第十一話 王都グランリューネ
ローゼンの町を出てから十日後。
王都グランリューネが馬車からでも見え始めていました。
城門へと続く街道を進むにつれ、王都の威容はさらに鮮明になっていきました。
空を遮るように巨大な石壁がそびえ立ち、その門前には、王国各地から集まった商人の荷馬車や、豪奢な装飾を施された貴族たちの馬車が長い列をなしています。
検問を受けるために並ぶそれらの馬車の列に、ガレス率いる護衛騎士団を伴ったリリアたちの馬車が続きます。
やがて検問の番が来ると、一人の門番が姿勢を正しました。
「ガレス隊長、任務お疲れ様でございます」
護衛のガレスが毅然とした態度で王命の証を提示すると、門番はすぐに道を開けました。
「どうぞお通りください」
同時に、門番たちの視線は、馬車の傍らに控える蒼月へと向けられました。
銀色の毛並みを持つ大きな銀狼を前に、若い兵士の一人が思わず息を呑みます。
「……大きい」
しかし、ガレスが静かに一歩前へ出ました。
「この方は、国王陛下の招聘を受けた正式な客人である。銀狼もまた、その随伴として王都まで護衛のもと同行している。無用な騒ぎは控えよ」
その一言で、門前に広がりかけたざわめきは静かに収まっていきました。
城門をくぐり、王都の内部へと足を踏み入れた瞬間、リリアは思わず息を呑みました。
「わぁ!」
思わず声が出てしまいました。
故郷の町とは何もかもが比較にならないほどの圧倒的な活気と大きさに、リリアは好奇心を抑えきれず、馬車の窓から子供のように身を乗り出して外の景色を眺めます。
石畳の大通りには人々が絶え間なく行き交い、色鮮やかな看板を掲げた店がどこまでも並んでいました。
見たこともない果物を売る商人の声、異国の衣装を纏った旅人たちの姿、豪華な馬車に乗った貴族たち。
そのすべてがリリアには新鮮で、まるで別の世界へ迷い込んだかのように感じられます。
さらに遠くへ視線を向ければ、空へ届きそうなほど高い塔が幾つも立ち並び、その向こうには巨大な王城が堂々とそびえていました。
その隣で、蒼月もまた静かに王都を見つめていました。
人々のざわめきも、石畳を行き交う馬車の音も、今の蒼月にはどこか遠く聞こえています。
高く連なる城壁と、朝日に白く輝く王城。
その景色を見上げた瞬間、深い蒼色の瞳の奥で、何かが微かに揺れました。
知っているはずがありません。
それなのに、どこかで見たような気がするのです。
蒼月は小さく息を吐き、リリアの馬車に寄り添うように歩き続けました。
「すごい……」
思わず零れた呟きに、隣のルークが小さく微笑みます。
「これでも王都のほんの一部ですよ」
その言葉に、リリアは驚いたように目を見開きました。
「そうなのですね」
王家の紋章が描かれた馬車が大通りを進むたび、人々の視線が自然と集まりました。
窓から外を眺める金髪の娘に気付いた者たちは、不思議そうに顔を見合わせます。
「あの方はどなたでしょう」
「見覚えがありませんな」
そんな囁きがあちこちで交わされました。
同時に、『王からの招聘を受けた町娘』という噂を聞きつけた貴族や官僚たちの中には、その事実を面白く思わず、冷ややかな視線を投げかける者も少なくありませんでした。
馬車は王城の正門をくぐり、広大な敷地の中をしばらく進んでいきました。
手入れの行き届いた庭園や美しい噴水、整然と並ぶ兵舎や庁舎を横目に進むたび、王城の規模を改めて実感させられます。
やがて馬車は本城の正面入口前へと到達し、ゆっくりと停止しました。
ガレスが手際よく扉を開けると、リリアは周囲の視線を感じながら一歩ずつ馬車から降り立ちます。
「リリア殿、長旅お疲れ様です」
「着きましたよ」
「はい、ありがとうございます」
王宮の入り口の扉の前には、王宮政務局事務次官を務めるハイデルベルクが、数名の文官や侍女を従えて待っていました。
ハイデルベルクはリリアへ歩み寄ると、無駄のない所作で一礼します。
「王都グランリューネへ、ようこそお越しくださいました、リリア殿」
「私は王宮政務局事務次官、ハイデルベルク・フォン・ヴァルトシュタインと申します」
「陛下のご命令により、お迎えに参りました」
リリアは背筋を伸ばし、教わった通りの優雅で美しい所作で挨拶を返しました。
「ご丁寧な出迎え、感謝いたします」
「リリア・グランベルと申します」
「どうぞよろしくお願いいたします」
「長旅、まことにお疲れでございました。本日はこの後、公式の予定はございません。まずは客室にて、ゆっくりお休みください」
リリアの堂々とした振る舞いに、ハイデルベルクは一瞬だけ目を細めました。
田舎町で育った娘と聞いていましたが、少なくとも礼儀作法については十分に身についているようです。
次いでハイデルベルクは、リリアの背後に控える蒼月へと視線を向けました。
銀色の毛並みを持つ大きな銀狼。
その威容に、周囲の文官たちもわずかに緊張した様子を見せています。
「ですが……その銀狼を宮殿内へお通しするわけにはいかぬ」
ハイデルベルクは蒼月へ視線を向けたまま、冷静な口調で続けました。
「私は王宮の秩序と受け入れの手続きを預かる身である」
「ローゼン領からの報告書も読んでいるし、その銀狼の功績についても承知している」
「しかし、どれほど大人しく従順であろうと、それだけで宮殿内へ通すわけにはいかぬ」
その言葉に、蒼月が低く喉を鳴らし、身構えました。
リリアと引き離されることを警戒したのでしょう。
周囲の空気が一瞬張り詰めます。
しかしハイデルベルクは表情を変えませんでした。
「客人用の別館は用意してある」
「そこで待機してもらう」
「それが王宮の決まりだ」
リリアは蒼月の首元へ手を添えました。
「蒼月、お願い」
「少しだけ我慢してね」
優しく撫でられた蒼月は不満そうに耳を伏せましたが、それ以上前へ出ようとはせず、その場に静かに腰を下ろします。
「ありがとう、蒼月」
リリアが微笑むと、蒼月は小さく鼻を鳴らすだけでした。
その様子を見たハイデルベルクは、わずかに目を細めます。
(なるほど。噂通り従順ではあるらしい)
もっとも、それだけで王宮の規則を曲げる理由にはなりません。
それからハイデルベルクは、世話役として同席していたルークへと視線を向け、冷ややかな口調で命じました。
「ルーク・ハインツ」
「この後の案内と滞在中の指導は貴殿に任せた」
「礼儀作法から宮廷の常識まで、一分一秒も無駄にせぬよう徹底させよ」
「……承知いたしました、閣下」
ルークも、さすがに王宮の奥深くまで足を踏み入れたことはありませんでした。
それでも、高位貴族特有の厳格さを理解した上で、主君アルベルトの名にかけて堂々と応じます。
ハイデルベルクたちが去った後、彼はリリアに向けて、小さく安堵の息を漏らしました。
一行は荘厳な回廊を通り、王城の奥深くにある応接室へと案内されます。
部屋に入ると、ルークは手帳を広げ、粛々と今後の予定を告げました。
「リリア殿、まずは休息を最優先としますが、明後日の昼に国王陛下との謁見が執り行われます。それまでの間、事務次官閣下の命に従い、王都の作法や謁見の心得について最終確認を行います」
ルークの言葉にリリアは背筋を伸ばし、小さく頷きました。
王城へ足を踏み入れてからというもの、胸の鼓動はなかなか収まりません。
事務次官という高位の貴族を前にした時は、内心では足が震えそうになるほど緊張していました。
それでも、どうにか無事に挨拶を終えることができたのです。
リリアはほっと息を吐き、ルークへ視線を向けました。
「ありがとう、ルーク」
「ちゃんと挨拶できたのはルークのおかげだよ」
ルークは手帳から顔を上げ、小さく微笑みます。
「旅の間に何度も練習しましたからね」
「その成果でしょう」
「でも、事務次官様がすごく怖かったよ……」
「それは否定できませんね」
珍しく即答したルークに、リリアは思わず苦笑しました。
「とりあえず、大きな失敗はしなかったみたいでよかった……」
「ええ」
「ただし安心するのはまだ早いですよ」
ルークはそう言うと手帳を閉じます。
「これまで学んだことを忘れず、謁見までにもう一度おさらいしておきましょう」
リリアは小さく肩を落としました。
どうやら王都に来ても、ルークの授業から逃げられる日はまだまだ遠そうです。
厳格な高位貴族と、その間を取り持つルークの苦労を目の当たりにしながら、リリアは改めて王都という場所の重圧を感じるのでした。
その頃、王宮の政務局では、ハイデルベルクが事務次官として定められた到着時の報告を行うため、宰相ハインリヒの執務室を訪れていました。
「――以上が、招聘したリリア殿と、その随伴の銀狼に関する到着時の対応報告でございます」
「銀狼につきましては、王宮の規則に従い宮殿内への立ち入りを認めず、客人用の別館にて待機させております」
報告を終えたハイデルベルクは一礼しました。
しかし、書類へ目を落としていたハインリヒの手がふと止まります。
しばしの沈黙の後、宰相はゆっくりと顔を上げました。
「……ハイデルベルク」
「貴公は今回の招聘が、いかなるものか理解しているな」
「もちろんでございます」
「国王陛下直々の王命による招聘にございます」
「ならば、その客人に対し何をしたかも理解しているはずだ」
ハイデルベルクはわずかに眉を動かしました。
「私は王宮の規則に従ったまでです」
「銀狼の功績についても報告書で承知しております」
「しかし、王宮には長年守られてきた秩序があります」
「いかに特別な存在であろうとも、規則を曲げるべきではないと判断いたしました」
その答えに、ハインリヒは小さく息を吐きました。
「規則を守ること自体を咎めるつもりはない」
「貴公が王宮の秩序を重んじていることも知っている」
「しかしな、ハイデルベルク」
「規則とは国を守るためのものであり、規則そのものを守るために国が存在しているわけではない」
静かな口調でしたが、その言葉には王国最高の文官としての重みが宿っていました。
「今回の件は通常の客人ではない」
「陛下自らが招聘を決め、騎士団を派遣し、王都まで迎え入れた人物だ」
「その随伴である銀狼についても、陛下は報告を受けておられる」
「貴公が考える以上に、今回の招聘には大きな意味があるのだ」
ハイデルベルクは黙って耳を傾けます。
「前例がないのであれば、前例を作ればよい」
「王宮とは変化を拒むためにあるのではなく、王国を支えるためにあるのだからな」
その言葉に、ハイデルベルクはようやく深く頭を下げました。
「……出過ぎた判断でございました」
「そう責めるつもりもない」
「貴公が職務に忠実であることは理解している」
「ただ今回は、もう一歩先を見るべきだった」
ハインリヒはそう言うと、机上の書類へ再び視線を落としました。
「直ちに使者を出せ」
「銀狼を正式な客人として迎え入れよ」
「客室も用意するのだ」
「はっ」
短く返答したハイデルベルクは再び一礼し、執務室を後にします。
重厚な扉が閉じられた後も、宰相の言葉は耳に残っていました。
自分は規則を守った。
その考えに今も変わりはありません。
しかし、王国最高の文官がそこまで言う以上、自らの見落としている何かがあるのかもしれません。
そんな考えが胸の片隅をよぎります。
もっとも、今ここで考え込んでいても始まりません。
まず果たすべきは宰相の命令です。
「……まずは、お迎えしなければな」
小さく呟いたハイデルベルクは歩みを速めました。
静まり返った回廊を進むその足取りは、先ほどよりもわずかに速くなっていたのでした。
一方、リリアが案内された客室は、溜息が出るほど上質な空間でした。
滑らかな手触りの調度品、壁に掛けられた鮮やかなタペストリー、厚みのある絨毯。
寝台には清潔なシーツと柔らかな布団が整えられており、旅の疲れを抱えた体には、それだけでも夢のように思えました。
あまりの心地よさに、リリアは思わず笑みをこぼしながら、柔らかな寝台へふっと身を投げ出しました。
窓の外に広がる王都の灯りは美しく、胸が高鳴るほど眩しいものでした。
それでも、その眩しさの奥で、リリアはふと母の顔を思い出します。
今頃、ローゼンの町ではいつものように灯りが落とされ、静かな夜が訪れているのでしょう。
自分は本当に、遠くまで来てしまったのだ。
そう思うと、胸の奥に小さな寂しさが滲みました。
「王都……。これからここで、どんなことが始まるんだろう」
部屋の奥に専用の湯殿が備えられていることに気づき、リリアはさらに目を丸くしました。
故郷の町では、お風呂といえば木樽に汲んだお湯を大切に使うのが当たり前でした。
しかし、目の前にあるのは白く滑らかな大理石で造られた立派な湯船です。
そこには、旅の疲れを優しく癒やすような温かな湯が、なみなみと湛えられていました。
湯気と共にふんわりと漂う高価な香油の甘い香りに、リリアはうっとりと目を細めます。
「いい香り……」
「私ひとりだけで、こんなに贅沢なお湯を使っていいのかな……」
王都の、そして王城の至れり尽くせりな環境に、リリアはただ圧倒されるばかりでした。
「……リリア殿、失礼する」
ルークの声と共に、不本意そうな面持ちのハイデルベルクに付き添われ、蒼月が部屋へと入ってきました。
「蒼月!」
リリアは駆け寄り、その大きな身体に抱きつきます。
蒼月も嬉しそうに低く喉を鳴らし、リリアの頬に大きな頭をすり寄せました。
「やっぱり、一緒がいいよね」
リリアが頬を寄せ返すと、蒼月は安心したように客室の床へと静かに腰を下ろしました。
その時、柔らかな鐘の音が廊下に響きます。
「リリア殿、夕食の時刻です」
「食堂へ案内いたします」
ルークの言葉に従い、リリアは蒼月を連れて客室を出ました。
煌びやかな燭台が並ぶ長い回廊を抜け、一行は王宮内の食堂へと向かいます。
そこには、王宮に招かれた客人のための豪華な晩餐が用意されていました。
食堂はがらんと広く、その一角に、リリアとルーク、そして足元に控える蒼月だけの席がぽつんと用意されていました。
周囲に誰の姿もなく、灯りの揺らめきと食器が触れ合う静かな音だけが響いています。
本来なら、長旅を終えたリリアには、何も気にせず温かな食事を取らせてやりたいところでした。
けれど、明後日には国王陛下との謁見が控えています。
ここでの一つひとつの振る舞いも、王宮で過ごすための大切な確認になるのです。
「リリア殿、大丈夫です。食事をしながら、作法を一つずつ確認していきましょう」
「まずはナイフを右手に、フォークを左手に」
「力を入れすぎず、引くように切ってください」
ルークはリリアの隣に控え、彼女が落ち着いて食事できるよう、穏やかな声で一つひとつ丁寧に説明を続けます。
「……こう、でしょうか?」
リリアがおそるおそるナイフを動かすと、ルークは小さく微笑み、彼女の手元を柔らかく視線で誘導しました。
「ええ、完璧です」
「次は、フォークの背に料理を乗せるように……そう、その調子です」
「ゆっくりで構いませんよ」
リリアはルークの言葉一つひとつを反芻しながら、初めての実践に集中します。
不慣れな手つきではありましたが、ルークの的確な助言のおかげで、徐々にその動作には落ち着きが宿り始めました。
足元では、食事を終えた蒼月が、リリアの足に頭を預けて静かに休息しています。
ルークという信頼できる存在が隣にいてくれる安心感と、傍らにいる蒼月の温もりに、リリアの緊張も少しずつほぐれていきました。
「ルーク、ありがとう」
「なんだか、少しだけ王宮のやり方が分かってきた気がします」
「恐縮です」
「リリア殿の覚えが早くて助かりますよ」
「明日一日、しっかりと身につけていきましょう」
ルークは控えめながらも誇らしげに頷き、リリアの食事の進行を静かに見守り続けました。
誰もいない食堂で、三人だけの穏やかな時間が流れていきます。
翌朝、リリアは朝日と共に目を覚ましました。
窓から見える王都の景色は、昨日とは違って少しだけ落ち着いて見えます。
ルークの指導は、早朝から厳格に行われました。
食堂での実践に続き、この日は客室で立ち居振る舞いの最終確認です。
「リリア殿、背筋を伸ばし、顎を引きすぎないように」
「……そうです」
「その所作なら、陛下に対しても失礼にはあたりません」
ルークは一動作ごとに細かく修正を入れつつ、リリアの緊張を解くような言葉を添えます。
リリアもまた、昨夜の夕食で覚えた感覚を頼りに、一つひとつ丁寧に所作をこなしていきました。
昼過ぎには、国王陛下や宰相、そして謁見に同席するであろう重臣たちについて、ルークから改めて説明を受けました。
「ルーク、明日の謁見には、国王陛下だけでなく、ほかの方々もいらっしゃるの?」
「はい。宰相閣下をはじめ、王国の重臣の方々も同席される予定です」
「私、きちんと答えられるかな……」
「大丈夫です。すべてを完璧に答えようとしなくて構いません。分からないことは、分からないと正直にお伝えすればよいのです」
ルークはそう言ってから、手帳を開きました。
「アレクシス国王陛下は公正な御方ですが、周囲には厳しい目を持つ重臣の方々も多くいらっしゃいます」
「特に星術院長官アステル様や、王国騎士団総司令官ローガン閣下の質問には、慎重に答える必要があります」
ルークの言葉に、リリアは真剣な眼差しで頷きます。
日が傾きかける頃には、一通りの確認を終えることができました。
教え込まれる知識の多さに少しだけ疲労はあったものの、昨日より明らかに足取りは軽やかです。
リリアは窓辺に立ち、自分の隣で静かに目を閉じている蒼月を見つめます。
「……明日は、いよいよだね」
リリアの呟きに、蒼月はゆっくりと目を開け、低く頼もしい声で一度だけ鳴きました。
リリアは、謁見当日を万全の状態で迎えるべく、早めに休息をとることにしました。
翌朝、まだ夜の気配が色濃く残る未明。
リリアは侍女たちにそっと起こされました。
「リリア様、お時間です」
「陛下への謁見には、清浄な身支度が必要でございます」
そのまま湯殿へと連れて行かれると、侍女たちは躊躇うことなくリリアの衣を解き始めました。
領主館では「自分でするから」と頑なに断っていた湯浴みですが、ここでは王宮の格式に抗うことはできません。
「……あ、あの、ごめんなさい!」
「自分でできますから」
「本当に、自分で脱ぎますので!」
リリアが顔を真っ赤にして何度も訴えますが、侍女たちはただ微笑んで首を横に振るだけです。
それと同時に、別室では、もう一人の「賓客」である蒼月の周囲に侍従たちが集まり、銀色の毛並みを整えようとしていました。
「……グルルッ!」
蒼月が低い唸り声を上げ、巨体を揺らして逃げようとします。
その様子を見たリリアは、慌てて駆け寄りました。
「蒼月、ダメよ!」
「暴れちゃだめ」
リリアは蒼月の大きな頭に手を添え、優しく諭すように耳元で囁きます。
「……この人たちも、お仕事でやってくれているの」
「私たちが陛下に失礼のないようにって……ね、お願い、協力してあげて」
リリアの切実な声に、蒼月は不本意そうにしながらも、小さく鼻を鳴らして大人しくなりました。
ようやく落ち着いた蒼月を横目に、リリアは再び湯殿へ戻ります。
侍女たちは淀みのない動きで、リリアの指先から爪の先までを磨き上げていきます。
初めて嗅ぐような芳醇な香油が肌に塗り込まれると、リリアの体は微かな花の香りに包まれていきました。
「……ううっ、すごく恥ずかしいです……」
慣れない扱いに恥じらいで身を縮めながらも、リリアはただ大人しく、彼女たちの手へ身を任せるばかりでした。
謁見のために用意された正装は、領主が贈ってくれた特別な一着でした。
雪のように純白な生地には繊細で美しい刺繍が施され、光を受けるたびに上品な輝きを放っています。
侍女たちの手によって金色の髪は丁寧に編み込まれ、最後の仕上げが終わると、リリアは鏡の前へと導かれました。
鏡の中に映っていたのは、見慣れたはずの自分でありながら、どこか別人のようにも見える少女でした。
「……これが、私……」
思わず零れた小さな呟き。
戸惑いと緊張が胸を満たしていましたが、リリアはゆっくりと背筋を伸ばします。
その頃、蒼月の手入れもようやく終わろうとしていました。
体を洗われ、銀色の毛並みは一本一本まで櫛で整えられています。
もともと美しかった毛並みはさらに艶を増し、月光を閉じ込めたかのように柔らかく輝いていました。
やがて部屋へ戻ってきた蒼月の姿を見たリリアは、思わず目を輝かせます。
「蒼月、すごい……」
「とっても綺麗」
「すごくかっこいいよ」
蒼月は少しだけ胸を張り、誇らしげに尾を揺らしました。
(まったく……)
蒼月は静かに息を吐きました。
長い時を生きてきましたが、これほど手厚く世話をされたことなど一度もありません。
雨に打たれ、風に吹かれ、雪を纏う。
それが自然であり、それで十分だったのです。
それなのに人間たちは毛並みを整え、香りをつけ、何度も櫛を通してきます。
(理解できぬ)
正直な感想でした。
けれど、次の瞬間でした。
「蒼月、すごい……」
「とっても綺麗」
「すごくかっこいいよ」
リリアの声を聞いた瞬間、蒼月はわずかに目を細めました。
(そうか)
人間は、こうして相手を喜ばせるのか。
強さでもなく。
戦いでもなく。
ただ相手に喜んでもらうためだけに。
(……不思議なものだ)
蒼月は静かに胸を張りました。
理由は分かりません。
けれど、この姿を見てリリアが笑うのなら、それも悪くありません。
謁見の時間が迫った頃、隣室で待機していたルークが迎えに訪れます。
扉が開き、姿を現したリリアを見た瞬間、ルークは一瞬だけ言葉を失いました。
しかしすぐに表情を整え、静かに一礼します。
「非常によくお似合いです、リリア殿」
「その白は、今の貴女の心そのもののようですね」
そう告げると、ルークは穏やかな微笑みを浮かべました。
「……行きましょう」
「国王陛下と王国の重鎮の方々が、謁見の間でお待ちです」
その言葉に、リリアは深く頷きます。
隣には、すっかり磨き上げられた蒼月が誇らしげに寄り添っていました。
二人は冷やりとした朝の空気を感じながら、王城の奥へと続く長い回廊を歩き始めます。
高い窓から差し込む柔らかな光が、白いドレスと銀色の毛並みを静かに照らしていました。




