つめて声を弾ませました。


「春とは、全然ちがいますね」


「そうだな。ここまで見事だとは思わなかった。すごいな」


ラシードも、湖面に映る木々を見ながらうなずきました。

風が吹くたび、色づいた葉が枝先でかすかに揺れ、その影が水の上でやわらかくほどけていきます。


リリアはふと足元に目を落とし、小さく笑いました。


「見て。どんぐり、かわいい」


丸いどんぐりを拾い上げると、リリアは掌の上に乗せました。

そのとき、近くの木の根元から、小さなリスが姿をのぞかせます。


リリアが息をひそめて手を差し出すと、リスは少し迷うように立ち止まり、それからちょこちょこと近づいてきました。

小さな前足が、リリアの掌からどんぐりを抱えるように受け取ります。


「まあ……」


リリアが嬉しそうに笑うと、リスはどんぐりを抱えたまま、すばやく木の方へ戻っていきました。


蒼月が湖の方へ視線を向けます。


「ラシード、ボートに乗りたいぞ。前回は乗れなかったからな」


「ああ。明日な」


ラシードは即座に答え、それからリリアへ視線を戻しました。


「今日は疲れただろうから、夕飯を食べたらちゃんと寝ろよ」


「ラシードって、お母さんみたいよね。ふふ」


リリアがくすくすと笑います。


「そうだな」


蒼月まで当然のように同意しました。


ラシードは、二人を見比べて、深く息を吐きます。


「おまえら……」


その呆れた声に、リリアの母とセシリアも思わず笑みをこぼしました。

秋の湖畔には、冷たい風の中にも、春とは違うやわらかなぬくもりが満ちていました。


夕暮れが湖の向こうへ沈むころ、小館の食堂には温かな灯りがともされていました。


窓の外では、色づいた木々の影が少しずつ夜に溶けていきます。

昼間よりも冷えた風が窓をかすかに鳴らし、そのたびに、暖炉の火が小さく揺れました。


食卓には、きのこのスープや、香草を添えた焼き魚、栗を混ぜた温かな料理が並べられていました。

森の実りを集めたような夕飯に、リリアは目を輝かせます。


「わぁ……おいしそう」


「昼間あれだけ歩いたんだ。温かいうちに食べろよ」


ラシードがそう言って、スープの器をリリアの前へ少し寄せました。


「はい」


リリアは素直にうなずき、匙を手に取ります。

きのこの香りを含んだ湯気が、ふわりと頬を撫でました。


「おいしい……」


その声に、リリアの母がやわらかく目を細めました。


「本当に、楽しそうね」


「はい。湖も森も、とってもきれいでした。どんぐりもたくさん落ちていて、小さなリスも来たんです」


「まあ。リスまで?」


「はい。手からどんぐりを持っていったの」


リリアは昼間のことを思い出したのか、嬉しそうに笑いました。

その笑顔につられるように、セシリアも控えめに表情を和らげます。


暖炉の火が、食堂の壁に淡い影を揺らしていました。

春に訪れたときの湖畔とは違い、秋の夜は静かで、少しだけ深い匂いがします。

焼いた栗の甘い香りと、薪の燃える香りが、温かな空気に溶けていました。


「明日はボートに乗るんでしょう?」


リリアがふと思い出したように言うと、蒼月が顔を上げました。


「当然だ」


「蒼月、本当に楽しみにしていたのね」


「前回は乗れなかったからな」


蒼月はまっすぐに答えました。

その真面目な声に、リリアがくすりと笑います。


「じゃあ、明日は一緒に乗りましょうね」


「ああ」


「天気がよければな」


ラシードが口を挟むと、蒼月がじっとそちらを見ました。


「乗る」


「だから、天気がよければって言ってるだろ」


「湖が荒れていなければ問題ない」


「おまえは問題なくても、リリアが冷えるだろうが」


ラシードが呆れたように返すと、リリアは匙を持ったまま小さく笑いました。


「大丈夫よ。ちゃんと暖かくしていきます」


「それでも長くは乗らないからな」


「はい」


リリアは笑みを残したまま、もう一度スープを口に運びました。


食事の途中、リリアは時折、窓の外へ目を向けました。

暗くなった湖はもうよく見えません。

けれど、昼間に見た黄金色の森と、湖面に映る木々の影は、まだ胸の奥にやわらかく残っていました。


少し長く話したあと、リリアはふと息を整えるように手を止めました。

ラシードはそれを見逃しませんでした。


「リリア」


名前を呼ばれて、リリアは顔を上げます。


「食べ終わったら、今日は早めに休め」


「……少しだけ、暖炉のそばにいてもいい?」


「少しだけだ」


「ありがとう」


リリアが嬉しそうにうなずくと、ラシードはそれ以上、何も言いませんでした。

ただ、温かい茶をセシリアに用意させ、リリアの椅子のそばへさりげなく置かせます。


蒼月はその様子を見て、目を細めました。


秋の夜は、春よりも早く深まっていきました。

けれど小館の中には、温かな料理の匂いと、暖炉の火と、穏やかな声が満ちていました。


その時間が少しでも長く続けばいいと、誰もが言葉にはしないまま思っていました。


リリアが寝静まったころ、食堂の火は少し落とされ、小館の中は静けさに包まれていました。

窓の外では、夜の湖が黒い鏡のように沈み、時折、風に揺れた枝葉がかすかな音を立てています。


セシリアはリリアの寝室に付き添っていました。

食堂に残っていたのは、ラシードと、リリアの母だけです。


温かな茶の入った杯を両手で包みながら、リリアの母はしばらく黙っていました。

やがて、暖炉の火を見つめたまま、口を開きます。


「ラシード様」


「はい」


ラシードが顔を上げると、リリアの母はゆっくりと頭を下げました。


「ありがとうございます」


その声は、あまりにも静かでした。

けれど、深く胸の奥からこぼれたものだと分かる響きがありました。


ラシードは少しだけ眉を寄せます。


「礼を言われるようなことは、していません」


「いいえ」


リリアの母は首を振りました。


「リリアが、あんなふうに笑っているのを見られるだけで、私は……本当に、救われています」


暖炉の火が、母の横顔をやわらかく照らしていました。

その目元には、笑みと、こらえきれない寂しさが同じだけ浮かんでいます。


「王都へ来てから、あの子はたくさんのものを背負うようになりました」


「公爵としての立場も、浄化の役目も、周りの期待も……私には、もう分からないことばかりです」


ラシードは黙って聞いていました。


「けれど、今日のリリアは、ただの娘でした。湖を見て喜んで、どんぐりを拾って、リスに笑って……夕飯を前に目を輝かせて」


そこで母は、少しだけ笑いました。


「昔のままの、私の娘でした」


ラシードは視線を落としました。

卓の上で、茶の湯気が細く揺れています。


「……俺は、リリアを公爵として見ているわけじゃありません」


少し間を置いて、ラシードは低く言いました。


「もちろん、立場を軽く見ているわけじゃない。けど、俺が見ているのは、今ここにいるリリアです」


リリアの母が、ラシードを見ました。


「頑張りすぎるし、すぐ無理をする。綺麗なものを見たら目を輝かせるくせに、自分が疲れていることには気づかない。だから、誰かが止めないといけない」


ラシードは苦笑するように息を吐きました。


「まあ、本人には、また世話焼きだと言われるでしょうけどね」


その言葉に、リリアの母は小さく笑いました。

けれどすぐに、目を伏せます。


「それでも、そばにいてくださる方がいることが、ありがたいのです」


静かな声でした。

母として、できることが少なくなっていく痛みを、必死に抱えている声でもありました。


「私は、リリアを守ってやりたいのに……もう、あの子の歩く場所まで、ついていくことはできません。だから、今日のように、あの子が安心して笑える時間を作ってくださることが、どれほどありがたいか」


二人の間に沈黙が堕ちました。

暖炉の薪が、小さく爆ぜます。


「……リリアは、ちゃんとラシード様のことを見ています」


ラシードは言いました。


「今日も、何度も振り返っていました。湖を見たときも、リスが来たときも、夕飯を食べたときも。嬉しいものを見つけるたびに、ラシード様に伝えようとしていた」


母の指が、杯を包むように少し強くなりました。


「だから、ラシード様がそばにいるだけで、リリアは安心しているんだと思います」


リリアの母は、しばらく何も言いませんでした。

ただ、深く息を吸い、震えそうになる口元を抑えます。


「……ありがとうございます」


今度の礼は、先ほどよりも少しだけ涙を含んでいました。


ラシードは困ったように視線をそらし、暖炉の火を見ました。


「礼を言うなら、明日のボートが無事に終わってからにしてください。リリアと蒼月が、どれだけはしゃぐか分かりませんから」


その言葉に、リリアの母は思わず笑みをこぼしました。


「そうですね。きっと、リリアは朝から楽しみにしているでしょうね」


「間違いなく」


ラシードは短く答えました。


外では、秋の風が木々を揺らしていました。

小館の中には、眠るリリアを起こさないような、ひそやかな温もりだけが残っています。


母はもう一度、深く頭を下げることはしませんでした。

ただ、暖炉の火を見つめながら、噛みしめるように微笑みました。


その夜、湖畔の小館には、春とは違う静かな祈りのような時間が流れていました。


ラシードは、しばらく黙って暖炉の火を見つめていました。

けれどやがて、何かを決めたように背を正します。


「お母上に、言っておきたいことがあります」


リリアの母が、顔を上げました。


ラシードは一度だけ息を吸い、それから、まっすぐに言いました。


「私は、リリア……いや、リリア嬢を」


言い直した瞬間、自分の言葉のぎこちなさに、ラシード自身が眉を寄せました。


「柄じゃないな」


リリアの母は、その様子に、口元を緩めました。

ラシードは一度小さく咳払いをして、改めて口を開きます。


「私は、リリア嬢と結婚したいと思っています。もちろん、リリア嬢が承諾してくれたなら、ですが。その時は、お許しいただけますか」


リリアの母は、すぐには答えませんでした。

驚いたように目を見開き、それから、ゆっくりとラシードを見つめます。


暖炉の火が、小さく音を立てました。


「それは……とても、嬉しいことです」


その声は、震えていました。

けれど、喜びだけではありませんでした。


「でも、ラシード様にとって、とてもつらいことになるのではありませんか」


ラシードは、すぐには答えられませんでした。

その問いが、ただの遠慮ではないと分かっていたからです。


リリアの母は、胸元で指を重ねました。


「あの子の残された時間が、長くはないことは……私も、聞いています」


静かな言葉でした。

けれど、その一つ一つが、喉の奥で何度も引き止められてから出てきたようでした。


「母親としては、リリアが誰かに愛されることは、本当に嬉しいのです。けれど同時に、その方を悲しませることになるのではないかと……そう思ってしまうのです」


ラシードは、伏せていた視線を上げました。


「つらくないと言えば、嘘になります」


そう言ってから、ラシードは小さく息を吐きました。


「でも、それは、リリア嬢を選ばない理由にはなりません」


リリアの母の瞳が、かすかに揺れました。


「私は、リリア嬢の残された時間が短いから、そばにいたいわけじゃありません」


ラシードはまっすぐに続けました。


「リリア嬢だから、そばにいたいのです。笑っているところも、無理をしてしまうところも、綺麗なものを見て子どもみたいに喜ぶところも、全部見てきました。だから、これから先の時間を、少しでも一緒に過ごしたい」


暖炉の火が、ラシードの横顔を赤く照らしていました。


「たとえ短くても、リリア嬢が生きる時間を、ただ悲しいものにはしたくありません。幸せだったと思える時間を、ひとつでも多く渡したい」


リリアの母は、何も言えないまま、唇を結びました。

その目元に、涙が浮かびます。


「……ラシード様」


「もちろん、リリア嬢が望まなければ、私は何もしません。私の気持ちだけで進めるつもりはありません」


ラシードは言いました。


「だから今は、先にお母上へ伝えておきたかった。リリア嬢がもし、私の手を取ってくれた時に、あなたに迷惑や不安だけを残したくなかったのです」


リリアの母は、震える息を吐きました。

そして、両手で杯を包んだまま、ゆっくりと目を伏せます。


「……リリアは、幸せな子ですね」


その声は、涙に濡れていました。


「こんなふうに想ってくださる方がいるなんて」


ラシードは何も言わず、ただ待っていました。


やがて、リリアの母は顔を上げました。

涙をこらえながらも、その表情には、母としてのやわらかな強さが戻っていました。


「リリアが、ラシード様と共に歩きたいと望むなら……私は、反対いたしません」


ラシードの目が、揺れました。


「ありがとうございます」


深く頭を下げるラシードに、リリアの母は小さく首を振りました。


「こちらこそ、ありがとうございます。あの子を、残された命としてではなく、一人の娘として見てくださって」


その言葉に、ラシードはしばらく黙っていました。

そして、低く答えます。


「私にとって、リリア嬢はリリアです。それ以外の何者でもありません」


リリアの母は、涙をこぼしながら微笑みました。


外では、秋の風が湖畔の木々を揺らしていました。

小館の中では、暖炉の火だけが燃えています。


眠るリリアにはまだ届かない約束が、その夜、ひそやかに結ばれていました。


その会話を、蒼月は小館の屋根の上で聞いていました。

秋の夜風が、銀の髪を揺らしています。


暖炉の灯りが、窓の向こうで淡く揺れていました。

その中で交わされるラシードとリリアの母の声は、ひどく静かで、ひどく温かいものでした。


蒼月は、空を見上げました。


私も、リリアを愛している。


その想いだけなら、誰にも劣るつもりはありませんでした。

リリアの魂に触れ、痛みを知り、笑顔を知り、涙を知った。

誰より近くで、その命の震えを感じてきました。


それでも。


人としての幸せを、リリアに与えられるのは、自分ではないのだと分かっていました。


ラシードなら、リリアの手を取ることができる。

同じ食卓を囲み、同じ季節を歩き、同じ場所で笑うことができる。

リリアが美しい景色を見て喜べば、その隣で笑い、冷えれば上着をかけ、疲れれば休めと叱ることができる。


それは、蒼月には与えられない幸福でした。


分かっている。


分かっているのに、胸の奥が軋みました。


渡したくない。


その言葉が、心の底から浮かび上がります。


私だって、リリアを大切にしたい。

私だって、リリアのそばにいたい。

誰にも触れさせず、誰にも奪わせず、この腕の中に守ってしまえたなら、どれほど楽だっただろう。


私の宮へ連れていけば、今より長く生きられるかもしれない。

地上よりも時間の流れが遅いあの場所なら、リリアの命を少しでも引き延ばせるかもしれない。


けれど、それは救いではありません。


この湖畔の景色を見ることも。

温かな食事を楽しむことも。

母と笑い合うことも。

ラシードに呆れたように世話を焼かれることも。

小さなリスにどんぐりを渡して、子どものように目を輝かせることも。


そのすべてを奪って、ただ命だけを長らえさせる場所など、牢獄と変わらない。


リリアは、人として生きている。

この地上で、風に触れ、季節を見て、人と笑いながら生きている。


その幸せを、自分の未練で奪うことなどできませんでした。


蒼月は、目を伏せました。


リリアの幸せを願うなら。


本当に、リリアを愛しているのなら。


自分が選ぶべきものは、もう分かっていました。


それでも、胸の奥ではまだ、幼いほど愚かな願いが消えません。


渡したくない。

誰にも、渡したくない。


けれど、リリアには笑っていてほしい。


その二つの想いが、秋の夜風の中で、蒼月の胸を裂いていました。

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