第十話 旅立ちの
夜明け前の空は、まだ淡い群青色に包まれていました。
領主の館も静かな眠りの中にあるように見えましたが、その内側ではすでに旅立ちの準備が始まっています。
使用人たちは足音を忍ばせながら廊下を行き交い、荷馬車には旅に必要な荷物が一つずつ丁寧に積み込まれていました。
リリアもまた、早くから目を覚ましていました。
昨夜は蒼月と共に中庭で過ごしたあと、ようやく眠りについたはずなのに、不思議と身体は軽く、心も澄み渡っています。
窓辺へ歩み寄ると、遠くに見える町並みが朝靄の向こうにぼんやりと浮かんでいました。
生まれ育った町、薬草を採りに通った森、母と暮らした家、そして町の人々の笑顔。
そのすべてが、今日から少しだけ遠くなってしまうのだと実感し、胸の奥がきゅっと締め付けられるような感覚を覚えます。
その時、背後から静かな足音が聞こえました。
振り返ると、蒼月がゆっくりと近付いてきます。
蒼月は何も言わず、大きな鼻先をそっとリリアの手に寄せました。
リリアは微笑みながらその頭を撫でます。
「大丈夫だよ」
そう言い聞かせるように呟くと、蒼月は静かに目を細めました。
身支度を整えようと、リリアは領主の館で用意してもらった旅服へ手を伸ばします。
丈夫で動きやすく、それでいて上品さも失われていない仕立ての服です。
袖を通し、一つ一つ紐を結びながら、リリアは大きく深呼吸をしました。
鏡の中の自分へ向かって小さく笑いかけます。
「……よし」
その一言で、不思議と気持ちが落ち着きました。
リリアは部屋を振り返り、静かに扉へ向かいます。
部屋を出ると、母は昨夜と同じように荷物を確認していました。
もう何度も確かめたはずなのに、それでも母の手は止まりません。
不器用なほど念入りに荷を点検するその背中には、愛娘を送り出すことへの言いようのない不安と、溢れんばかりの慈しみが滲んでいます。
それは、娘を送り出す母親の切ない心配ゆえなのでしょう。
その穏やかな景色を眺めながら、リリアはふと思いついたように口を開きました。
「お母さん」
リリアが声を掛けると、母は振り返り、優しく微笑みました。
「おはよう、リリア」
いつもと変わらない朝の挨拶でしたが、その何気ない言葉が今日はどこか特別に感じられます。
リリアは母の隣へ腰を下ろし、しばらく二人は窓の外を見つめていました。
「王都へ着いたら、たくさん手紙を書くね」
リリアの言葉に、母は驚いたように目を瞬かせ、それから心からの柔らかい笑みを浮かべました。
「ええ。楽しみにしています」
「王都がどんなところだったとか、どんな人に会ったとか……いっぱい書くからね」
「ふふっ。それは読むのが本当に楽しみですね」
穏やかな笑い声が部屋に広がり、少しだけ張り詰めていた空気がふわりと和らぎます。
母はそっとリリアの手を握り、ゆっくりと諭すように言葉を紡ぎました。
「無理はしないこと」
「うん」
「困った時は、一人で抱え込まないこと」
「うん」
「そして、どれだけ遠くへ行っても、ここがあなたの帰る場所だということを忘れないこと」
その言葉に、リリアの瞳がじわりと潤みました。
王都へ行く決意に一片の迷いもありません。
それでも、自分を待っていてくれる人がいる、いつでも帰れる場所があるという事実は、何より心強く、リリアの背中を支えてくれる温かな重みとなって胸に宿ります。
「ありがとう、お母さん」
リリアは母をそっと抱きしめました。
母もまた、娘の背中を優しく抱き返します。
二人はしばらくの間、何も言わずただ互いの温もりを確かめ合うように寄り添っていました。
言葉にしなくても、その抱擁だけで溢れるほどの想いが伝わっていたからです。
やがて館の外から馬のいななきと人々の喧騒が聞こえてきました。
王都への出発の準備が整ったのでしょう。
リリアは母と最後に穏やかな微笑みを交わすと、静かに部屋の扉を開きました。
廊下を抜けて正門前へ向かうと、そこにはアルベルトとエドガー、そしてルークの姿がありました。
さらにその傍らでは、一人の騎士が数名の部下と地図を広げ、街道の状況を確認し合っています。
落ち着いた声で指示を出すたび、周囲の騎士たちが迷いなく頷く様子から、彼らの連携の良さが窺い知れました。
その姿を見たアルベルトが、こちらへ歩み寄るリリアに気付いて声をかけます。
「来たか」
穏やかな響きにリリアが一礼を返すと、アルベルトは打ち合わせを終えた男の方へ視線を向けました。
「ガレス隊長」
呼ばれた男は即座に歩み寄ってきました。
鍛え抜かれた体躯に白銀の鎧を纏い、右頬には古い傷跡が一本走るその風貌からは、幾度も戦場を越えてきた歴戦の風格が漂っています。
アルベルトは二人へ視線を送り、簡潔に紹介を始めました。
「紹介しよう。こちらがリリア・グランベルだ」
ガレスは胸に手を当て、騎士らしく端正に一礼します。
「王国騎士団第三隊隊長、ガレス・フォン・ヴァルドと申します。王命により、王都までの護衛を務めさせていただきます」
低く落ち着いた声でした。
その威風堂々とした姿に、リリアは少しだけ気後れしそうになりながらも、背筋を真っ直ぐに伸ばします。
「リリア・グランベルです。この度は王都までどうぞよろしくお願いいたします」
リリアは丁寧に頭を下げました。
それは領主の館で教わった礼儀作法を思い出しながらの、精一杯の挨拶です。
その様子を見たガレスは、険しかった目元をわずかに緩めて静かに頷きました。
「こちらこそ、よろしく頼む」
そうしてガレスは、リリアの傍らに立つ母親へ視線を向けました。
「お母上様でいらっしゃいますな」
母が緊張した様子で頭を下げると、ガレスは再び胸に手を当てて真っ直ぐな瞳を向けました。
「リリアの母でございます。この度は娘がお世話になります」
「ご安心ください」
その眼差しには軽々しい慰めも、その場しのぎの言葉もありません。
戦場を幾度も越えてきた騎士特有の、揺るぎない覚悟が宿っています。
「王都までは長い旅路となりますが、お嬢さんは必ず無事にお連れいたします」
その穏やかな言葉に含まれた重みに、母は安心したように微笑みました。
「どうか娘を、よろしくお願いいたします」
「お任せください」
ガレスの静かな決意を受け、リリアの胸にも安堵が広がります。
王都への旅は不安ばかりではない。
自分を支え、守ってくれる人たちがいる。
そう思うと、先ほどまで感じていた緊張が少しずつ解けていくのを感じました。
ふと、ガレスの視線がリリアの隣へ移ります。
そこには、朝日を浴びて銀色に輝く蒼月が静かに佇んでいました。
月光を思わせる美しい毛並みと、軍馬にも劣らぬ大きな体躯、そして深い蒼色の瞳。
ガレスはわずかに目を見開きます。
噂には聞いていました。
町を救い、魔物の群れを退けた「銀狼」の英雄。
しかし、実際に目の当たりにしたその姿は、想像を遥かに超える神秘を湛えていました。
しばらく見つめた後、ガレスは小さく息を吐き出し、感嘆を滲ませるように呟きます。
「なるほど……王都まで届いた噂に誇張はなかったようですな」
蒼月は静かに耳を動かしただけでしたが、ガレスは満足したように頷き、隣で見守るアルベルトもまた、誇らしげな表情で銀狼を見つめていました。
リリアが馬車へ向かおうとした時、母がもう一度だけその手を握りました。
強く引き留めることはせず、ただ指先に込められた温もりだけで、言葉にできない想いを伝えてくるようでした。
リリアはその手を両手で包み返し、小さく頷きました。
やがて出発の刻を迎え、一行は馬車へ乗り込みます。
蒼月は馬車の傍らを歩くため外に残り、ガレス率いる騎士たちが前後を固めると、ゆっくりと車輪が動き始めました。
館の門を抜けると、朝の光に包まれた見慣れた町並みが広がります。
何度も歩いた石畳の道も、今日はどこか違って見えました。
町の大門に差し掛かった時、リリアは思わず息を呑みます。
そこには、診療所に通ってくれた人々や薬草を分けてくれた人々、市場の商人たちや子供たちまで、町中の人々が集まっていたからです。
「リリアー!」
「頑張れよ!」
「王都でも元気でな!」
次々と飛び交う声援に、リリアは驚きながら窓を開きました。
まさかこれほど多くの人が見送りに来てくれるとは。
胸の奥が熱くなり、自分は本当に多くの人たちに支えられて生きてきたのだと改めて実感します。
涙が零れそうになるのを必死に堪えながら、リリアは何度も何度も手を振り返しました。
「行ってきます!」
その声に応えるように、人々から一段と大きな声援が上がりました。
その人垣の中で、母だけは声を張り上げることなく、両手を胸の前で組んでリリアを見送っていました。
リリアはその姿を見つけると、もう一度深く頷きました。
それら一つひとつの笑顔を胸に刻み込みながら、馬車はゆっくりと、故郷の門を越えていきました。
やがてローゼンの町を囲む大門を抜けると、その時でした。
馬車の傍らを歩いていた蒼月が、不意に足を止めます。
朝日を銀色の毛並みに浴びて長い影を落としながら、ゆっくりと故郷を振り返りました。
自分たちを見送る人々、そしてリリアと出会い、長い眠りから目覚めた後に初めて安らぎを得た場所――その光景を蒼色の瞳に焼き付けるように。
蒼月は静かに空を見上げ、深く息を吸い込みました。
そして――。
「オォォォォォォォン――――!」
澄み渡る青空へ向かって、高く長い遠吠えが響き渡ります。
それは森を震わせるほど力強く、それでいてどこか慈しみに満ちた響きでした。
その音色に、町の人々は足を止め、騎士たちも思わず振り返ります。
もう一度だけ町を見つめた蒼月の瞳には、いつもの静かな光が宿っていました。
やがて蒼月は、迷いなく前を向きます。
王都へ続く道。
その先に待つ運命へ導かれるように、再び歩き出しました。
リリアはそんな蒼月の背中を見つめながら、小さく微笑みます。
「うん」
その意味を理解したように、リリアは決意を込めました。
「行こう、蒼月」
銀狼は静かに耳を動かして応えます。
こうしてリリアと蒼月は、多くの人々の想いを背に受けながら、新たな運命が待つ長い旅路へと歩み出したのでした。
ローゼンの町を旅立った一行は、王都へ向けて長い街道を進み続けていました。
旅の始まりはリリアにとって新鮮なことの連続であり、窓の外に広がる広大な草原や深い森、見知らぬ町並みを眺めるたびに胸を躍らせ、王都への期待は日に日に膨らんでいきます。
しかし、そんな高揚感も束の間、リリアには景色を楽しむ余裕などほとんどありませんでした。
なぜなら、ルークという名の厳しい講師がそれを決して許してはくれなかったからです。
馬車が街道を進む中、ルークは常に分厚い手帳を片手に、休みなく授業を続けていました。
「王国の頂点に立たれるのはアレクシス・フォン・グランヴァルド陛下。そして、その陛下を補佐する王国最高の文官がハインリヒ・フォン・ヴァイスベルク宰相閣下となります」
「は、はい!」
リリアは慌てて手帳へ書き込みます。
「王宮には政務局、軍務局、財務局、法務局など複数の部署が存在します。それぞれの役割を正確に把握してください」
「ま、待ってください!」
「待ちません」
即答でした。
ルークの容赦のない態度にリリアが肩を落とす間もなく、王国の制度、貴族社会の常識、王宮の組織、地理、歴史、礼儀作法と、説明は矢継ぎ早に続きます。
昼食を終えれば今度は謁見の作法です。
「謁見の間へ入ったら三歩進んで停止、一礼です。その後は許可があるまで顔を上げてはいけません」
「こうですか?」
リリアが恐る恐る実演すると、ルークは即座に首を横へ振りました。
「違います。角度が浅いです」
「えぇ……」
翌日には晩餐会についての講義が始まります。
「晩餐会や舞踏会では、多くの貴族がリリア殿へ挨拶に訪れるでしょう」
「そんなにたくさんですか?」
「間違いなく」
ルークは断言し、さらに淡々と言い放ちました。
「会話の受け答え、食事の作法、立ち振る舞い、ダンスへの対応も必要になります」
「ダンス……」
リリアの顔から血の気が引きます。
ルークは手帳をめくり、追い打ちをかけるように続けました。
「それから、晩餐会における『天候の話題から社交へ繋げるための三段階ステップ』も暗記してください。急な雨が降った際の教養ある反応法や、相手が領地の収穫について愚痴をこぼした時の同調の仕方など、貴族の嗜みとして必須です」
「あの……雨の話まで練習するのですか? 薬草を採る時の判断基準なら自信があるのですが……」
「ここは森ではありません。リリア殿、天候はただの空模様ではなく、社交の潤滑油なのです」
ルークの容赦のない論理に、リリアはぐうの音も出ませんでした。
しかしルークはそこで一旦区切り、こう言いました。
「安心してください」
その言葉にリリアがわずかな希望を見出したのも束の間、次の瞬間にはその希望は無残にも砕け散ります。
「王都へ到着するまでに完璧に覚えていただきますので」
結局、安心できる要素などどこにもありませんでした。
そんなリリアの窮状を、ガレスは表情を変えずに見守りつつ、時折口元をわずかに緩めて笑いを堪えています。
蒼月もまた馬車の外を歩きながら窓越しにその様子を窺っていましたが、時折向けられるその瞳には、どこか同情の色が混じっているようでもありました。
こうして、知識の詰め込みと緊張に彩られた、慌ただしい王都への旅路は続いていったのです。
旅が進むにつれ、リリアは世界の厳しい現実を少しずつ知ることになります。
街道沿いには荒れ果てた畑が残り、ひと気のなくなった家々が静かに朽ちていました。
時には故郷を追われた避難民の姿を見かけることもあり、その表情には疲労と不安の色が濃く刻まれています。
魔物による被害は、リリアが想像していた以上に深刻でした。
荷車にわずかな家財を積んだ家族が、街道の端を黙って歩いていることもありました。
幼い子供が母親の袖を握りしめ、疲れた目で騎士団の馬車を見上げています。
リリアは窓枠を握り、自分の胸の奥に小さな痛みが広がるのを感じました。
自分の力がもし本当に誰かの役に立つのなら、王都へ向かう意味は確かにあるのだと思いました。
夜になると一行は野営を行い、焚き火を囲んで束の間の休息を取ります。
もっとも、リリアにとってはそれすらも勉強の時間でした。
焚き火の明かりの中、ルークは昼間の復習を始めます。
王国の歴史、主要な貴族家、王宮での振る舞い、そして晩餐会で失礼にならない会話の流れまで。
リリアは必死に食らいついていました。
その夜、復習を終えて天幕に戻ると、リリアはようやく一人きりになりました。
焚き火の明かりは遠く、町で過ごした夜よりも空が広く感じられます。
母の声も、家の匂いも、慣れ親しんだ寝台の感触も、ここにはありません。
リリアが膝を抱えていると、天幕の入口近くで蒼月が静かに身を伏せました。
その温かな気配に気づき、リリアはそっと蒼月の首元へ手を伸ばします。
「少しだけ、寂しいね」
蒼月は答える代わりに、長い尾をリリアの傍らへ寄せました。
その静かな仕草に支えられ、リリアはようやく浅い眠りへ落ちていきました。
そんな日々が続いた五日目の昼過ぎ。
街道脇の森を進んでいた一行に、突然、緊張が走りました。
それまで馬車の傍らを歩いていた蒼月が、不意に足を止めました。
蒼色の瞳が森の奥を射抜き、低く喉を鳴らします。
そのただならぬ気配に、ガレスが即座に手を上げました。
「全隊、停止」
騎士たちの動きは素早く、前衛が道を塞ぎ、後衛が馬車の周囲を固めます。
馬をも上回る巨体を持つその魔獣は、黒い甲殻に覆われた異様な姿をしており、赤黒い瞳には凶暴な殺意が宿っています。
草むらが裂けるように揺れ、黒い甲殻を擦り合わせる不快な音が街道に響きました。
ガレスの号令と同時に騎士たちは陣形を組み、街道は一瞬で戦場へと変わりました。
盾を構える者、槍を構える者、馬車の御者を守る者。
役割は一瞬で定まり、誰一人として無駄に声を上げる者はいませんでした。
近衛騎士団の動きは見事でしたが、相手も決して弱くはありません。
激しい衝突の中で数名の騎士が負傷し、馬たちも怯え始めます。
負傷した騎士の腕から流れた血に、黒い靄のようなものが薄くまとわりついていました。
それを見た瞬間、リリアの背筋に冷たいものが走ります。
あの花を蝕み、レオンを死の淵へ追いやった影と、どこか似ていたからです。
その時でした。
銀色の影が風のように駆け抜けたのです。
蒼月でした。
月光を思わせる美しい毛並みを輝かせながら地を蹴るその姿は、まるで神話の一場面のようでした。
巨大な魔獣でさえ、その前では小さく見えます。
蒼月は真正面から魔獣へ飛び込み、鋭い爪でその巨体を弾き飛ばしました。
轟音と共に地面が揺れ、騎士たちは思わず息を呑みます。
やがてガレス率いる騎士団との連携によって魔獣は討ち倒され、戦いは終わりました。
戦闘後、リリアは真っ先に負傷者たちの元へ駆け寄ります。
「負傷者をこちらへ」
ガレスの声に従い、騎士たちは負傷者を馬車の陰へ運びました。
リリアは迷わずその場に膝をつきます。
傷口に触れるのは怖くないわけではありません。
けれど、黒い靄が少しずつ傷の周囲へ広がっていくのを見ると、躊躇している時間などありませんでした。
「お願い……消えて」
リリアが両手をかざすと、掌から淡い翡翠色の光が溢れました。
それは王宮で学ぶ魔法のように形を持つものではなく、祈りそのものが光になったような、柔らかく清らかな輝きでした。
翡翠色の光が傷口を包むと、黒い靄は小さく震え、朝霧が陽に溶けるように薄れていきました。
騎士の荒かった呼吸が少しずつ落ち着き、青ざめていた頬にも血の気が戻っていきます。
そうしてリリアが傷付いた騎士たちへ翡翠色の光を注いでいくその姿を、ガレスは静かに見つめていました。
ただし、すべてを一瞬で癒せるわけではありませんでした。
深い傷は布で押さえ、騎士たちの手も借りながら、リリアは一人ひとりと真っ直ぐに向き合っていきました。
ガレスは、胸の内で深く納得しました。
この娘も、この銀狼も、確かに王国が必要としている存在なのだと……。
その後の旅は順調に進み、出発から十日目の朝、一行は緩やかな丘を登っていました。
先頭の騎士たちの様子が慌ただしくなったことに気付いたリリアが窓の外へ視線を向けると、馬車はちょうど丘の頂へ差しかかるところでした。
その瞬間、リリアは思わず息を呑みました。
朝日に照らされた巨大な白い城壁が、遥か彼方まで続いているからです。
無数の塔が空へ向かって伸び、その中心には王国の象徴たる壮麗な王宮が堂々と聳え立っていました。
これまで本や噂の中でしか知らなかった王都グランリューネ。
それは王国最大の都市にして、すべての中心であり、今まさに目の前へその全貌を現していたのです。
「すごい……」
思わず零れた呟きは、朝風の中へ溶けていきました。
胸は高鳴っているのに、緊張のせいか、指先は少し冷たくなっていました。
あの城壁の向こうには、国王陛下がいて、貴族たちがいて、自分の知らない世界が広がっています。
不安はあります。
それでも、ここまで来たのだという実感が、リリアの中に静かな勇気を灯していきました。
その隣で、蒼月もまた静かに王都を見つめていました。
すると、その深い蒼色の瞳の奥で、何かが微かに揺らぎます。
見覚えのある城壁の連なり、遠い昔に見たような景色。
思い出そうとしても届かない記憶の欠片が、霧の向こうで鈍く脈打っていました。
それが何なのか、蒼月自身もまだ理解できていません。
けれど、この王都にこそ自分の失われた過去へ繋がる何かが眠っているという予感が、銀狼の胸をざわつかせていました。
やがて巨大な城門がゆっくりと近付いてきます。
リリアと蒼月の新たな運命は、いよいよこの王都から大きく動き始めようとしていたのでした。




