第六話 戦火の果てに響く祈り
カン――!
カン――!
カン――!
けたたましい警鐘。
人々の悲鳴。
慌ただしく駆け回る足音。
リリアはたまらず家を飛び出しました。
すると、町の門の方角から不気味な黒い煙が立ち上っています。
「魔物だ!」
誰かが叫びました。
その言葉にリリアの背筋が凍りつきます。
異形の魔物たちは、すでに町の門へと押し寄せていました。
衛兵たちも必死に応戦し、剣を振り、矢を放ち、魔物たちを食い止めようとしていました。
けれど、あまりにも数が多すぎました。
次々と現れる魔物の群れに押し込まれ、ついに頑丈な門が破られてしまいます。
「下がれ!」
「住民を逃がせ!」
兵士たちの悲痛な叫びが響き渡ります。
魔物たちは、激しい破壊音とともに町へとなだれ込んできました。
鋭い牙、赤く光る瞳、黒い瘴気を纏った醜い姿。
人々は我先にと逃げ惑います。
家屋は壊され、あちこちから炎が上がり、絶望的な悲鳴が夜空へ響いていました。
「みんな逃げて!」
リリアは母親の無事を確かめると、子供の手を引き、老人を支えながら、少しでも多くの人を避難させようと懸命に走り回りました。
けれど、襲いかかる魔物たちの数は増える一方でした。
その時でした。
リリアの前に、あの蒼月が現れたのです。
「蒼月!」
思わず叫びました。
けれど、その姿を見た瞬間、リリアの顔から一気に血の気が引いていきます。
蒼月の美しかった銀色の身体は、血で真っ赤に染まっていたのです。
ぽたり、ぽたりと、絶え間なく流れ落ちる血が地面を濡らしていきます。
呼吸は浅く荒く、今にもその場に倒れてしまいそうでした。
それでも、蒼月はリリアを背にするようにして魔物の前へ立ちはだかります。
伏せられた耳をきつく後ろへ引き、剥き出しにした牙の隙間から低い唸り声を響かせます。
その鋭い青い瞳が、周囲を取り囲む魔物たちを圧倒的な威圧感で睨みつけました。
その姿を見て、リリアはようやく気付いたのです。
(蒼月は、消えていたんじゃない。逃げていたわけでもない……)
蒼月は、ずっと戦っていたのです。
この町へ押し寄せる魔物たちを、陰で食い止めるために。
体に刻まれた無数の深い傷が、真っ赤に染まってしまった蒼月の体が、何よりもその真実を物語っていました。
「どうして……」
リリアの声が激しく震えます。
「こんなになるまで……!」
蒼月は、荒い息の合間にフゥと短く鼻を鳴らしました。
そして、細められた青い瞳だけで、静かにリリアを見つめます。
次の瞬間、蒼月が凄まじい速さで駆け、銀色の閃光が戦場を走りました。
魔物の群れへと果敢に飛び込み、一体、また一体と、獰猛な魔物が地面へ沈んでいきます。
それは、まるで伝説の神狼そのもののような圧倒的な強さでした。
けれど、その身体は既に限界をとうに超えていました。
流れ続ける血、増え続ける新たな傷。
それでも蒼月は、ただリリアを守るためだけに立ち続けます。
その時でした。
別の魔物が、激戦の死角からリリアを目掛けて突進してきたのです。
「――っ!」
避けられない。
リリアがそう覚悟した、次の瞬間でした。
目の前へ、銀色の影が猛然と飛び込んできた姿がリリアの目に映ります。
引き裂くような鋭い爪が、身代わりとなった蒼月の身体を深く切り裂きました。
飛び散った鮮血が、リリアの頬を熱く打ちます。
「いやあああ――っ!!」
「蒼月!!」
リリアの悲鳴が、戦火の夜空へ響き渡りました。
凄まじい衝撃で蒼月の身体が吹き飛ばされ、地面を激しく転がり、土煙が舞い上がります。
それでも蒼月は、わななき震える前足に力を込め、再び立ち上がろうとしました。
けれど、その身体は大きく揺らぎます。
「蒼月……!」
リリアの声が涙で震えます。
今にも倒れそうな満身創痍の身体で、それでもなお前を向き、自分を守ろうとしてくれているその姿が、リリアの胸を激しく締め付けました。
「もういいよ……」
震える声が、唇から零れ落ちます。
「もういいから……っ」
その言葉に応じるように、銀色の身体が、ゆっくりと力なく地面へ崩れ落ちていきました。
「蒼月!!」
叫んだリリアは、もう何も考えられなくなっていました。
一直線に蒼月に向かって駆け出します。
そして、震える両手で、その身体へしがみつくように触れました。
温かい。
けれど、あまりにも多くの血が流れ出しています。
「いや……」
声が恐怖に震えました。
「死んじゃ嫌だよ……!」
リリアは必死に、その手で蒼月の大きな傷口を押さえます。
止まって、お願いだから、止まって。
けれど、赤い血は非情にもリリアの指の隙間から溢れ続けました。
「だめ……」
涙が溢れて止まりません。
「お願い……っ」
ぽたり、と大粒の涙が蒼月の顔へと落ちました。
蒼月は、重い瞼をわずかに持ち上げ、薄く青い瞳を開きます。
傷だらけの身体のまま、それでもじっと愛おしそうにリリアを見つめていました。
力なく垂れた耳と、優しく細められたその瞳は、まるで「泣くな」と彼女を慰めているかのようでした。
けれど、その瞳の奥の光は、少しずつ、確実に閉じようとしていました。
失いたくない。
絶対に、この存在を失いたくない。
その瞬間でした。
リリアの身体から、眩いばかりの翡翠色の光が溢れ始めたのは――。
それはとても温かな光でした。
まるで厳しい冬を溶かす春の日差しのような、優しく穏やかな光。
「え……?」
リリアは涙に濡れた目を見開きます。
自分に何が起きているのか分かりません。
けれど、光は溢れんばかりに輝きを増していきます。
失いたくないという彼女の心からの願いに応えるように、光は蒼月の身体を優しく包み込み、その深い傷口へと、吸い込まれるように流れ込んでいったのです。
まさにその最中、動けない二人を目掛けて、蒼月を傷付けた魔物が猛然と突進してきました。
鋭い牙を剥き出しにし、赤い瞳が妖しく光ります。
しかし、襲いかかろうとした魔物たちが、突然激しく苦しみ始めたのです。
「ギャアアアアアアッ!」
凄まじい悲鳴とともに、彼らの身体から黒い瘴気が煙のように立ち上りました。
魔物たちは悶え暴れ、必死にその場から逃げ出そうとします。
リリアから放たれた翡翠色の光に触れた瞬間、まるで深い闇が朝日に溶けて消えるように、黒い瘴気はただの煙となって霧散していきました。
それと同時に、魔物たちの醜い身体もまた、跡形もなく崩れては輝く光の粒となって消え去っていくのです。
一体、また一体。
そして、最後の一体まで――。
誰もが言葉を失い、その光景をただ呆然と見つめていました。
あれほど町を埋め尽くし、人々を恐怖に陥れていた魔物たちは、今や一体残らず消え去っていたのです。
激しい戦いが嘘のように静まり返った戦場で、翡翠色の光はなおも蒼月を優しく包み続けていました。
やがて、あれほど苦しそうだった蒼月の荒い呼吸が、奇跡のように少しずつ落ち着きを取り戻していきます。
それを見届けて役目を終えたかのように、翡翠色の光は徐々にその輝きを薄れさせていきました。
そして無数の柔らかな光の粒となり、夜空へ溶けるようにして静かに消えていったのです。
すると、ゆっくりと、蒼月の青い瞳が開かれました。
「蒼月……!」
リリアの瞳から、再び大粒の涙が溢れ落ちます。
良かった、生きてくれている。
その感謝の言葉だけが、リリアの頭の中を何度も何度も巡っていました。
蒼月は、そっと首を動かすと、リリアの濡れた指先を、ぺろり、と優しく舐めました。
まるで、もう大丈夫だと愛おしそうに伝えるように。
そして、安心したように小さく息を吐いた次の瞬間、蒼月は再び静かに目を閉じたのです。
「蒼月!?」
リリアは心臓が止まる思いで、慌ててその大きな身体を強く抱き寄せました。
けれど、すぐに耳に届いたのは、規則正しい呼吸の音でした。
気を失っているだけなのだと分かり、リリアは心の底から胸を撫で下ろします。
そして、愛おしい蒼月の身体を、今度は慈しむようにそっと抱きしめ直しました。
その場にいた誰もが、言葉を失ったまま立ち尽くしていました。
衛兵たちも、避難しかけていた町の人々も、全員がはっきりと目撃していたのです。
リリアが放った眩い光を、魔物が瞬く間に消え去ったあの瞬間を、傷付いた蒼月が救われた本物の奇跡を。
やがて、一人の老人が、震える声を絞り出すようにして呟きました。
「まるで……伝説の聖女様のようだ……」
その言葉は、驚きと畏怖を伴って、静かに、けれど確実に人々の間へと広がっていきました。
けれど、いまのリリアにはそんな周囲の囁きなど一切耳に入っていませんでした。
彼女の視線はただ一つ、胸の中で静かに息を立てる蒼月だけへと向けられていたからです。
(良かった……本当に、良かった……)
安堵の涙が、蒼月の銀色の毛並みに吸い込まれていきます。
しかし、蒼月の無事を見届け、極限まで張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れたその瞬間、リリアを凄まじい疲労感が襲いました。
町を埋め尽くすほどの魔物を消し去り、瀕死の蒼月を救い出したのは、リリア自身さえ知らなかった強大すぎる神秘の力です。
そのすべての力を一気に使い果たしてしまった彼女の身体は、すでに限界を迎えていました。
急激に視界が暗くなり、頭が激しく揺れます。
リリアは蒼月の身体に力なく重なるようにして、そのまま倒れ込んでいきました。
抗うことのできない深い闇の中へと、意識を失いました。
この凄惨な戦火の夜、誰も忘れることのできない、一つの偉大な奇跡が生まれたのでした。
どれほどの時間が経ったのでしょうか。
深い闇の底から引き上げられるようにして、リリアはゆっくりと意識を取り戻しました。
「……ん……」
微かに声を漏らしながら重い瞼を持ち上げると、視界に飛び込んできたのは、高い天井と、窓にはめ込まれた美しいステンドグラスでした。
「きょう……かい……?」
周囲からは、かすかに怪我人たちのうめき声や、布を裂くような慌ただしい音が聞こえており、あの惨劇が現実であったことを物語っていました。
(……蒼月!)
意識がはっきりすると同時に、あの真っ赤に染まった銀色の身体が脳裏をよぎり、リリアは跳ね起きるようにして身体を起こしました。
急に動いたせいで激しい目眩が襲いましたが、それを打ち消すほどの焦燥感が彼女を突き動かします。
「お母さん……、あ、蒼月……どこ……っ?」
横たえられていた臨時のベッドから起き上がり、震える足で床に立ち、縋るような思いで広い礼拝堂の中を見回します。
そのとき、他の怪我人たちから少し離れた、静かな壁際の暗がりに、ひときわ大きな銀色の影が横たわっているのが目に留まりました。
「……っ」
声にならない息を呑み、リリアは引き寄せられるようにその影へと駆け寄りました。
「蒼月……!」
リリアがその銀色の身体に触れようと手を伸ばした、その時でした。
「リリア……! ああ、良かった、目が覚めたのね……!」
礼拝堂の入り口の方から、聞き慣れた愛おしい声が響きました。
振り返ると、そこにはひどくやつれた顔をしながらも、涙を浮かべてこちらへ駆け寄ってくる母親の姿がありました。
母親はリリアの身体を強く抱きしめ、無事を神に感謝するように何度もその背中をさすります。
「お母さん……私、どうしてここに……。それに、町のみんなは……?」
リリアが尋ねると、母親はゆっくりと身体を離し、まだ混乱の跡が残る礼拝堂を見渡しながら、静かに事情を説明し始めました。
「あの夜、あなたが倒れたあと……衛兵や生き残った大人たちで、あなたと、その大きな銀色の狼をここまで運んだのよ。
家も含めて、町の半分以上の家屋が魔物に壊されてしまったけれど、今はここの神父様が、教会を臨時の救護所として開放してくれているの」
母親はそこで一度言葉を切り、壁際で静かに息を立てる蒼月へと複雑な視線を向けました。
その瞳には、得体の知れない存在への怯えではなく、深い感謝の念が宿っています。
「……みんな言っているわ。あの絶望的な状況のなかで、その銀色の狼が命を懸けてあなたを、そしてこの町を守るために戦ってくれていたって。
衛兵たちも、この銀色の狼がいなければ門が破られた時点で全滅していただろうって、本当に感謝しているのよ」
「蒼月が、みんなを……」
リリアがそっと呟くと、母親は心配そうに、リリアの両手をそっと包み込みました。
「それだけじゃないわ、リリア。あなたがその手から不思議な翡翠色の光を放って、町中の魔物を一瞬で消し去ってしまったことも、みんなが見ていたの。
大人の誰もが諦めていたなかで、あなたの祈りが奇跡を起こしたんだって……。
今、外では衛兵や町の人たちが、あの光は一体何だったんだ、まるで伝説の聖女のようだ、ってひそひそと噂し合っているわ」
「あの光……私、何も分からなくて。ただ、蒼月に死んでほしくないって、それだけだったの」
リリアが困惑しながら自分の両手を見つめると、母親は優しく微笑み、彼女の頬にこぼれた涙を優しく指で拭いました。
「ええ、分かっているわ。あなたが無事で、こうして生きていてくれた……私にとっては、それだけで十分よ。
でも、町のみんながあなたを救世主のように扱い始めているから、これからどうなるか、お母さん怖いし心配だわ」
大惨劇という深い傷を負った町の中で、母の温かい言葉と眼差しだけが、リリアの張り詰めた心をそっと包み込んでいくのでした。




