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銀狼物語 ~森で出会った銀狼と紡ぐ運命の物語~  作者: ななお


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第八話 翡翠の光

蒼月が深い眠りから目を覚ましてから、厳しい冬もようやく終わりを迎えようとしていました。

雪に閉ざされていた大地には、少しずつ暖かな春の気配が戻り始めています。

冬の間は建材も手に入らず、思うように進まなかった町の復興も、穏やかな陽射しとともに再び動き始めていました。

大惨劇によって無残に壊された家々からは、カン、カンと木槌を打つ音が響き、広場を行き交う人々の表情にも、失われていた活気が少しずつ戻り始めています。


けれど、魔物の恐怖と、森の奥深くに残る不気味な黒い影の噂だけは、決して消えてはいませんでした。

蒼月は時折、木々の隙間からその不穏な方角をじっと見つめては、鋭い蒼い瞳を険しく曇らせていたのです。


そんなある日のことでした。

リリアの傍らで休んでいた蒼月が、突如として見えない糸に引かれたように立ち上がりました。

そして、そのまま吸い込まれるように森の奥へと歩き始めたのです。

蒼月は数歩進んでは振り返り、また進んでは再びリリアをじっと見つめます。


「どうしたの、蒼月?」


リリアは不思議そうに首を傾げました。

けれど、その蒼い瞳は、まるで自分に「付いて来い」と語りかけているようでした。


「ふふっ、分かったわ」


リリアは小さく笑って立ち上がると、進み続ける蒼月の大きな後ろ姿を追いかけ、さらに森の奥深くへと足を踏み入れていきました。


やがて、二人は普段なら決して立ち入らないような、不気味な森の深部へと辿り着きました。

その異様な光景を前に、リリアは思わず足を止めます。


「……!」


肌にねっとりと纏わりつくような、重く冷たい空気が押し寄せてきました。

胸の奥が不快にざわつきます。

見れば、地面のいたるところに、黒い靄のような影がゆらゆらと漂っていました。

それはまるで邪悪な意志を持って生きているかのように木々の根元へまとわりつき、周囲の草花を容赦なく蝕んでいたのです。

可憐だったはずの花はどす黒く枯れ果て、瑞々しかった草木は禍々しく変色し、辺りには生き物の気配が一切ない、不気味な静寂だけが広がっていました。


「これ……」


リリアは恐怖に息を呑みました。

あの魔物たちが町を襲った夜、戦場に満ちていたものと全く同じ、死の気配だったのです。

蒼月は、黒く変色した一輪の枯れた花の前で足を止めました。

そして、静かにリリアを見つめます。

その真摯な瞳は、何かを伝えよう、教えようとしているかのようでした。


リリアはゆっくりと湿った地面に腰を落とし、その枯れた花へそっと手を伸ばしました。

指先に触れた茎は驚くほど冷たく、まるで今まさに最後の命の灯火が消えかけているようでした。


「かわいそうに……」


自然と、胸の奥から憐れみの言葉が零れ落ちます。

助けたい、この小さな命を救いたい――リリアが心からそう願った、その瞬間でした。

彼女の手のひらが、ぽうっと淡く輝き始めたのです。

それはあの夜に見た、春の陽射しのように優しく温かい、翡翠色の神秘の光でした。


光がそっと枯れた花を包み込むと、まとわりついていた黒い影が、まるで温かな陽光に溶ける霧のように、静かに消え去っていきました。

それと同時に、黒ずんでいた花びらに、少しずつ鮮やかな本来の色が戻り始めたのです。


「えっ……?」


リリアは驚きに翡翠の目を見開きました。

萎びていた茎がみるみるうちに真っ直ぐと天に向かって伸び、黒く変色していた花びらは瑞々しく開き、まるで最初から何事もなかったかのように、美しく咲き誇ったのです。


「治った……の?」


自分の目の前で起きた奇跡が、リリアにはすぐには信じられませんでした。

蒼月は静かにその花を見つめたあと、満足そうに細い目をさらに細めました。


リリアは、自らの手のひらと、息を吹き返した花を何度も見比べました。

手のひらに残る翡翠色の残光。

消し去られた黒い影。

引いた波のように、元の美しい姿を取り戻した一輪の花。

間違いありませんでした。


「あの時の力……幻じゃなかったんだ。本当に、私の中にあるんだ……」


小さく呟いたリリアの胸に、ぽっと確かな希望の灯火が灯りました。

もし、自分に眠るこの力のことがもっと分かったなら。

あの夜のように絶望する前に、もっと多くの人や、たくさんの命を助けられるかもしれない。


その時、蒼月が再び、静かに森のさらに奥を見つめました。

リリアもつられて視線を向けます。

木々の向こう、世界の奥深くには、まだ果てしないほどの黒い影が重く漂っていました。

蝕まれた大地と、枯れ果てた草木、傷だらけの闇がそこには広がっています。


リリアはその過酷な光景を真っ直ぐに見つめ、拳をぎゅっと握り締めました。


「助けたい」


呟いた声は静かだったけれど、その響きには、決して揺らぐことのない強い決意が込められていました。


「みんなを、そして、この森を」


蒼月は静かにリリアを見つめました。

その蒼い瞳の奥には、どこか誇らしげな光が宿っていました。


それから数週間。

リリアは毎日のように蒼月を伴って森へ通い続けました。

最初から全てが上手くいったわけではありません。


(だめ……今日は、どうしても光が出ない……)


思ったように黒い影に蝕まれた草花を助けられず、己の無力さに唇を噛み締め、悔しい思いをする日もありました。

けれど、リリアは決して諦めませんでした。

「助けたい」という純粋な想いだけを胸に、額に汗をにじませながら、何度も、何度も、力を紡ぎ出し、使い続けたのです。


蒼月はそんなリリアの奮闘を、常にその傍らで静かに見守り続けていました。

時には危険な足場を教えるように先頭を歩き、時には力尽きて座り込んだ彼女の背中を鼻先でそっと押し、その身体を支える。

それはまるで、リリアを正しき道へと導く、気高き守護者のようでした。


やがて、リリアの祈りの力は、彼女のひたむきな努力に応えるように少しずつ、確実に育っていきました。

二か月ほどが過ぎた頃には、リリアの力は見違えるほど安定していました。

黒く蝕まれていた森の一角は少しずつ瑞々しい緑を取り戻し、枯れていた花々も、リリアの足元でひとつ、またひとつと息を吹き返していきました。


そんなある日のこと。

リリアは町へ買い出しに出た折に、人々が顔を曇らせて囁き合っている噂を耳にしました。

魔物が町を襲ったあの日から、黒い影に侵されたまま、死の淵をさまよっている青年がいるというのです。


その話を聞いたリリアは、いてもたってもいられませんでした。

薬草籠を抱えたまま、町外れにあるその青年の家を訪ね、戸口に出てきたひどくやつれた父親に向かって、深く頭を下げます。


「お願いします。私に、その人を診させてください」


しかし、青年の父親はすぐには頷きませんでした。

疲れ切った暗い目でリリアを見つめ、苦しげに唇を引き結びます。


(こんな薬草屋の小娘に、一体何ができるというのだ……)


父親の心の中には、深い諦めが渦巻いていました。

これまで何人もの高名な医師や薬師に診せ、大金を払い、それでも息子は救われなかったのです。

だからこそ父親は、リリアの申し出を素直に受け入れることができませんでした。

下手に希望を持たせれば、また息子と自分たちを深く苦しめるだけかもしれない。

そう思うと、どうしても首を縦に振ることができなかったのです。


「……帰ってくれ。これ以上、私たちやあの子に期待を持たせないでくれ」


背を向けて告げるその声には、怒りよりも深い絶望がにじんでいました。


それでも、リリアは諦めませんでした。

一度断られても、翌日も、その次の日も青年の家を訪ねました。


「今日も来ました。お水を変えるだけでも、私にやらせてください」


薬草を届け、容体を尋ね、どうか一度だけでも診させてほしいと、断られながらも何度も何度も願い出たのです。


やがて青年の父親は、リリアの真摯な瞳に心を動かされたように、深いため息をつきました。


「……わかった。ただし、期待はしない。あの子を苦しめるようなことだけは、絶対にしないでくれ」


「はい。約束します」


リリアは静かに頷き、ついに青年の眠る部屋へと通されました。


そのベッドに横たわっているのは、レオンという二十二歳の青年でした。


(この人が、町の鍛冶屋の……)


リリアは、町で聞いた彼の痛ましい話を思い出していました。

魔物が町を襲ったあの日、彼は逃げ遅れた子供たちを守るため、武器も持たずに獰猛な魔物の前へ飛び出したのだといいます。

その結果、胸から脇腹にかけて深い爪痕を刻まれ、傷口から入り込んだ黒い影によって、日に日に命を削られていたのです。

もはや助かる見込みはないと、誰もが絶望のなかで彼の死を覚悟していました。


リリアは、そっとレオンのベッドの傍らへと腰を下ろしました。

横たわるレオンの姿は、痛々しいほどに痩せ細っていました。

顔色は死人のように青白く、額には苦痛の汗がびっしょりと滲んでいます。

その呼吸はヒュー、ヒューと浅く、今にも止まってしまいそうでした。

枕元では母親が声を殺して涙を流し、父親も拳をきつく握り締めたまま、無力感に耐えるように深く俯いています。


(魔物が町を襲ってから、もう数か月……。その間ずっと、この人はこんな状態で苦しんでいたの……? こんなの、あんまりだよ……)


レオンはまだ若く、これから生きていくはずの輝かしい未来が、たくさん残されているはずです。

助けたい。

その強い想いが、リリアの胸の奥から熱く溢れ出してきました。


リリアはそっと、衣服の上からレオンの痛々しい傷口へと両手を添えました。

衣服の隙間から見える深く裂けた傷口は、黒ずんでどろりと変色し、尋常ではない熱を帯びています。


「お願い……」


リリアはそっと目を閉じ、祈るように小さく呟きました。


「助かって……!」


その瞬間でした。

リリアの手のひらから、まばゆい翡翠色の光が溢れ出したのです。

それは薄暗い部屋の隅々までを行き渡る、まるで厳しい冬の終わりを告げる春の陽射し

のような、温かさを持った光でした。


「な、何だこの光は……っ!?」


部屋にいた父親と母親が、驚愕に目を見開きます。

光はゆっくりと波打つようにレオンの身体を包み込み、その深い傷口へと吸い込まれるように流れ込んでいきました。

すると、皮膚を蝕んでいた黒ずんだ変色がみるみるうちに薄れていき、傷口から漂っていた嫌な死の臭いも、綺麗に消え去っていったのです。

それだけではありません。

レオンの苦しそうだった喘鳴が少しずつ静かな寝息へと変わり、苦痛に歪んでいた表情が、嘘のように穏やかになっていきました。

そして、誰もが言葉を失うなかで、深く裂けていたはずの傷口の黒ずみが消え、開いた肉が少しずつ塞がり始めたのです。


「そんな……馬鹿な……」


父親が息を呑み、母親は信じられない奇跡を前に、口元を押さえたまま大粒の涙を流しました。

誰も言葉を発することができません。

ただ目の前で行われている神聖な奇跡を、魂を奪われたように見つめることしかできませんでした。


翡翠色の光はしばらくの間、優しく部屋を照らし続け、やがて役目を終えたかのように静かに消えていきました。

あとに残されたのは、奇跡のあとの厳かな静寂でした。


その時です。


「……ん……」


レオンの焦げ茶色の睫毛が、ぴくりと小さく動きました。


「レオン……!」


母親がたまらずベッドの側へと駆け寄ります。

ゆっくりと開かれたレオンの瞳は、目の前で涙を流す母親の顔を捉えましたが、その表情はひどく呆然としていました。


「母さん……? 俺、生きてるのか……? それに、身体が……」


レオンは恐る恐る自分の胸へと手を当てました。

さっきまで彼を絶望させていた激痛も、肺を押し潰すような息苦しさも、綺麗に消え去っています。

彼はわけがわからないという顔のまま、ゆっくりと自らの力で身体を起こしました。

さっきまでは指一本動かすことすらできなかったはずなのに、今は自分の意志で、しっかりとベッドの上に座っています。


「動く、動けるぞ……一体何が起きたんだ?」


混乱する我が子の肩を抱きしめながら、母親は口元を押さえ、隣に佇むリリアを涙に濡れた目で振り返りました。


「レオン、この子が……リリアちゃんが、あなたを助けてくれたのよ。この子が不思議な光で、あなたのその深い傷を、全部綺麗に治してくれたの……!」


「え……?」


母親の言葉に導かれるようにして、レオンは初めてベッドの傍らに立つリリアへと視線を向けました。

彼女の佇まいは、先ほどまで部屋を包んでいた光の余韻も手伝って、どこか神秘的な気高さをまとっているように見えました。


向けられた真っ直ぐな視線に、リリアは少し照れくさそうに頬を染めながら、優しく微笑みました。


「私だけじゃありません。お父さんもお母さんも、町のみんなが、レオンさんに生きてほしいって、心から願っていたんですよ」


レオンは何度も、何度もリリアに向かって深く頭を下げました。


「ありがとう……ありがとう、本当に……ありがとう……っ」


その震える声は、一度は失いかけた未来を、再びその手に取り戻した人間の、至上の喜びの響きでした。


その日を境に、この奇跡の噂は瞬く間に町中へと広がっていきました。

死の淵にいた鍛冶屋の青年を救った不思議な少女。

すべてを癒やす、翡翠色の光を操る娘――。

あの惨劇に項垂れていた町の人々は一様に驚き、そしてその胸に、消えかけていた大きな希望を再び抱き始めました。


当然、その不可思議な噂は、この地を治める領主の耳にも届くこととなりました。


「報告は誠か。ただの娘が、瘴気に蝕まれた瀕死の男を癒やしたと?」


重厚な執務室で報告書から顔を上げた領主は、静かに椅子に深く腰掛け、部下を鋭く見据えました。


「はっ。町では翡翠の光を操る聖女だと、噂に……」


その言葉に、領主は窓の外へと視線を向け、ただならぬものを感じ取っていました。


(これは決して、世に溢れるありふれた魔法などではないのかもしれん。かつてこの世界を救ったと伝わる、大いなる聖なる力に通じるものなのではないか……)


そして、リリアの元には連日のように助けを求める人々が訪れるようになりました。

魔物襲撃によって傷ついた衛兵や子供、足に深い怪我を負ったお年寄り。

リリアはその一人ひとりと真っ直ぐに向き合い、丁寧に手をかざし続けました。


けれど、その神秘の力も決して万能というわけではありませんでした。

擦り傷や軽い怪我ならすぐに完治させられましたが、黒い影を帯びた重い怪我を治すには、何度も日を分けて治療を重ねる必要があったのです。

それに、あまりに続けて力を使い過ぎれば、リリア自身が強烈な目眩に見舞われ、額に脂汗を浮かべるほど激しく消耗してしまいます。


「リリアちゃん、少し休んだほうが……」


「大丈夫です。次の方、どうぞ」


心配する人々に気丈に振る舞いながら、それでもリリアの手によって痛みから解放され、健康を取り戻した人々は、誰もがひまわりのような笑顔を浮かべるようになっていきました。


「ありがとう、リリアちゃん」


「ふふっ、どういたしまして。良くなって本当によかったです」


その温かい感謝の言葉を聞くたびに、リリアは自分の疲労など忘れたように、嬉しそうにはにかんだ笑みを浮かべるのでした。


蒼月はそんなリリアの賑やかな様子を、彼女が拠点としている町外れの教会の敷地から、静かに見守っていました。

リリアが町の中へ治療に向かうときは、その無事を祈るように大人しく教会の裏手で待っているのが、彼のいつもの過ごし方でした。


最初は「また魔物が出たのではないか」と彼を遠巻きに恐れていた町の人々も、リリアに寄り添う彼の穏やかな賢さを目にするうちに、次第にその大きな身体を怖がらなくなっていきました。

かつては恐怖に怯えて逃げ出していた教会の周りの子供たちすら、今では好奇心に目を輝かせ、蒼月の近くまで恐る恐る足を進めてくるようになったのです。


ある日のこと、一人の小さな男の子が、少し緊張した面持ちで蒼月の目の前に立ちました。


「……ありがとう」


まだ幼い、可愛らしい声でした。

蒼月は静かに耳を立て、教会の草の上に座ったまま、不思議そうに大きな頭を傾げます。


「ぼくのお母さんを、助けてくれたから」


男の子は小さな手で、摘んできたばかりの小さな野花を、蒼月の大きな前足の前へと差し出しました。

あの惨劇の夜、自分たちを守るために傷だらけになって戦ってくれた銀狼への、子供なりの精一杯の感謝の印でした。


蒼月はその色鮮やかな花をじっと見つめたあと、ふっと短く鼻を鳴らし、静かに蒼い目を細めました。

それは彼なりの、最大の親愛の表現でした。


町での治療を終えて教会に戻ってきたリリアは、その微笑ましい光景をすぐ傍らで目にして、思わず声を立てて笑ってしまいました。


「ふふっ、蒼月、すっかり人気者になったね」


からかわれたと思ったのか、蒼月はふいっと少しだけ照れくさそうにそっぽを向きました。

その愛らしい狼の仕草に、周囲にいた子供たちから、一斉に高らかな笑い声が湧き上がります。


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