第七話 目覚め
魔物の襲撃から、数日が過ぎていました。
しかし、町が負った深い傷は、まだ決して癒えてはいませんでした。
崩れ落ちたままの家々、身体や心に深い傷を負った人々、整理しきれない瓦礫。
そして、あの大惨劇のなかで理不尽に失われてしまった尊い命の数々――。
あの不思議な光が町を救ったとはいえ、すべての人を守り切れたわけではありませんでした。
辺りが赤紫色の物悲しい夕暮れに染まる頃、町では亡くなった人々への追悼の儀が行われていました。
被害の爪痕が残る広場には、音もなく多くの人々が集まっています。
彼らの手には、それぞれ小さな灯籠が握られていました。
この戦いで失われた、愛する者たちの魂へ祈りを捧げるためです。
やがて、一つ、また一つと、小さな淡い光を灯した灯籠たちが夜空へと放たれていきました。
ゆらゆらと揺らめきながら静かに空へ昇っていく灯籠たちは、まるで星へと帰っていく優しく清らかな魂の群れのようでした。
誰も言葉を発する者はありません。
ただ溢れる涙を堪え、祈るようにして、どこまでも昇っていくその無数の光を静かに見上げていました。
リリアもまた、人々のなかに佇みながら、両手を胸の前で固く組み、静かに祈りを捧げていました。
夜空の彼方へ消えていく光を見つめながら、リリアの脳裏には、犠牲になってしまった町の人々の顔が次々と浮かんでいました。
(私に、もっと何かできることがあったんじゃないのかな……)
やり場のない悔しさと、割り切れない思いが、重く胸の奥に澱のように残っています。
けれど、あの夜以来、その力は一度として現れてはくれませんでした。
(もしもあの力を、自分の意志で自由に使うことができたなら。もっとたくさんの人を、あの時救えたはずの命を、残さず救い出すことができたかもしれないのに……)
そう思わずにはいられなかったのです。
しかし、いつまでも悔やんでいる間にも、リリアの心は常に別の場所にありました。
町の外れにぽつりと佇む、小さな小屋。
そこに、大切な蒼月が寝かされているのです。
「蒼月……」
静かに扉を開けると、薄暗い部屋の奥で、美しい銀色の身体が静かに横たわっていました。
あの日、見る影もなく引き裂かれていた無数の酷い傷は、リリアの光のおかげで綺麗に塞がり始めていました。
けれど、あれから数日が経った今も、彼は一向に目を覚ます気配がありません。
リリアは足音を立てないように傍らへ歩み寄ると、そっと床へ腰を下ろしました。
シートの敷かれた床の上で、その銀色の毛並みにそっと触れ、愛おしそうに何度も撫でていきます。
「今日も来たよ」
静かで穏やかな寝息を耳にしながら、リリアは小さく微笑みました。
町の人々には言えないけれど、リリアにとっては、蒼月がこうして生きていてくれる、ただそれだけで十分すぎるほど救われていたのです。
「町のみんなね、本当は蒼月のおかげで助かったんだよ」
静まり返った小屋の中に、囁くような優しい声が響きます。
「みんな、本当は蒼月にお礼を言わなきゃいけないのにね……」
そう言って無理に微笑んでみせるものの、その笑顔はどこか寂しげに曇っていました。
どんなに語りかけても、大好きな蒼月が目を覚ましてくれないからです。
それからというもの、毎日、毎日、リリアは欠かすことなく蒼月のもとへと通い続けました。
そっと毛並みを整えてあげては、今日あった出来事を一つずつ話しかけるのです。
「今日はね、壊れてしまった広場の片付けをみんなで手伝ったの」
「町のみんなも、少しずつだけど元気になってきたよ」
「だからね、蒼月も早く元気になって……」
いつものように語りかけ、健気に微笑むリリア。
けれど、周りに誰もいないとき、その張り詰めた心の隙間から、ぽろぽろと涙が零れ落ちることがありました。
「お願いだから……」
きゅっと胸を締め付けられるような痛みに耐えかねて、リリアは蒼月の身体にそっと顔を埋めました。
「もうどこにも行かないで……っ」
大切な存在を永遠に失ってしまうかもしれないという、あの夜の身がすくむような本当の恐怖を、リリアは知ってしまったのです。
この広い世界の中で、蒼月の傍らに寄り添っている時だけが、リリアが唯一、心から安心できる大切な時間なのでした。
しかしその頃、町の中では、奇跡への感謝とは裏腹に、別の不穏な声も上がり始めていました。
「あの大きな狼も、本当は魔物の仲間じゃないのか」
「あんな常識外れの恐ろしい力を持つ獣が、この町の中にいて本当に大丈夫なのか……?」
未知の力を恐れ、疑惑の目を向ける者が現れ始めたのです。
それも無理のないことかもしれません。
人々は、理不尽に家を焼かれ、命を脅かされるという恐ろしい恐怖を経験したばかりだったのですから。
けれど、そんな心ない噂を耳にするたび、リリアだけは毅然と立ち上がりました。
「蒼月は違います!」
普段は大人しいリリアが、思わず周囲が驚くほどに声を荒らげました。
「蒼月は町を守ってくれたの! 私たちのために、命を懸けてあんなにボロボロになるまで戦ってくれたの!」
リリアの必死な訴えに、大人たちはばつが悪そうに黙り込みました。
けれど、一度植え付けられた人々の心の不安が、それだけで完全に消え去ったわけではありませんでした。
その日の夜。
リリアはいつにも増して静かな小屋の中で、眠る蒼月の傍らに寄り添いながら小さく呟きました。
「ごめんね、蒼月……」
リリアは守るように、愛おしそうにその身体をそっと撫でます。
「みんな、まだ魔物が怖くて、怯えているだけだと思うの」
蒼月は物言わぬまま、静かに眠り続けています。
「でも、私はちゃんと知ってるよ」
リリアは愛おしさを込めて、優しく微笑みました。
「蒼月が、本当はとっても優しい狼だってこと」
リリアはそう言うと、そっと身体を屈め、蒼月の広い額へと、自分の額を優しく寄せ合いました。
「だから大丈夫。私が、みんなにちゃんと伝えるからね」
――それは、深い暗闇の底でした。
どこまでも、どこまでも続く、音のない静かな闇の世界。
身体の感覚すら曖昧で、自分がどこにいるのか、時間がどれほど過ぎ去ったのかも分かりません。
けれど、そんな暗闇のなかで、一つの声だけがずっと聞こえ続けていました。
『今日も来たよ』
それは、どこまでも温かく、優しい声でした。
蒼月が、その魂の底から聞き間違えるはずのない、大切な娘の声――リリアです。
毎日、毎日、欠かすことなく、その声は闇の奥深くへと届いていました。
町でどんな出来事があったのか、人々がどう過ごしているのかという、他愛のないお話の数々。
時には楽しそうに笑い、時には耐えかねたように泣きじゃくりながら、リリアは蒼月に語りかけ続けていたのです。
蒼月は身体を動かすことはできませんでしたが、その声は確かに、彼の心の奥底へと届いていました。
それはまるで、冷たい暗闇のなかに一筋だけ差し込んでくる、小さくも温かい救いの光のようでした。
自分に触れる、愛おしそうな手の温もり。
時折、自分の顔にぽつりと落ちてくる、切ない涙の温かさ。
蒼月はそのすべてを、深い眠りのなかで確かに感じ取っていたのです。
(早く目を覚まさなければ……)
蒼月は強く思いました。
これ以上、リリアに心配と悲しみをかけるわけにはいかない。
その時、暗闇の向こうから、またあの声が震えながら聞こえてきました。
『もうどこにも行かないで……』
涙に濡れた、今にも消え入りそうなその悲痛な響きに、蒼月の心が静かに、激しく揺れ動きました。
すると、あんなに重く縛り付けられていた意識が、光に導かれるようにして、少しずつ闇の底から浮かび上がっていったのです。
ぴくり、と蒼月の大きな耳が微かに動きました。
「え……?」
蒼月の身体に顔を埋めていたリリアが、弾かれたように顔を上げました。
すると、長い睫毛の奥から、ゆっくりと、あの深く美しい青い瞳が開かれたのです。
「蒼月……!」
リリアは思わず顔を上げました。
ゆっくりと焦点を合わせた蒼月の瞳が、いま、その視界に映し出したもの。
それは、目の前で大粒の涙を浮かべながら、それでも嬉しそうに、心の底からの笑顔を咲かせているリリアの姿だったのです。
「よかった……っ」
堰を切ったように、さらに涙が溢れて止まらなくなります。
「本当によかった……っ!」
リリアは耐えかねたように、蒼月の大きな首元へとそっと抱きつきました。
蒼月は、首にまわされた細い腕の温もりを感じながら、静かに目を閉じました。
リリアはまだ泣き続けていましたが、その涙はもう先ほどまでの悲しみではなく、蒼月が生きていてくれたことへの深い安堵の涙でした。
「蒼月……」
リリアは、その温もりに縋るように小さく呟きます。
「助かった人も、たくさんいたけれど……でも、助けられなかった人も、いたの……」
リリアの声が、再び悔しさで小さく震え始めます。
「私に、もっと力があったら……。もっと早く、あの力が使えていたら、みんなを助けられたかもしれないのに……」
蒼月は、その震える告白を黙ったまま静かに聞いていました。
そして、ゆっくりと顔を寄せると、その大きな頭を、リリアの肩へとそっと預けたのです。
まるで、お前は悪くないと優しく慰めるように。
よく頑張った、と励ますように。
リリアは驚いたように翡翠の瞳を丸くしました。
そして、蒼月の優しい不器用な気遣いに気づくと、涙の跡を残したまま、少しだけ嬉しそうに笑いました。
「……ありがとう、蒼月」
――
(リリア、無事でいてくれてありがとう)
(本当に、守れてよかった)
その熱は、確かに蒼月の胸の奥深くにありました。
まだ名前を持たない感情でした。
けれどそれは、銀色の狼の心の奥底で、静かに、そして確かに深く育ち始めていたのです。
森の奥深くには、いまもなお不穏な瘴気が不気味に残っています。
この世界を脅かす真の災厄も、決して終わったわけではありません。
けれど、今はまだ――
小屋の窓の外で、穏やかな風が静かに木々を揺らしていました。




