第四話 星祭り
第四話 星祭り
蒼月と名を呼び、その柔らかな毛並みに触れたあの日から、リリアの日々は少しずつ色を変えていきました。
森へ向かう足取りは以前よりも軽くなり、風に揺れる葉の音も、木漏れ日のきらめきも、どこか特別なもののように感じられます。
夏が最も輝きを増す頃、町では「夏の星祭り」の準備が始まっていました。
通りには色鮮やかな旗が掲げられ、子供たちは夜空に上がる花火の話で持ちきりです。
その日の夕暮れ、リリアは茜色に染まる森の中で、蒼月の隣に座っていました。
蒼月はいつものように大きな体を静かに伏せ、リリアの声に耳を傾けています。
遠くの町からは祭りの準備をする人々の声がかすかに届き、森の梢は夏の風にさらさらと揺れていました。
「ねえ、蒼月。明日ね、町で星祭りがあるの。通りいっぱいに灯りがともって、屋台も出て、夜には大きな花火が上がるんだよ」
蒼月は、黄金色の光を浴びたリリアの横顔をじっと見つめていました。
「本当はね、あなたにも見せてあげたいの。甘い焼き菓子も、香ばしい串焼きも、きっと気に入ると思うし……花火だって、隣で一緒に見られたら、どんなに楽しいかしら」
リリアはそう言って小さく笑いました。
けれど、その笑みにはほんの少しだけ寂しさが混じっていました。
蒼月を町へ連れていくことはできません。
人々が驚き、怖がってしまうことも分かっています。
それでも楽しい祭りだからこそ、一番大好きな蒼月にも同じ景色を見せたいと思ってしまうのです。
リリアは蒼月の首元に腕を回し、ふわりと顔を埋めました。
銀の毛並みは夕暮れの光を含んで、いつもより少し温かい色に見えました。
蒼月は動かず、ただ静かにリリアを受け止めています。
「明日の夜、もしよかったら、森の入り口の近くまで来てくれる? 町で一番高い丘からなら、森の方も少し見えるの。私、そこからあなたを探すね。離れていても、同じ花火を見よう?」
蒼月はしばらく黙っていました。
やがて、ふっと静かに鼻を鳴らし、大きな頭でリリアの金色の髪をそっと撫でます。
「……来てくれるの?」
問いかけるリリアに、蒼月はもう一度、短く鼻を鳴らしました。
まるで、分かっている、と答えるようでした。
リリアは嬉しそうに目を細め、蒼月の温もりに頬を寄せます。
森を渡る夏の夜風が、二人の約束を包むように梢を揺らしていきました。
そうして迎えた、星祭りの当日。
日が沈むと、町は一気に魔法にかかったような賑わいに包まれました。
通りには色とりどりのランタンが灯り、屋台からは焼き菓子や肉の香ばしい匂いが漂っています。
美しい衣装を纏った人々が笑い合い、笛や弦の音が夜の空気を楽しげに震わせていました。
リリアも母と一緒に祭りの広場にいました。
母の手伝いを終え、町の人々と挨拶を交わしながらも、胸の奥はずっと落ち着きません。
夜空を見上げるたび、昼間よりも深く静まり返った森のことが頭をよぎります。
蒼月は本当に来てくれているのだろうか。
あの森の入り口で、今もこちらを見ていてくれるのだろうか。
「リリア、どうしたの? さっきから森の方ばかり見ているけれど」
「ううん、なんでもないの。少し、風に当たってくるね」
「遠くへ行きすぎないのよ。花火が終わったら戻っていらっしゃい」
「うん。すぐ戻るね」
リリアは広場の賑わいをそっと抜け出し、昨日蒼月に話した丘へ向かいました。
町で一番高いその場所へ着く頃には、息が少し弾んでいました。
眼下には祭りの灯りが宝石のように広がり、反対側には深い闇を湛えた森が静かに横たわっています。
リリアは丘の端へ歩み寄り、森の入り口へ目を凝らしました。
「蒼月……来てくれているのかな」
小さく呟いたその時、夜空に大きな音が響き渡りました。
花火が、ぱっと夜空に咲いたのです。
赤、青、金色の光が大輪の花のように広がり、胸の奥まで響く音とともに町を照らしました。
次々と打ち上がる花火の明かりが、丘の草花を、リリアの金色の髪を、眩しく照らしては闇へ戻していきます。
「わあ……綺麗……」
思わず息を呑み、リリアは夜空を見上げました。
けれどすぐに視線を戻します。
どれほど美しい花火でも、一番見せたい相手がここにいなければ、胸のどこかが少しだけ寂しいままでした。
その時、ひときわ大きな花火が夜空で弾けました。
世界が一瞬、真昼のような明るさに染まります。
リリアは森の入り口の少し開けた草原に、ぽつんと佇む影を見つけました。
花火の光を浴びた蒼月です。
漆黒の闇の中、その銀色の毛並みは青く、赤く、金色に移ろいながら、神聖なほど美しく輝いていました。
大きな体を静かに座らせ、蒼い瞳をまっすぐにこちらへ向けています。
「蒼月……! 本当に来てくれたんだ!」
届かないと分かっていても、リリアは大きく手を振りました。
すると森の入り口で、銀の尾がふわりと一度だけ揺れます。
リリアにはそれが、確かに返事のように見えました。
「見える? ねえ、蒼月。きれいでしょう?」
夜空では花火が絶え間なく光の粒を降らせています。
リリアは胸の前で両手をぎゅっと重ね、涙のにじむ目で蒼月を見つめました。
人混みの中へ一緒に入ることはできません。
美味しいものを隣で食べることもできません。
それでも今、二人は同じ夜空を見上げ、同じ光の下で互いを想っていました。
「ありがとう、蒼月。来てくれて、本当にうれしい」
森を渡る夏の夜風が、リリアの頬を優しく撫でていきました。
まるでその言葉を、蒼月のもとへ運んでくれるかのようでした。
星祭りの終わりを告げる特大の花火が夜空いっぱいに広がり、やがて煙の向こうへゆっくりと消えていきました。
町には再び夜の闇が戻り、広場から聞こえていた歓声も少しずつ遠のいていきます。
人々は帰り支度を始め、屋台の灯りも一つずつ落とされていきました。
「さあ、私もお母さんのところへ戻らなきゃ」
リリアはもう一度森の方へ微笑み、手元のランタンを頼りに丘の斜面を下り始めました。
けれど花火が終わったばかりの夜道は、思っていた以上に暗く、足元の草も木の根もよく見えません。
祭りの余韻で少し浮き立っていたせいか、リリアは草に隠れていた太い木の根に足を取られてしまいました。
「あっ――!」
短い悲鳴が夜道に落ちました。
体が傾いたと思った次の瞬間、リリアは急な斜面を転がり落ちていました。
硬い地面に肩がぶつかり、石が腕をかすめます。
ほんの数メートルほどのはずなのに、止まるまでがひどく長く感じられました。
ようやく体が止まった時、手にしていたランタンはどこかへ飛んでしまっており、あたりは完全な暗闇に包まれていました。
「痛っ……」
リリアは痛みに息を詰めながら、どうにか身を起こそうとしました。
その時、頭上で草木を激しくかき分ける音がします。
「蒼月……?」
暗闇の中から、蒼月が飛び込んできました。
月明かりを受けた銀色の体が、夜の底で淡く浮かび上がります。
蒼月はリリアのそばへ駆け寄ると、心配そうに何度も鼻を鳴らし、大きな頭を寄せて顔を覗き込みました。
「大丈夫……大丈夫だよ。ちょっと転んだだけだから」
リリアは安心させようと笑いました。
けれど立ち上がろうとした瞬間、右足に鋭い痛みが走ります。
「うっ……!」
その場にへたり込んだリリアの目に、涙がにじみました。
自分の足では、とても町まで戻れそうにありません。
さっきまで美しかった夜の静けさが、急に心細いものに変わっていきます。
「どうしよう……」
その声が震えた時、温かく柔らかなものが頬に触れました。
蒼月が、涙を拭うようにそっと頬を舐めてくれたのです。
蒼月はリリアの前に回り込むと、大きな背中を向けて静かに伏せます。
そして振り返り、じっとリリアを見つめました。
「え……? もしかして、乗れって言ってるの?」
蒼月は促すように、小さく鼻を鳴らしました。
「でも、私が乗っても大丈夫? 重くない? 痛くない?」
問いかけても、蒼月は動きません。
リリアは痛む足を庇いながら、そっと蒼月の背に体を預けます。
銀色の毛並みは驚くほど柔らかく、温かく、両腕で首元にしがみつくと、蒼月の鼓動が静かに伝わってきました。
「……ありがとう。お願いね、蒼月」
リリアがしっかり乗ったことを確かめると、蒼月は音もなく立ち上がりました。
人間の娘一人を背に乗せても、その姿勢は少しも揺らぎません。
リリアが思わず「高いね」と呟くと、蒼月はゆっくりと歩き始めました。
普段なら風のように森を駆ける蒼月が、今は一歩一歩を確かめるように進んでいます。
リリアが揺れで痛まないよう、落ちないよう、足運びのひとつひとつに気を配ってくれているのが分かりました。
「蒼月、本当に優しいんだね」
耳元でそっと囁くと、蒼月の耳が小さく後ろへ動きました。
リリアの声を聞いている、その仕草がたまらなく愛おしくて、リリアは銀の毛並みに頬を寄せました。
温かな背中に包まれているうちに、怪我の痛みも、暗闇への恐ろしさも、少しずつ遠のいていくようでした。
やがて、夜道の先に町外れの灯りが見えてきました。
ランタンの光がいくつか揺れ、人の声がかすかに聞こえます。
蒼月はためらうことなく、リリアを乗せたまま町の小道へ進みました。
「リリア――!?」
その声に、リリアは顔を上げました。
祭りが終わっても戻らない娘を心配して探しに来ていた母が、道の向こうで立ち尽くしています。
暗闇の中から銀狼が現れ、その背に娘が乗っているのです。
母が息を呑むのも無理はありませんでした。
「だれか――衛兵を――!」
「だめ! お母さん、待って!」
リリアが慌てて叫ぶと、蒼月は母の手前でぴたりと足を止めました。
そして驚かせないように、ゆっくりとその場に伏せます。
リリアは蒼月の背からそっと降りました。
けれど地面に足をつけた途端、痛みに顔をしかめてしまいます。
母はそこでようやく、娘の様子がただごとではないことに気づき、駆け寄ってきました。
「リリア、足を怪我したの? いったい何があったの」
「丘から落ちちゃったの。ランタンもなくして、動けなくなって……この子が助けてくれたの」
「この狼が……?」
母はまだ信じられないように、蒼月を見ました。
蒼月はリリアのすぐそばで静かに伏せたまま、蒼い瞳で、リリアと母を見守っていました。
「本当に優しい子なの。私、何度も助けてもらってる。だからお願い、お母さん。怖がらないで」
母はリリアの顔を見つめ、それから蒼月へ視線を移しました。
張り詰めていた肩の力が、少しずつ抜けていきます。
「……あなたが、リリアを連れてきてくれたのね」
母の声はまだ震えていました。
けれどその中には、恐れだけではないものが混じっていました。
「ありがとう。この子を助けてくれて……ありがとう」
蒼月はその言葉を聞き届けるように、静かに目を細めました。
そしてリリアが母の腕に支えられたのを確かめると、ゆっくりと身を起こし森の方へ向きました。
「蒼月……」
リリアが呼ぶと、蒼月は一度だけ振り返りました。
花火の名残を映したような夜空の下、その銀の姿は月明かりをまとい、夢の中のもののように美しく見えました。
「ありがとう。また、森で会おうね」
蒼月は小さく鼻を鳴らすと、町の人々に見つかる前に身を翻しました。
蒼月の姿は溶けるように遠ざかり、やがて深い森の奥へ消えていきます。
リリアは母に支えられながら、その姿が見えなくなった後も、ずっと森の方を見つめていました。
胸の中で何度も何度も蒼月の名を呼び、言葉にしきれない感謝を抱きしめながら。
――……――……――
リリアを町へ送り届けた後、蒼月は森の奥へ戻っていました。
夜空には月が静かに浮かび、淡い銀光が木々の間へ降り注いでいます。
昼間は鳥たちの声で賑やかな森も、今は深い静寂に包まれていました。
聞こえるのは、風が枝葉を揺らす音と、蒼月が草を踏むかすかな足音だけです。
蒼月の背には、まだリリアの温もりが残っているようでした。
首元に回された細い腕。
痛みに耐えながらも、自分を気遣おうとした声。
名を呼ぶたびに揺れる、あの翡翠の瞳。
(……軽いな)
あまりにも小さく、あまりにも柔らかい。
けれど、その娘は、蒼月の胸の奥に不思議な温もりを残していきました。
最初は、気まぐれに見守っていただけのはずでした。
森へ来る人間の娘が、少し変わっていて、危なっかしくて、目を離せなかっただけのはずでした。
けれど今は違います。
蒼月は足を止め、町の灯りがかすかに見える方角を振り返りました。
遠く、星祭りの名残のように、空には薄い煙が漂っています。
(あの娘は、本当に目が離せない)
そう思うと、蒼月の胸の奥に、静かな笑みのようなものが広がりました。
誰かの無事に安堵することも、誰かの声を待つことも、誰かの温もりを失いたくないと思うことも、長い時を生きてきた蒼月にとっては初めての感情でした。
月明かりが銀の毛並みを淡く照らします。
蒼月はもう一度だけ町の方を見つめ、それから森の奥へ歩き出しました。
今度リリアが森へ来た時は、きっとまた笑って名を呼ぶのでしょう。
その声を思い浮かべながら、蒼月は静かな夜の森へと消えていきました。




