第三話 蒼月
そんな日々が過ぎ、ある夏の暑い日のことでした。
リリアはいつものように、森の奥にある池へと足を運びました。
澄み切った水面には鮮やかな青空が映り込み、風が吹くたびに周囲の木々がさらさらと涼しげな音を立てています。
「今日も暑いなぁ」
そう呟きながら、リリアは池のそばへ突き出た大きな木の枝に腰を下ろしました。
この場所は、リリアの一番のお気に入りでした。
きらめく水面を静かに見渡すことができ、涼しい木陰の風も吹き抜ける、誰にも邪魔されない秘密の場所だったのです。
靴を脱いで白い足先をそっと水へ浸すと、ひんやりとした心地よい感触が肌を包み込みました。
「気持ちいい……」
思わず頬が緩みます。
リリアが足先で水面を揺らしていると、背後の茂みがかすかに揺れました。
振り返ったリリアの顔が、ぱっと明るくなります。
「来てくれたの?」
銀狼は静かにリリアを見つめています。
その蒼い瞳は穏やかで、まるで最初からそこに佇んでいたかのようでした。
「こっち、涼しいよ」
リリアが嬉しそうに微笑むと、銀狼はゆっくりと歩みを進めました。
以前の距離感を思えば、考えられないことでした。
銀狼は迷うことなくリリアのすぐ近くまでやって来ると、その場へ静かに腰を下ろしました。
池を渡る夏の風が、リリアと銀狼の横顔を優しく撫でていきます。
「あなたも涼みに来たの? 暑いものね」
銀狼は静かに耳を動かし、大きな尻尾をゆっくりと揺らしました。
リリアは嬉しくなって、足先で小さく水を跳ねさせました。
「ほら、池の水は冷たいよ。あなたは入らないの?」
銀狼は水面へ視線を向けました。
揺れる光が、銀の毛並みに淡く反射します。
「ふふっ。濡れるのは嫌?」
リリアは楽しそうに笑い、それから町の方角へ視線を向けました。
「もうすぐ、町のお祭りがあるの。屋台がいっぱい出て、夜には花火も上がるんだよ」
銀狼の耳が、ぴくりと動きました。
「花火ってね、夜空に大きな花が咲くみたいなの。赤や青や金色に光って、すごく綺麗なんだから」
リリアは両手で小さく丸を作り、夜空に広がる花火を思い浮かべるように目を細めました。
「でも、大きな音がするから、あなたは少し驚くかもしれないね」
銀狼は静かにリリアを見つめています。
こうして寄り添い合う時間が、リリアはたまらなく好きでした。
言葉が返ってくるわけではありません。
それでも、銀狼の耳が動くたび、蒼い瞳がこちらを向くたび、リリアの胸は温かくなりました。
「ねえ」
リリアは改めて銀狼を見つめました。
青く澄んだ瞳。
陽光を弾く美しい銀の毛並み。
その姿を見ているうちに、どうしても銀狼に触れてみたいという気持ちが胸の奥から湧き上がりました。
「少しだけ……触ってもいい?」
銀狼は静かにリリアを見つめています。
リリアの胸が、小さく鳴りました。
「嫌だったら、すぐやめるから」
そう言って、リリアはそっと手を伸ばしました。
あと少し。
もう少しで届く。
けれど、指先が触れそうになった瞬間、不安が胸をよぎりました。
もし嫌がられて、このまま森の奥へ消えてしまったら。
そう思うと、差し出した手が小さく震えました。
「……怖がらせたいわけじゃないの」
リリアは、震える指先を止めたまま囁きました。
「ただ、少しだけ」
銀狼はリリアの手をじっと見つめていました。
大きな尻尾が、ふわりと一度だけ揺れます。
それから銀狼は、ゆっくりと立ち上がりました。
「あ……」
拒まれたのだと思い、リリアの胸に小さな寂しさが落ちました。
けれど次の瞬間、銀狼はさらに一歩近づきました。
そして、そっと大きな頭をリリアの手のひらへ寄せたのです。
「……!」
リリアの瞳が大きく開きました。
触れてもいい。
そう言われたような気がしました。
リリアは震える指先で、おずおずと銀狼の頭に触れました。
指先に伝わった毛並みは驚くほど柔らかく、陽だまりに触れたような温もりが、手のひらから全身へじんわりと広がっていきます。
「柔らかい……」
リリアは息をひそめるように呟きました。
恐る恐る撫でると、銀狼は気持ちよさそうに目を細めました。
その姿を見た瞬間、リリアの表情がふわりとほどけます。
「嫌じゃない?」
銀狼は目を細めたまま、静かにリリアの手に頭を預けていました。
「よかった……」
水面を跳ねる光と夏の太陽を浴びて、銀の毛並みが一際まばゆく煌めきました。
リリアはその美しさに、思わず見惚れてしまいました。
「綺麗……」
自然に言葉がこぼれました。
触れ合えたことが、嬉しくてたまりませんでした。
しばらくそうして撫でていた後、リリアはふと思い出したように微笑みました。
「そういえば、私、まだ自分の名前を教えてなかったね」
銀狼の耳が、静かに動きました。
リリアはそっと自分の胸に手を当てました。
「私はリリア・グランベル。リリアっていうの」
銀狼は、リリアの声を聞くようにじっと見つめています。
リリアは少し照れたように笑いました。
「あなたの名前は分からないけれど……名前がないと、呼びにくいもの」
リリアは少しだけ首を傾げました。
深く蒼い瞳。
夜空の月を思わせる、美しい銀の毛並み。
その二つを見つめているうちに、胸の奥へひとつの名が浮かびました。
「蒼月……」
リリアは小さく呟きました。
「蒼月って、呼んでもいい?」
その声に応えるかのように、森を渡る風が青葉を優しく揺らしました。
銀狼はしばらくリリアを見つめていました。
やがて、大きな尻尾をゆっくりと一度だけ揺らします。
リリアの顔が、ぱっと明るくなりました。
「本当?」
その時、温かな舌が、ぺろりとリリアの手の甲を優しく舐めました。
「……!」
リリアは驚いて目を丸くしました。
それから、堪えきれずにくすくすと笑いました。
「ありがとう」
そう言って、リリアはもう一度、大切に呼びかけました。
「蒼月」
嬉しくてたまらなくなったリリアは、気づけばそっと蒼月の首元へ抱きついていました。
――……――……――
突然の行動に、蒼月は大きな蒼い瞳をぱちぱちと瞬かせました。
人間に触れられることなど、これまでの長い生の中でほとんどありませんでした。
まして、自ら進んで人の温もりを受け入れるなど、かつての自分であれば考えもしなかったことでしょう。
けれど、不思議と嫌な気持ちはありませんでした。
腕の中から伝わってくる柔らかな温もりはどこか心地よく、振り払おうという気さえ湧いてこなかったのです。
最初に見た時、リリアは森へやって来る人間の娘の一人に過ぎませんでした。
木漏れ日を浴びて金色の髪を揺らしながら歩く姿も、水を湛えた翡翠の瞳も、確かに目を引くものでした。
それでも、蒼月にとってはただの人間の娘でした。
けれど、彼女は他の人間とは違っていました。
狼の姿をした自分を見ても怯えず、逃げ出さず、ただ真っ直ぐにこちらを見つめていました。
それから何度も森で顔を合わせるようになり、彼女はいつも楽しそうに言葉を紡ぎました。
季節の花が咲いたこと。
町で起きた小さな出来事。
薬草のこと。
母のこと。
その声は、いつしか蒼月にとって、森のせせらぎと同じように聞き慣れた心地よい響きとなっていました。
気づけば、蒼月は森へやって来る彼女の姿を静かに探すようになっていました。
そして、曇りのない笑顔を見るたびに、胸の奥が不思議と温かくなることにも気づき始めていました。
蒼月はただ静かに目を細め、リリアの温もりを受け入れていました。




