第八十七話 ソフィアの神殿 二
神殿には、静けさだけが残りました。
祭壇の上の魔石は、何事もなかったように眠っています。
蒼月はしばらくその魔石を見つめていました。
それから手を伸ばし、魔石を取ると、胸元へしまいます。
そして、魔石が置かれていた石机へ手をかざしました。
次の瞬間、石に刻まれていた魔法陣が淡く光り始めました。
低い音を立てて、石机の一部がゆっくりと開いていきます。
その中には、一本の杖と、一振りの剣が納められていました。
どちらも、長い年月を越えてなお、少しも朽ちていませんでした。
白銀の杖には澄んだ石が嵌め込まれ、剣の柄には古い紋様が刻まれています。
「ソフィアが使っていたものだ」
蒼月は言いました。
アステルが息を呑みます。
ラシードも、思わず言葉を失ったように剣を見つめていました。
蒼月はまず、杖を手に取りました。
そして、それをリリアへ差し出します。
「これは、リリアに」
「私に、ですか」
リリアは驚いたように蒼月を見上げました。
蒼月は頷きました。
「おまえなら使える」
それから蒼月は、剣を手に取り、ラシードへ向き直りました。
「そして、これはおまえにだ」
「俺に?」
ラシードは眉を寄せました。
蒼月は、ラシードをまっすぐ見ました。
「これで分かった。おまえはソフィアの遠縁だな」
ラシードの表情が、変わります。
「遠縁……?」
「血が薄くとも、つながりは残っている」
蒼月は剣を差し出しました。
「おまえには、これを持つ資格がある」
ラシードは、しばらくその剣を見つめていました。
剣を受け取った瞬間、柄に刻まれた紋様が、淡く光りました。
「反応した……」
アステルの声が、掠れていました。
それから、アステルはリリアと蒼月を見ました。
その目には、研究者としての驚きと、抑えきれない疑問が浮かんでいます。
「蒼月様」
「なんだ」
「リリア殿は、ソフィア様の生まれ変わりなのですか」
その問いに、神殿の空気が一瞬だけ止まりました。
蒼月は、すぐに眉を寄せました。
そして、当然のようにリリアを抱き寄せます。
「こんなかわいいリリアが、あやつの生まれ変わりなわけがない」
「蒼月」
リリアが困ったように声を上げましたが、蒼月は離しませんでした。
「この映像は、丁寧に美しく作ってあるが、本来はもっと違う」
「それは、ソフィア様のことですか」
アステルが恐る恐る尋ねます。
蒼月は少しだけ目を細めました。
「あやつは、もっと強引で、よく怒り、よく笑い、すぐ剣を抜く女だった」
ラシードが思わず剣を見下ろしました。
「剣豪って、そういう意味かよ」
そう言うなり、ラシードは蒼月の腕の中にいるリリアへ手を伸ばしました。
けれど、蒼月は当然のように身を引き、リリアを抱き寄せる腕に力を込めます。
「まだ話は終わっていない」
そう言うと、蒼月は改めてアステルの問いへ向き直りました。
「それに、たとえ生まれ変わりだとしても」
その声は、静かでした。
けれど、揺らぎはありませんでした。
「リリアはリリアだ」
リリアは、蒼月を見上げました。
「私は、確かに過去はソフィアを愛していた。今も気持ちは変わらない。だが、ソフィアの代わりにリリアを愛しているのではない」
神殿の中に、蒼月の声が落ちました。
リリアは一瞬だけ目を見開き、それから胸元に杖を抱くようにして、小さく息を吸いました。
蒼月は、リリアの後ろへ回りました。
リリアが握っている杖の上から、自分の手を重ねます。
「リリア、魔力を流してごらん」
リリアは、小さく頷きました。
「そっとだぞ」
蒼月は言いました。
「でなければ、周りが消し飛ぶ」
その言葉に、ラシードが眉を動かしました。
アステルも、思わず息を呑みます。
リリアは、蒼月の手の温もりを感じながら、ゆっくりと自分の魔力を杖へ流しました。
その瞬間、杖自体が反応しました。
白銀の杖に嵌め込まれた澄んだ石が、眩い光を放ちます。
リリアは息を呑みました。
杖から自分の手を伝って、膨大な魔力が流れ込んでくるのが分かったのです。
けれど、それは押し潰すような力ではありませんでした。
眠っていた水脈が目を覚ますように、深く、澄んだ力がリリアの中へ流れ込んできます。
リリアと蒼月を中心に、神殿の中で風が巻き上がりました。
床に積もっていた埃が光の粒のように舞い、古い柱の間を白い風が抜けていきます。
やがて光はゆっくりと収まりました。
風も静まり、杖は何事もなかったようにリリアの手の中で落ち着いています。
蒼月は、重ねていた手を離しました。
「持ち主と認められたようだな」
それから、リリアを見て、目を細めます。
「リリア。よかったな」
「はい」
リリアは、まだ少し驚いたように杖を見つめながら、小さく頷きました。
ラシードは、手の中の剣を見下ろしました。
柄に刻まれた紋様は、まだ淡い光を残しています。
「なあ」
ラシードが、蒼月へ視線を向けました。
「俺も、鞘から抜いていいか?」
蒼月は、あからさまに嫌そうな顔をしました。
「ラシードの手を握るのは嫌だ」
「おまっ」
「教えてはやる」
蒼月は不満そうにしながらも、剣へ視線を向けました。
「呑まれるなよ。握っている柄に精神を集中させろ。ゆっくり鞘から抜け」
ラシードは小さく息を吐き、剣の柄を握り直しました。
そのまま、言われた通りに意識を集中させます。
ゆっくりと、刃が鞘から引き抜かれていきました。
その瞬間、剣からあふれ出る魔力が、風のように吹き上がりました。
まだ半分ほどしか抜いていないのに、神殿の空気が大きく震えます。
ラシードの表情が歪みました。
剣の奥へ、意識ごと引きずり込まれそうになります。
「ほら、もっと精神を剣の中へ集中しろ」
「やってる!」
ラシードが歯を食いしばって返しました。
蒼月は、少しだけ目を細めます。
「駄目か?」
「駄目かじゃねぇ!」
そう叫ぶように言うと、ラシードは一気に剣を鞘から抜き放ちました。
まばゆい光が弾けました。
ラシードを中心に、凄まじい風が巻き起こります。
白い神殿の床に積もっていた埃が舞い上がり、古い柱の間を光が走りました。
やがて、風は収まりました。
光も消え、剣はラシードの手の中で輝いています。
蒼月は、それを見て頷きました。
「認められたようだな」
ラシードは剣を握ったまま、深く息を吐きました。
「……先に言えよ。こんなに持っていかれそうになるって」
「言っただろう。呑まれるなと」
「説明が足りねぇんだよ」
そこでラシードは、リリアだけが蒼月の結界に包まれていることに気づきました。
「おまえ、俺のこと全然信用してねぇじゃねぇか」
ラシードの文句を聞き流すように、蒼月は祭壇へ視線を戻しました。
「さて、ここにはもう用はない。帰ろう」
「他には、調べなくてもよろしいのですか」
アステルが名残惜しそうに神殿の奥を見ました。
「情報はすべて、この魔石にある」
蒼月は胸元にしまった魔石へ軽く手を添えました。
「ここに残された術式のことも、戻ってから確かめればいい」
「昔の魔法の技術は、すごかったのですね」
アステルが感嘆したように呟きました。
「そうだな」
蒼月は淡々と答えました。
「衰退しすぎだ」
あまりに容赦のない一言に、アステルは少しだけ言葉を失いました。
ラシードは横で小さく笑い、リリアは困ったように蒼月を見上げました。




