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銀狼物語 ~森で出会った銀狼と紡ぐ運命の物語~  作者: ななお


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第五話 黒き影

秋の終わりが見え始めたころ。

森の奥では二人の知らないところで、少しずつ異変が広がり始めていました。


最初にそれを感じ取ったのは蒼月でした。

ある朝、いつものように森を歩いていた蒼月はふと足を止めます。

普段なら感じるはずの心地よい土や草木の香りに混じり、わずかではあるものの、不吉に淀んだ気配が漂っていました。

一見すると木々は青々と茂り、小鳥の声も聞こえ、何も変わっていないように見えます。

けれど、長い年月をこの森で過ごしてきた蒼月には分かりました。

森の空気が、肌にまとわりつくように少しずつ変わり始めていることに。


それから数日後、リリアもまた小さな違和感を覚えるようになります。


「そういえば最近、小鳥が少ない気がする……」


森を歩きながら首を傾げるリリアに、蒼月はピンと耳を動かしました。

以前なら賑やかだった森はどこか静まり返っています。

いつもなら小川へ水を飲みに来ていた小動物の姿も、すっかり見かけなくなっていました。


「みんな、どこかへ行っちゃったのかな」


不思議そうに呟くリリアとは対照的に、蒼月の険しい視線はまっすぐに森の奥へと向けられていました。


(動物たちは理由もなく、住み慣れた場所を離れたりはしない。……何かを恐れ、必死に逃げているのだ)


そしてある日、前を歩いていた蒼月が、ぴたりと足を止めたのです。


「蒼月……?」


不思議そうに声をかけるリリアを背後に庇うようにして、蒼月は森の奥をじっと見据えました。

風が低く吹き抜けたその瞬間――遠くから、地を這うような低い唸り声が流れてきたのです。

リリアの耳には何も聞こえていません。

けれど、蒼月の鋭い耳は確かにその残響を捉え、美しい銀色の毛がゆっくりと逆立ちます。

危険が近付いている。

長い時を生きてきた本能が、激しく警鐘を鳴らしていました。


やがて蒼月はリリアの側へと歩み寄ると、その肩へそっと鼻先を押し当て、町へ続く道の方へと促しました。

突然の行動に驚くリリアに、蒼月はもう一度鼻先で背中を押し、数歩進んでは振り返り、再び町の方へと視線を向けます。

言葉は交わせずとも、蒼月の強い切迫感だけは痛いほど伝わってきました。


「……帰った方がいいの?」


リリアが尋ねると、蒼月は静かに耳を動かし、再び緊迫した様子で森の奥を見つめました。

その横顔を見ているうちに、リリアの胸に小さな不安が広がっていきます。

森を歩く時はいつも穏やかに歩幅を合わせてくれる蒼月が、今日は明らかに違う。

まるで、得体の知れない何かを強く警戒しているようでした。


「分かった。今日はもう帰るね。……また来るね」


そう告げると、蒼月はようやく視線をこちらへ向けました。

ほんの一瞬だけ、その蒼い瞳にホッとしたような安堵の色が浮かんだように見えます。

次の瞬間、蒼月は身を翻し、あっという間に深い森の中へと走り去っていきました。

夕暮れの冷たい風が木々をざわざわと揺らす中、リリアの胸には理由の分からない嫌な不安がずっしりと沈んでいました。


そしてその不安は、町へ戻った後に耳にした噂によって、恐ろしい形を持ち始めるのです。


町へ戻ると、広場の近くに深刻そうな顔をした人だかりができていました。


「どうしたんですか?」


「ああ、リリアちゃんか。どうやら、森の北側で魔物が出たらしいんだ」


「魔物……?」


思わず聞き返したリリアへ、周囲の人々も次々と怯えを孕んだ声で話し始めます。


「隣町へ向かう行商人が見たそうだ」


「大きな、真っ黒い獣だったとか……」


「いや、巨大な狼みたいだったって話も聞いたぞ」


人々の言葉を聞きながら、リリアは思わず息を呑みました。

先ほどの森での蒼月のただならぬ様子が、鮮烈によみがえってきたのです。


家へ帰った後も、その恐怖は頭から離れません。

夕食の席で母へ話すと、母は少しだけ表情を曇らせて言いました。


「しばらくは、絶対に森へは行かないようにね」


「うん……」


リリアは小さく返事をするのが精一杯でした。


同じ頃、リリアを帰した蒼月は、風に乗って運ばれてくる淀んだ気配を追うように、いつもより深い森へと足を踏み入れていました。

木々の間を抜けた先。

そこには、通常の獣が付けたものとは明らかに違う不気味な爪痕が、大木に深く刻まれていたのです。

蒼月は、森の奥に潜むただごとではない不穏な空気を確かに感じ取っていたのです。


それからしばらくの間。

リリアは表面上はこれまで通りの日常を送っていました。

ただ一つ、大切な友である蒼月に会えないということだけを除いては……。


町では秋の収穫祭に向けた準備が慌ただしく行われ、あちこちから果実や穀物の豊かな香りが漂ってきます。

魔物の噂によって人々の心には薄暗い不安が落ちていましたが、それでもついに、収穫祭の当日を迎えました。


夜の帳が下りる頃、広場の中央に大きな篝火が燃え上がります。

パチパチと爆ぜる火の粉のなか、神前に進み出たリリアは、豊作の感謝を捧げる舞を踊り始めました。

衣装の袖が夜風にしなやかに翻り、下ろした髪が炎の光を浴びてきらきらと揺れます。



――その神聖な姿を、暗い森の境界線から見つめている一対の蒼い瞳がありました。


闇に紛れて佇む蒼月は、篝火の赤い光に浮かび上がるリリアから、目を離すことができずにいました。


(……美しいな)


純白の衣装に身を包んだ彼女は、いつもなら一つにすっきりと束ねている柔らかな髪を、今日は背中へと美しく下ろしています。

炎の揺らめきに照らされた横顔は神秘的で、息を呑むほどに大人びて見えました。

篝火の炎に艶やかに映える、ほんのりとした赤色の口紅。

これまで蒼月にとってのリリアは、ただ守るべき大切な娘でした。

けれど今、篝火の光の中で舞う彼女は、それだけでは言い表せないほど眩く見えたのです。


それは蒼月にとって初めて抱く、自分でもまだ名前の分からない、胸の奥が締め付けられるような――切なくも愛おしい感情でした。



収穫祭が終わったころから、森の周辺での魔物の目撃情報はにわかに増え始めていました。

事態は恐ろしい現実味を帯び、ついに町の衛兵たちによる警備体制が大幅に強化されることとなります。

「しばらくは森へ行かない」と母に約束したものの、町の物々しい様子を見るたびに、リリアの胸のざわめきは大きくなるばかりでした。


(蒼月は無事なの……?)


募る不安に耐えかねたリリアは、ついに母の目を盗み、衛兵たちの警戒をかいくぐるようにして再びあの森へと足を踏み入れていました。


「蒼月! 蒼月……!」


(蒼月……お願い、私に姿を見せて……!)


池のほとり、並んで歩いた木々の小道。

声を枯らして必死に歩き回っても、返ってくるのは冷たく寂しい風の音だけです。

いつもなら、声をかければすぐに嬉しそうに耳を動かして姿を現してくれた、あの美しい銀色の狼がどうしても見つかりません。


「どうして……どうして出てきてくれないの……?」


ぽつりと木漏れ日の下に佇み、絶望に翡翠の瞳を揺らすリリア。

しんと静まり返った不気味な森の空気のなかで、何か取り返しのつかない恐ろしいことが起きているのではないかという嫌な予感が、激しく湧き上がってきます。

それからというもの、リリアは毎日のように森へ通い、蒼月を探し続けました。



声を枯らしてがむしゃらに歩き回るリリアの姿を、すぐ近くの茂みの奥からじっと見つめている蒼い瞳がありました。


(今すぐ傍へ行って、安心させてやりたい……)


けれど、今の蒼月にはそれが叶いません。

不穏な気配を追った蒼月は、突如現れた凶悪な魔物との激しい死闘の末、その脇腹に深く大きな傷を負わされていたのです。


じわじわと血の滲む傷口を隠し、かろうじて息を潜める銀色の身体は、いつも通りの気高く美しい姿からは程遠いものでした。

もし今、こんな痛々しい姿を晒してしまえば、ただでさえ怯えているリリアをさらに深く絶望させてしまう。

何より、この傷を引き起こした恐ろしい脅威が、いまだこの森のどこかに潜んでいるのです。

今の傷ついた状態では、万が一のときに彼女を命懸けで守り抜く自信がありませんでした。


(来るな、リリア……。これ以上、この森へ近づいてはならない……)


届かぬ願いを胸の内で呟きながら、蒼月はただ痛みに耐えて荒い息を吐き出すことしかできません。

木漏れ日の下、今日も涙を浮かべて立ち尽くすリリアの後ろ姿を、蒼月は血の滲むような切なさを堪えながら、暗闇の奥から見守り続けるのでした。



――そうして、蒼月が姿を消してからひと月が経とうとしていた、ある夜のこと。


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