表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
銀狼物語 ~森で出会った銀狼と紡ぐ運命の物語~  作者: ななお


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/24

第九話:動き出す運命の歯車

ローゼンの町には再び初夏の光が差し始めていました。

けれど、世界の状況は、悪くなる一方でした。

各地で魔物の被害が増え続けており、どこかの町が襲われて滅びたという凄惨な噂も、今や珍しくなくなっています。

王国軍が事態を重く見て各地へ急派されてはいるものの、吹き荒れる災厄の嵐を止めることは叶いません。

前線で傷つく兵士は日に日に増え続け、失われていく尊い命も後を絶ちませんでした。


そんな混迷を極める情勢のなか、この地を治める領主アルベルトは、執務室で眉間を揉みほぐしながら、王都グランリューネへ向けて何度も詳細な報告書をしたためていました。

記されているのはもちろん、リリアの持つ不可思議な治癒の力についてです。

黒く蝕まれていた町外れの森を元の瑞々しい姿へ戻したこと。

死の淵にあった鍛冶屋の青年レオンを救った本物の奇跡。

そしていまも教会の救護所で、人々の傷を無償で癒やし続けていること――。


最初はそんな夢物語のような報告を半信半疑で受け流していた王都の重臣たちも、再三にわたって届く厳格な領主からの公式書状を、とうとう無視できなくなっていきました。


(もしもこの報告がすべて事実であるならば、それは戦火に喘ぐグランヴァルド王国の未来を、根底から左右しかねない大いなる力だ……)


領主アルベルトは確信していました。

リリアの力は、世に溢れるありふれた治癒魔法などではない。

遠い神話の時代に国を救ったと讃えられる、伝説の「聖女の奇跡」に極めて近いものなのだと。


そんなある日のことでした。

リリアがいつものように教会の敷地で人々の診療を終えた頃、一人の男性が彼女の家を訪ねてきました。

白髪交じりの年配の、落ち着いた物腰の男性です。

仕立ての良い黒の礼服を隙なく着こなし、背筋を真っ直ぐに伸ばして佇んでいました。

男性はリリアの前で、丁寧に一礼します。


「突然の訪問をお許しください、リリア殿。私は領主アルベルト・フォン・ローゼン様に仕える身で、エドガー・クロイツと申します」


「あ……はじめまして。リリア・グランベルと申します」


リリアは少し驚きながらも、礼儀正しく慌てて頭を下げました。

エドガーはそんな彼女の態度に、安心したように穏やかな微笑みを浮かべます。


「リリア殿。実は、我が主であるアルベルト様があなたをお呼びなのです。どうしても直接、大切なお話があるとのことでした」


リリアは不思議そうに首を傾げました。


「領主様が、私と蒼月をですか……?」


「はい。できれば明日、領主様の館まで蒼月殿とお越しいただきたいのです」


それはあまりにも突然の知らせでした。

一介の町娘として静かに生きてきたリリアにとって、領主に直々に呼ばれるなど、滅多にあることではありません。

少しの不安を覚えながらリリアが隣に視線をやると、いつの間にか傍らに寄り添っていた蒼月も、静かにこちらを見つめていました。


「何だろうね、蒼月」


リリアが小さく呟くと、銀色の狼は耳をぴくりと動かしました。

しかし、その深い蒼の瞳はリリアから視線を外し、どこか遠くの空を、静かに見つめているようでした。


翌日、リリアは蒼月を伴って、高台に聳え立つ領主の館を訪れました。

門をくぐると、館の使用人や衛兵たちは蒼月の圧倒的な巨躯と神聖な佇まいに息を呑み、驚いた様子を見せます。

けれど、誰一人としてその歩みを止めようとする者はいません。

蒼月は堂々と、静かにリリアの隣を歩いていました。

あの日、命を懸けてこの地を魔物から救った高潔な守護獣として、今では館の者たちも皆、彼に深い敬意と感謝を抱いていたからです。


エドガーに厳かに案内され、重厚な応接室の扉が開かれました。

部屋の奥の席には、一人の男性が静かに腰掛けていました。

五十代半ばほどの、穏やかでありながら芯のある男性で、綺麗に整えられた白髪と、知性を湛えた落ち着いた青い瞳が印象的です。

そして、不思議と周囲の人々を安心させる、本物の貴族だけが持つ高潔な威厳をまとっていました。

このローゼン領一帯を統べる領主、アルベルト・フォン・ローゼンその人でした。


「よく来てくれたな、リリア」


アルベルトは威圧感を消し、父親のような穏やかな微笑みを向けました。

リリアは緊張で少し肩を強張らせながら、深く頭を下げます。


「リリア・グランベルです。アルベルト様、本日はお呼びいただき、ありがとうございます」


リリアはそう挨拶すると、傍らに寄り添う銀色の狼へ視線を向けました。


「それから、この子は蒼月です」


「もちろん知っているとも。ローゼンの町を救ったもう一人の功労者だからな」


蒼月は静かにアルベルトを見つめていましたが、敵意は見せず、ゆっくりと耳を動かしました。

リリアは恐る恐る顔を上げ、尋ねました。


「あの……私のような者に、一体どのようなご用件でしょうか……?」


直接言葉を交わすだけでも緊張で胸がいっぱいになり、知らず知らずのうちに全身に力が入ってしまいます。

アルベルトはそんな彼女の初々しい様子を見て、緊張を解きほぐすように小さく微笑みました。


「そう身構えなくともよい。ただ、今日はどうしても、これからのそなたの人生に関わる大切な話があるのだ」


アルベルトはそう言うと、机の上に置かれていた、一通の重厚な封書へとゆっくり手を伸ばしました。


「これは、王から我が館へ直々に届いたものだ」


リリアは息を詰め、その書状を見つめました。

アルベルトは青い瞳を真っ直ぐにリリアへと向け、厳かに言葉を続けます。


「正確には――国王陛下直筆の、王命による招聘状だ」


その重い言葉に、リリアは思わず息を呑みました。

差し出された封書を、震える手で受け取ります。

王命による招聘状。

それは国王自らが、国にとって必要不可欠な者であると認めた相手にしか送られない、極めて特別な最高位の書状でした。

町で生まれ育った自分がそのようなものを受け取るなど、これまでの人生で想像したことすらありません。


「王様から……」


困惑のあまり、掠れた声が零れます。

アルベルトは嘘偽りのない事実として、力強く頷きました。


「そなたの治癒の力について、私が王都へ送り続けた公式報告が、正式に受理され王へ届いたのだ。まずはその目で、中身を確かめてみるといい」


リリアは緊張で脈打つ胸を抑えながら、手元の封書をじっと見つめました。

真紅の蝋で厳重に封がされた、上質で重厚な封筒。

その中央には、輝かしいグランヴァルド王家の紋章がくっきりと刻印されています。

丁寧に蝋封を外し、ゆっくりと封筒を開くと、中から現れたのは、見たこともないほど上質な白い羊皮紙でした。

上質な墨で美しく流麗に記されたその文字を、リリアは一文字ずつ、静かに目で追っていきました。


『リリア・グランベル殿


そなたがローゼン領において多くの民を救い、優れたる癒やしの力をもって傷ついた者たちを助けてきたことについて、領主アルベルトより克明に報告を受けている。

また近年、グランヴァルド王国内の各地においては魔物による被害が増加の一途をたどっており、最前線で戦う王国騎士団ならびに王国魔法部隊においても、多くの負傷者が溢れ、混迷を極めている状況にある。

そなたの持つ奇跡の力は、これら多くの尊い命を闇から救い出すことのできる、国にとって唯一無二の至宝であると聞き及ぶ。

よって王命により、そなたを王都へと正式に招聘する。

王都へ到着した暁には、速やかに王宮へ参り、余との謁見に臨まれたい。

また、これからの王国騎士団および王国魔法部隊への治癒の協力についても、直接相談したいと考えている。

なお、王都滞在中の住居ならびに必要となるすべての費用については、王家の責任において万全に用意するものとする。

そなたの旅路の安全についても国を挙げて十分に配慮し、王国騎士団の護衛を含めた迎えの者を近々に派遣する。

どうか何一つ案ずることなく、安心して王都へ参られたい。


王国暦三百八十八年六月二十六日


グランヴァルド王国国王

アレクシス・フォン・グランヴァルド』


身分の低い自分に対して、驚くほど丁寧で、かつ真摯な言葉で綴られた国王直筆の書状。

読み終えたリリアは、あまりの事態の大きさに言葉もなく、ただ胸の前に書状を抱きしめたまま立ち尽くしてしまいました。

驚きと緊張で頭の中が真っ白になり、心臓が早鐘を打つように激しく高鳴ります。


アルベルトは、彼女を急かすことなく静かに語りかけました。


「黒く蝕まれていた森を元の姿へ戻したこと。高名な医師たちが見捨て、死の淵にいたレオンを救った奇跡。そして、その後も町の人々を癒やし続けていること……。

そのすべてが、確かに国王陛下の耳へと届いたのだ。リリア、この王命の招聘をどう受け止めるかは、最終的にはそなた自身が決めればよい」


部屋の中に、張り詰めた静寂が流れました。

王都は、ここから遥か遠い場所です。

見たこともない人々、経験したことのない未知の世界。

一歩を踏み出すことへの不安や恐怖がないと言えば、それは完全な嘘になります。


どうすればいいのか分からず、リリアは助けを求めるようにゆっくりと隣を見ました。

そこには、いつもと変わらぬ佇まいで床に座り込む蒼月が、落ち着いた様子でリリアを見つめ返していました。

そして、不安に揺れる彼女の翡翠色の瞳に気づくと、安心させるように、大きな鼻先を彼女の肩へとそっと優しく押し付けたのです。

触れた温かさに、リリアの口元から自然と柔らかな微笑みが溢れました。


「ありがとう、蒼月」


それだけで、不安と緊張が嘘のように、少しずつ解きほぐされていきました。

アルベルトはそんな二人を見つめながら、満足そうに小さく笑いました。


「私はな、リリア。そなたのその素晴らしい力は、この小さなローゼン領の町だけにとどまるべきではないと思っている。いまこの瞬間も、世界のどこかで泣いている、もっと多くの人々を絶望から救い出すための力なのだと」


領主の温かい言葉を受け、リリアはしばらくの間、静かに俯いて自分の手を見つめていました。


(確かに、知らない世界へ行くのは怖い。けれど……)


自分の力が届かない場所で、いまも大勢の人が魔物に傷つけられ、苦しんでいる。

その過酷な現実から、もう目を背けることはできませんでした。

リリアはゆっくりと顔を上げました。

そして、目の前の領主を真っ直ぐに見つめ返します。


「……私にできることがあるなら。この力で誰かを救えるのなら、喜んで力になりたいです。王都へ参ります」


アルベルトは満足げに深く頷くと、傍らに控えていたエドガーに視線を向けました。


「リリアの意思は固い。早急に、この返答を王都の使者へ伝令せよ」


エドガーは恭しく一礼し、足早に部屋を後にしました。

アルベルトは再びリリアへ向き直り、穏やかに言葉を続けます。


「そなたの返答は、直ちに王都へ届く。おそらく、数日中には迎えの手配が整うはずだ」


アルベルトは一度言葉を切り、真剣な眼差しで続けました。


「それともう一つ、リリア。……正式な封書とは別に、国王陛下から直々に、伝言を預かっている。……あの日、魔物の群れを相手に奮闘し、命を懸けてローゼンの町を守り抜いた気高き銀狼も、必ず共に王都へと連れて参るように、とのことだ」


「え……っ!? 王様が、蒼月のこともご存じなのですか?」


リリアは驚きに翡翠の瞳を丸くしました。


「そうだ。そなたの奇跡の報告と共に、町を救った英雄である銀狼の武勇もまた、王都の騎士たちの間で大きな噂となっている。陛下も、国を救ったその気高き獣に、ぜひ一度直接会って感謝を伝えたいと仰っているのだ」


リリアは、弾むような喜びを胸に蒼月を振り返りました。


「聞いた、蒼月? 王様も、蒼月のことを知ってくれているんだって……っ!」


蒼月は、大騒ぎするリリアを見て耳をぴくりと動かしました。

そして、ふっと短く鼻を鳴らします。

その、どこか「当然だ」と言いたげなすました反応に、リリアは思わず吹き出してしまいました。


「ふふっ、本当に蒼月らしいね」


笑いかけるリリアに対し、蒼月は大きな銀色の尻尾を、ゆっくりと一度だけ大きく揺らしました。

それが彼なりの、了解の返事でした。

アルベルトはその微笑ましい光景を認め、優しく微笑みます。


「陛下はそなただけでなく、そなたと共に戦ったその銀狼にも、一国の主として直々に感謝の誠を捧げたいのだろうな。素晴らしい相棒を持ったな、リリア」


「はい!」


リリアは嬉しそうに、蒼月の立派な首元を愛おしそうに何度も優しく撫でました。


「一緒に行こうね、蒼月」


蒼月は再び、そっと大きな鼻先をリリアの肩へと預けました。

まるで、最初からお前の隣を離れるつもりなど毛頭ない、とでも言うように。


数日が過ぎ、王都から正式な承認の報せが届きました。

再び呼び出されたリリアに対し、アルベルトは神妙な面持ちで告げます。


「リリア。王都より正式な承認と、迎えの準備完了の報せが届いた。十日後に、ここへ迎えの馬車が到着する」


アルベルトは重々しく頷きます。


「ここから王都までは、馬車を進めて順調に行っても十日ほどかかる長旅となる。道中は、国王陛下の命を受け、王都より派遣される騎士団が同行する。そなたと蒼月の安全は、彼らが責任を持って守ることになっている」


(十日……)


生まれてからこの方、ローゼン領の町の外へ出たことなど一度もないリリアにとって、それは全く想像もつかないほどの距離でした。

アルベルトは、不安を隠せないリリアへ向け、さらに声を低くして続けました。


「本来ならば、一介の治癒士の移動に、そこまで厳重な護衛を付ける必要はない。だが……今は世界が違ってしまっている」


応接室の空気が、ずしりと重く沈み込みます。


「各地で魔物の被害が増え続けていることは先日話した通りだ。王都へ続く主要な街道ですら、以前のような安全は完全に失われている。実際に先週も、王都へ向かっていた大商人の隊商が魔物の群れに襲撃され、壊滅したという凶報が届いたばかりだ。そなたの身に万が一のことがあっては、それこそ王国の損失となる。だからこそ、完全武装の騎士団が迎えに来るのだ」


領主の重い警告に、リリアは世界がいかに危険で恐ろしい状況にあるかという現実を突きつけられた気がしました。

リリアの表情は少しだけ曇りました。

けれど、不思議なことに、一度口にした決意の後悔は、彼女の胸の内に一欠片も湧き上がってはきませんでした。

むしろ、厳しい現実を知れば知るほど、彼女の胸の奥深くでは、さらに強固な、新しい決意の芽が静かに頭をもたげていたのです。


(もっと、たくさんの人をこの力で助けたい。そして、この世界でいま、一体何が起きているのかを、自分の目でしっかりと確かめたい――)


館を出る頃には、夕日が町を赤く染め始めていました。

リリアは王家から賜った招聘状を、まるで宝物のように大切そうに胸へ抱きます。


「王都グランリューネかぁ……」


リリアが小さく呟くと、その横で蒼月が、そっと彼女の肩へ鼻先を寄せました。

リリアは不安を振り払うように、小さく笑みを浮かべます。


「少し緊張してきたかも。でも、蒼月がいてくれたら大丈夫だよね」


二人は並んで、暮れなずむ町を家路へと歩いていきます。

リリアと蒼月の進むべき未来の歯車が、いま、静かに、しかし確実に回り始めるのでした。


――……――……――


リリアは王都への期待と不安を胸に歩いていましたが、隣を歩く蒼月は少し違いました。

「王都グランリューネ」という言葉を聞いてから、彼の胸の奥が妙にざわついていたのです。

遠い昔の、断片的な記憶。

思い出そうとしても霧に包まれたような感覚。

けれど、そこに何か大切なものが眠っているような、確かな予感がありました。


(王都へ行けば、何かが変わるかもしれない……)


蒼月は隣を歩くリリアを静かに見つめました。

無邪気に未来を見つめる、心優しき娘。

たとえ何が待ち受けていようとも、この命を懸けて彼女を守り抜く。

その確かな決意だけを胸に、蒼月は静かに夜の闇の中へ、その歩みを進めていくのでした。


――……――……――


家に戻ると、母がいつものように灯りをともして待っています。

リリアは深呼吸を一つし、食卓に向かい合って座りました。


「お母さん……今日、領主様からお呼びがあってね」


リリアは静かに、今日起きた出来事を話し始めました。

魔物の被害が増える世界のこと、自分が王都へ呼ばれたこと、そして差し出された王家の紋章が刻まれた羊皮紙のこと――。


「これが、その……王様からの手紙です」


リリアは招聘状を母に見せました。

母はそれを広げ、一字一句噛みしめるように読み進めます。

読み終えた母の手が、微かに震えていました。

けれど、母はリリアが思っていたような驚きや取り乱した様子は見せず、静かに羊皮紙をテーブルへ置きました。


「……王都へ、ですか」


「はい。国のために、治癒の力が必要だと言われました。私、この力で少しでも誰かの助けになりたいんです」


リリアが真っ直ぐに母を見つめると、母は慈しむような柔らかな笑みを浮かべ、リリアの頬にそっと手を添えました。


「あなたが町の人たちを癒やし、懸命に生きてきた姿を、私はずっと側で見てきました。それは、神様があなたに授けてくださった尊い光です。……行っておいで。あなたが選んだ道なら、お母さんは何も言わず、ただ祈っていますから」


「お母さん……」


リリアの目から、こらえていた涙が溢れました。

母の温かな手が、不安に揺れる心を優しく包み込んでくれます。

二人はその夜、これからしばらく離れ離れになる時間を惜しむように、遅くまで言葉を交わしました。

母はリリアの健闘を祈り、リリアは自分が町で学んだこと、母が教えてくれた優しさを、遠い王都でも忘れずに持ち続けることを約束しました。


王都への出発が決まった翌日、リリアは再び領主アルベルトに呼び出され、館を訪れていました。

応接室へ入ると、アルベルトが穏やかに迎えてくれます。


「よく来たな。今日は王都へ向かう前に渡しておきたいものがある」


そう言うと、アルベルトは傍らに控えていたエドガーへ視線を向けました。

エドガーが恭しく一礼し、大きな木箱を運んできます。


「これは旅の支度だ」


エドガーがゆっくりと蓋を開くと、中には丈夫で動きやすい素材で仕立てられた新しい旅服、王都で過ごすための服、薬草を収めるための専用の鞄、そして旅に必要な日用品が過不足なく詰め込まれていました。


「こんなに……」


「王都へ行くなら、必要になるものばかりだ。初めての土地だろう、何かと不便もあるはずだからな」


アルベルトの細やかな心遣いに、リリアは胸の奥が温かくなるのを感じました。

続けてエドガーが、待っていましたと言わんばかりに一歩前へ出ます。


「国王陛下への謁見用の衣装と、晩餐会用の衣装もご用意しております」


そう言って、エドガーは大切そうに包みを解きました。

中には美しい絹布が収められています。

朝露のように薄く透き通る薄絹、そして翡翠を思わせる深い緑の絹。

光を受けるたびに柔らかく輝くそれらは、見るからに高価な品でした。


「陛下へ謁見するのだ。細かなところまで手を抜くわけにはいかん」


「リリア殿、こちらの部屋にて採寸をお願いいたします」


エドガーに案内された別室には、熟練の仕立て職人たちが待ち構えていました。


「リリア様、こちらへどうぞ」


案内されたのは、香草がほのかに香る明るい部屋でした。

職人たちは手際よく、しかしリリアの心に寄り添うように接してくれます。


「失礼いたします」


そう断りを入れてから、細やかなメジャーがリリアの肩から腰へと滑らせられていきました。


「リリア様、腕を少し広げてくださいね」


「少し背筋を伸ばしましょうか」


慣れない採寸に、リリアは体を強張らせてしまいます。

自分の体を測られるというのは、どうしても落ち着かないものでした。

けれど、職人の女性がふと手を止めました。


「これほど整った体型なら、どんな装飾も映えますよ」


優しく微笑んでくれたおかげで、リリアもようやく肩の力が抜けました。


「このドレスは、王都の貴族たちも息を呑むような一着にいたしますから。安心してくださいね」


職人たちの仕事ぶりには、単なる作業以上の情熱が宿っていました。

一時間ほどかけて、細部まで丁寧に、何度も確認しながらの採寸。

それは、リリアという一人の娘を、堂々とした客人として送り出そうとする彼らの誇りでもありました。


採寸を終えて再びアルベルトの元へ戻ると、彼は革袋を一つ差し出しました。

受け取ると、ずしりとした重みがありました。


「これは餞別だ。王都では何かと入り用になる。自由に使える路銀は持っていた方がいい。遠慮することはない」


戸惑うリリアを、アルベルトは諭すように見つめます。


「そなたは王命により王都へ招かれた客人だ。何の準備もさせずに送り出したと知れれば、王都の貴族たちは私を笑うだろう。領主には領主の立場というものがあるのだから、ここは素直に受け取ってほしい」


その言葉にリリアが小さく頷くと、アルベルトは穏やかに微笑みました。


「それに……初めて遠くへ旅立つ娘を、手ぶらで送り出すのはどうにも気が引けてな」


「こんなに……ありがとうございます。大切に使わせていただきます」


アルベルトは続けました。


「旅服も礼装も、すべて完成したらこちらで預かり、当日に馬車へ積ませておく」


「それと、もう一つ」


アルベルトは、さらに温かい眼差しでリリアを見つめました。


「出発はこの屋敷からだ。朝は何かと慌ただしくなるだろう。準備の最終確認も兼ねて、出発前夜は当館の客室に母と共に泊まりなさい。旅立つ直前の慌たださを避け、ゆっくりと休息を取るのが一番だ」


「……ありがとうございます。では、お言葉に甘えて」


リリアは自分を支えてくれる人々の温かさに胸がいっぱいになり、蒼月と共に家路についたのでした。


翌日からは、旅立つための最後の準備です。

リリアは、自分がいない間も町の人々が困らないようにと、予備の薬草を丁寧に調合しました。

乾燥させた薬草を袋に詰め、どれがどの不調に効くのかを記したメモを添えて、いつもの診療所の棚に並べていきます。

彼女の心からの願いが込められた薬草の数々。

町を愛するリリアにとって、それは最後の恩返しであり、大切な思い出の刻印でもありました。

そうして過ごすうちに、あっという間に時間は過ぎていきました。


明日には領主の館へ入り、明後日には王都への旅が始まります。

リリアは家の庭に出て、蒼月と共に静かな空を見上げました。

この家を離れるのは不安だけれど、蒼月が傍らにいてくれる。

そう思うと、不思議と胸の鼓動は穏やかになりました。

リリアは庭で摘んだ小さな花を束ね、それを家の小さな祭壇へ供えました。


(行ってきます。必ず、また戻ってくるから)


リリアは心の中でそう誓いました。


王都からの迎えを翌日に控えた昼、リリアのもとへ領主の館から使いがやって来ました。


「礼装が仕立て上がりました。アルベルト様がお待ちです。旅の準備を整えて館へお越しください」


その知らせを聞き、リリアは少し緊張した面持ちで、母と共に館へと向かいました。

館へ到着すると、エドガーが恭しく出迎えてくれます。


「お待ちしておりました。どうぞ、こちらへ」


案内された部屋で待っていたアルベルトは、穏やかな表情で立ち上がりました。


「来たか。職人たちには少々無理を言ったが、見事に仕上げてくれたぞ」


アルベルトが満足げに視線を向けたその先には、上質な木製の衣装掛けに掛けられた、二着の美しい礼装が静かに並んでいました。


リリアは思わず息を呑みます。


一着は、国王陛下への謁見にふさわしい、淡い白を基調とした気品あるドレスでした。

窓から差し込む朝の光を浴びたその生地は、まるでドレス自体が淡い光を宿しているかのように優しく輝いています。

肩から裾にかけて重なる、朝露のように透き通る薄絹が、リリアの清らかさを引き立て、王家の客人にふさわしい格式を添えていました。


(これが……私に、似合うのかな)


リリアが圧倒されていると、アルベルトはもう一着のドレスを指差しました。


それは晩餐会のために仕立てられた、謁見用よりも少し華やかな装いでした。

同じく白を基調としながらも、翡翠色の絹が幾重にも柔らかく重ねられており、夜の灯りの下では、きっといっそう優雅に映えるのでしょう。

袖口や裾には控えめながらも上品な銀糸の刺繍が細やかに施され、清楚な美しさの中に、王都の晩餐会にふさわしい格別の華やぎが添えられていました。


二着とも、自分のために、これほどの手間がかけられたのかと思うと、リリアの胸は熱い感謝でいっぱいになります。


隣には、それぞれの礼装と見事に調和する白の上質な靴と、翡翠をあしらった髪飾り、銀細工の首飾りが丁寧に並べられていました。


「綺麗……」


思わず零れた言葉に、アルベルトは満足そうに目を細めました。


「気に入ったようだな」


「はい……こんなに素敵な服を見るのは、初めてです」


「では、実際に着て最終確認をいたしましょう」


アルベルトの促しで、リリアは職人たちに連れられて別室へと向かいました。

しかし案内されたのは衣装部屋ではなく、白石で造られた立派な浴室でした。

香草の優しい香りが漂っています。


「まずは湯浴みを。せっかくの礼装ですから」


侍女の一人が微笑みながら近付いてきます。


「ここで……?」


町の共同浴場とはあまりに違う光景に、リリアは思わず目を丸くしました。


「失礼いたします。では、お召し物を――」


侍女たちが手慣れた様子で手を伸ばすと、リリアは慌てて後ずさりました。


「だ、大丈夫です! 自分でできますから!」


顔を真っ赤にして必死に訴えるリリアの様子に、侍女たちは顔を見合わせて小さく笑いました。


「かしこまりました。では、お困りの際はお呼びください」


侍女たちが下がると、リリアはほっと息を吐いて湯へ足を沈めました。

温かな湯が体を包み込み、長旅の準備に追われていた疲れがゆっくりと溶けていきます。

湯浴みを終え、髪に香草の香油を馴染ませると、金色の髪はさらに美しく艶を帯びました。


再び衣装部屋へ戻ると、リリアは侍女たちの手助けを得て、まずは王への謁見用の礼装へ袖を通しました。

柔らかな絹は驚くほど軽く、肌に優しく馴染みました。

足元には上品な靴が履かせられ、すべてを身に着けると、鏡の中の自分はまるで別人のようでした。


椅子に座ると、今度は髪のセットが始まりました。

普段の親しみやすい一つ結びとは違い、職人によって一本一本丁寧に梳かされ、柔らかな編み込みを加えながら、うなじの見える上品なアップスタイルに結い上げられていきました。

翡翠の髪飾りが添えられ、最後に頬にほんのりと色が差されると、翠玉のような瞳が一層の輝きを宿しました。


「できました」


侍女の声に、リリアはゆっくりと立ち上がりました。

その姿を見た侍女たちは、思わず目を見開きました。


「まあ……とてもお美しい。まるで物語から抜け出した姫君のようですね」


「そ、そんな……」


リリアは恥ずかしさで顔を赤らめながら俯きましたが、侍女たちは誇らしげに微笑み返しました。


「きっと、皆様驚かれるはずですよ」


リリアは母と手を繋ぎ、準備を整えて再び応接室の扉を開けました。

扉の先にはアルベルトとエドガーが待っており、二人はその姿を見るなり、一瞬だけ言葉を失い、深く感銘を受けたように目を細めました。


「見事だ、リリア。これならば、グランヴァルド王家の客人にふさわしい、堂々たる佇まいだ」


アルベルトの言葉にリリアが背筋を伸ばすと、母もまた、愛娘の晴れ姿に涙を拭いながら微笑みました。


部屋の隅では、銀色の毛並みを揺らした蒼月がじっとリリアを見つめていました。

謁見用の礼装を纏ったその姿はあまりにも美しく、蒼月はただ、目の前の彼女が美しいという事実だけを胸に刻みました。

静かに歩み寄ると、蒼月はリリアの手にそっと鼻先を預けました。


その光景を眺めていたアルベルトが、口元を緩めて言いました。


「どうやら、蒼月もすっかり気に入ったようだな」


普段は人を寄せ付けない彼が、リリアの姿を認め、その美しさをただ受け入れていることは誰の目にも明らかでした。


アルベルトは満足そうに頷き、リリアへ穏やかな視線を向けました。


「そなたに王都での世話役を付けよう」


「私に、ですか?」


「うむ。王都での暮らしなど、そなたには分からぬだろう。それは当然のことだ。この町で生まれ育ったそなたが、突然王都へ行き、そのまま王宮で暮らすことになるのだからな」


アルベルトは優しく言葉を続けます。


「国王陛下がそなたを招いてくださっているとはいえ、周囲は見知らぬ者ばかりだ。困ったことがあっても誰に相談すればよいのか分からず、不安になることもあるだろう。だからこそ、そなたを支え、王都での暮らしを助ける者が必要だと判断した」


そう言うと、アルベルトは執事へ視線を向けました。


「ルーク・ハインツを呼んでくれ」


「かしこまりました」


ほどなくして部屋へ入ってきたのは、栗色の髪と知的な青い瞳を持つ青年、ルークでした。

しかし彼は、部屋の中央に立つリリアの姿を見た瞬間、その美しさに見とれてしまい、ふっと言葉を失いました。

少しの沈黙の後、ルークはハッと我に返ったように、努めて冷静に名乗りました。


「……初めまして。ルーク・ハインツと申します。王都滞在中は身の回りのお世話と、礼儀作法や生活の指導を担当いたします。王都での生活についてもご説明いたしますので、分からないことがあれば何でもお聞きください」


ルークの丁寧な挨拶に、リリアは少し緊張した様子で立ち上がりました。


「は、初めまして。リリア・グランベルです」


ぺこりと頭を下げたあと、リリアは少し困ったように笑います。


「王都のことは何も分からないので、ご迷惑をおかけするかもしれません。でも、一生懸命頑張ります。よろしくお願いします」


「それから、リリア殿」


「はい」


「どうか私のことは、ルークとお呼びください。そしてリリア殿は、国王陛下より正式に招かれた大切な客人です。ですから私は、あなたを軽んじる者が出ないよう、公の場ではリリア殿とお呼びいたします」


「私を……立てるため、ですか?」


リリアは少し驚いたように目を瞬かせました。


「はい。王都では、呼び方一つにも意味がありますから」


リリアはその言葉に、少し戸惑いながらも、やがて納得したように頷きました。


「分かりました。では、よろしくお願いします。ルーク」


ルークはその言葉に、ほっとしたように頷きました。

その時、ルークがふと視線を横へ向けます。

そこには、蒼月がじっと座っていました。

ルークは蒼月と視線が合うと、表情を少しだけ強張らせました。


「えっと……こちらが蒼月殿でしょうか」


リリアは嬉しそうに頷きました。


「うん、私の大切な家族だよ」


蒼月は何も言わず、ただ静かに、見極めるようにルークを見つめ続けています。

その様子に、アルベルトは思わず吹き出しました。


「ははは。どうやらまずは蒼月に認めてもらうところから始まりそうだな」


ルークは困ったように苦笑するしかありません。


「そのようですね……」


部屋には穏やかな笑い声が広がりました。

その後、リリアは晩餐会用の礼装にも袖を通し、細かな着心地や飾りの位置を確認しました。

華やかさを増したもう一着の装いに、リリアはまた少し頬を染めましたが、侍女たちは満足そうに頷いていました。


すべての確認を終えると、リリアは慣れ親しんだ普段着へと着替えました。


やがて一行は館の食堂へと移動し、旅立ちを祝うささやかな夕食の席に着きます。

食卓には領主の館らしい華やかな料理が並べられ、ルークはリリアの緊張をほぐすように、王都の街並みや貴族社会のしきたりについて穏やかに語っていました。


「王都には町では見られないような大きな市場もありますし、各地から集まった品々も並んでいますよ」


「そんなに大きいんですか?」


その足元では、蒼月が静かに伏せていました。

リリアの傍らから一歩も動こうとしないその姿は、明日から始まる未知の旅路においても、変わらず彼女の隣に居続けるという無言の決意のように見えました。


母は時折、リリアを見つめては涙を拭っていました。


「お母さんはね、本当なら行かせたくないのよ」


母はそう言って寂しそうに微笑みました。


「でも、あなたが行くと決めたのでしょう? だったらお母さんは反対しないわ。心配はしているけれど、あなたの決めた道を信じたいもの」


その言葉を聞いた瞬間、リリアの胸の奥がぎゅっと締め付けられました。

母はずっと心配していたはずです。

本当は引き止めたいはずなのに、それでも自分の決意を尊重してくれている。

そう思うと、リリアの瞳にじわりと涙が滲みました。


食事が一段落したところで、アルベルトが温かな眼差しでリリアを見つめ直しました。


「積もる話もあるだろうが、今夜は明日のために早めに休み、英気を養っておきなさい」


アルベルトの配慮を受け、リリアたちは指定された客室へと戻りました。


けれど、リリアの心は高ぶったまま、なかなか静まりませんでした。

窓から見える月は白く冷たく、明日の旅立ちへの期待と不安が複雑に胸を締め付けます。


(……眠れない)


リリアはそっとベッドから抜け出し、部屋の隅で丸くなっていた蒼月の元へ歩み寄りました。

彼女の気配を感じ取り、蒼月が静かに蒼い瞳を開きます。

二人は言葉を交わすこともなく、音もなく館の裏手にある中庭へと向かいました。


夜の空気が肌を刺し、銀色の月明かりが蒼月の毛並みを幻想的に、美しく照らしています。

中庭のベンチに座り、リリアもその隣へ腰を下ろしました。

風が木々を揺らす静かな夜でした。


昼間のことを思い出しながら、リリアはぽつりと本音を零します。


「……少しだけ怖いな。王都なんて行ったことないし、私に本当にできるのかな」


蒼月は静かに隣に寄り添っています。

ただそれだけで、不思議とリリアの心は落ち着いていきました。

彼女がそっと蒼月の首元へ寄り添うと、柔らかな毛並みと温かな体温が伝わってきます。


「でも……蒼月が一緒なら、大丈夫かな」


その言葉を聞くと、蒼月はそっと顔を寄せ、リリアの頬を優しく舐めました。


「きゃっ……ふふっ、ありがとう」


思わず笑い声が零れると、不思議と不安が軽くなっていくのを感じます。

蒼月は蒼い瞳を細め、明日から始まる旅の先を、誰よりも静かに、そして力強く見据えていました。

リリアはその温もりに触れながら、旅立ちの夜の空気に身を委ねていきました。


やがて夜も更け、二人は静かに客室へと戻っていきました。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ