第八十六話 ソフィアの神殿 一
一行は、ソフィアの神殿の手前で足を止めていました。
本来なら、古い石段の先に白い神殿が見えるはずの場所です。
けれど今、その一帯は黒い瘴気に覆われていました。
木々の間にも、石畳の上にも、重く濁った靄が這うように漂っています。
神殿そのものは結界で守られているようでしたが、そこへ至る道は、普通の者なら踏み込むことさえできない状態でした。
「以前は、こんな状態ではありませんでした」
アステルが、瘴気の向こうを見つめながら低く呟きました。
その顔には、驚きと警戒が滲んでいます。
蒼月は目を細めました。
神殿の周囲をゆっくりと探ります。
「どこかに黒い結晶があるな」
その言葉に、リリアの表情が引き締まりました。
「黒い結晶が……」
「ああ。瘴気を吐き出している。だが、巧みに隠されていて場所までは分からん」
蒼月の声は冷静でした。
けれど、その奥にわずかな苛立ちが混じっているのを、リリアは感じ取りました。
「浄化を」
リリアが一歩前に出ようとすると、蒼月がすぐに言いました。
「駄目だ」
短い、けれど強い声でした。
リリアは足を止めます。
蒼月はリリアを見ました。
その目は、叱るというより、決して無理をさせないと決めている目でした。
「ここで広く浄化すれば、おまえの負担が大きすぎる」
「でも」
「結界を張って進む。ゆっくりでいい」
蒼月はそう言うと、片手を軽く上げました。
淡い光が一行を包み込むように広がり、薄い膜のような結界が生まれます。
瘴気が、その外側で押し返されるように揺らぎました。
「外へ出るなよ」
蒼月の声に、リリアは小さく頷きました。
「はい」
ラシードも周囲を見ながら、リリアのすぐそばに立ちました。
アステルは魔力の流れを確認するように杖を握り、ルークと護衛たちは後方を警戒します。
一行は、ゆっくりと神殿へ向かいました。
瘴気に沈んだ道を進むたび、結界の表面が淡く揺れます。
黒い靄は意思を持つようにまとわりつき、光の膜を削ろうとしているようでした。
その時、瘴気の奥から低い唸り声が聞こえました。
次の瞬間、黒く歪んだ獣のような魔物が、結界へ向かって飛びかかってきます。
「リリア」
ラシードがリリアを庇うように前へ出ました。
けれど、それより早く蒼月が動きました。
銀の影が、空気を裂くように走ります。
蒼月が片手を振ると、魔物は声を上げる間もなく淡い光に呑まれ、霧のように消えました。
辺りには、焦げたような瘴気の残り香だけが漂っています。
「……一撃かよ」
ラシードが低く呟きました。
「当然だ」
蒼月は振り返りもせずに答えました。
「この程度に手間取っていられるか」
やがて一行は、神殿を守る結界の内側へ足を踏み入れました。
空気が変わります。
外に満ちていた重苦しい瘴気が、薄い膜の向こうへ置き去りにされたように遠ざかりました。
蒼月は、一行を包んでいた結界を解きました。
「ここは、魔石による結界がまだ働いているな」
アステルが、神殿の奥を見つめます。
「魔石による結界……」
ラシードが眉を上げました。
「サライナの街と一緒なのか」
「そうだな」
蒼月は神殿へ続く石段へ視線を向けました。
「規模は違うが、理屈は近い。古い魔石に祈りと術式を結び、場そのものを守らせている」
「千年前のものが、まだ生きているのですね」
アステルの声には、研究者としての驚きが滲んでいました。
「弱ってはいるがな」
蒼月は淡々と言いました。
「それでも、ここを守ろうとしている」
そこでようやく、長い年月に洗われた白い神殿の姿がはっきりと見えました。
古い石段の先に、蔦に覆われた壁と、崩れかけた柱が佇んでいます。
千年という時の重みをまといながら、それでも神殿は、何かを守るようにそこにありました。
「聖女ソフィア様を祀る神殿です」
アステルが、地図を手にしたまま言いました。
「王家の記録にも、詳しい由来は残されていません。ただ、古くから大切に守られてきた場所だと聞いています」
一行は石段を登り、神殿の中へ足を踏み入れました。
神殿の内部は、外観よりもずっと静かでした。
差し込む光が、床に積もった埃を照らし出しています。
白い石の柱には細かな傷が残り、かつて多くの人がこの場所へ祈りに来ていたことを思わせました。
奥には、古い石の祭壇がありました。
その中央に、手のひらほどの魔石が安置されています。
澄んだ光を内側に閉じ込めたような石でした。
アステルが、祭壇の魔石を見つめながら言いました。
「ソフィア様ご自身の魔力と祈りが込められた、記録の石だと伝えられています」
アステルは祭壇へ近づきすぎないように足を止めました。
蒼月は、祭壇を見つめました。
「これで、間違いない」
その声は、どこか遠くを見ているようでした。
「これは、私にしか起動できないもののはずだ」
リリアは蒼月の横顔を見上げました。
その表情には、懐かしさとも、恐れともつかない色が浮かんでいました。
蒼月は、祭壇の前で一度、深く息を吸いました。
それから、手を伸ばし、魔石へ指先を触れさせます。
その瞬間、魔石が淡く光り始めました。
光は、蒼月の指先から広がり、神殿全体を優しく満たしていきます。
リリアは思わず目を細めました。
アステルも、ラシードも、その光に息を呑んでいます。
やがて、光が収まったその中心に、一人の長身の女性の姿が浮かび上がりました。
身長は百八十センチほどでしょうか。
金の髪。
青い瞳。
凛とした佇まいの中に、どこか気の強さを感じさせる顔立ちでした。
けれど、その姿はあまりにも美しく、静かな光をまとっているように見えました。
「ソフィア……」
蒼月が、掠れた声でその名を呼びました。
その声を聞いた瞬間、リリアの胸がきゅっと締めつけられました。
そこには、千年の時間を越えてようやく届いた呼びかけのような響きがありました。
蒼月からは「あやつ」と呼ばれ、剣豪だと聞いていた人です。
もっと荒々しく、強い印象の女性を想像していました。
けれど目の前に浮かぶソフィアは、美しいという言葉だけでは足りないほど、まるで女神を思わせる姿をしていました。
ラシードが小さく呟きました。
「……豪奢だな」
その言葉に、リリアは思わず下を向き、胸元を押さえました。
金の髪も、青い瞳も、美しい顔立ちも、もちろん目を奪われるほどでした。
けれどそれ以上に、すらりと細い自分とは違う、女性らしく豊かな身体つきが目に入ってしまったのです。
ラシードは、こういう人が好きなのでしょうか。
少しだけ、羨ましいと思ってしまいました。
映像の中のソフィアは、まっすぐに蒼月を見つめていました。
まるで、そこに立つのが誰なのか、初めから分かっていたかのように。
「アルヴァン」
その声が、神殿に響きました。
蒼月の指先が、震えました。
「もし、あなたがこの場所へ辿り着き、これを見ているのなら」
ソフィアは、穏やかに微笑みました。
「呪いが解けたのだと信じます」
蒼月は、その姿を見つめています。
ソフィアは少しだけ目を伏せました。
「まず、謝らせて」
その声には、深い後悔が滲んでいました。
「私が、世界を救ってほしいと願ったせいで、あなたを呪いに巻き込んでしまった。神であったあなたに、人の世の苦しみを、全部背負わせてしまった」
蒼月は、その言葉を、一つひとつ受け止めるように立ち尽くしています。
「それでも、あの時の私には、あなたに頼るしかなかった。誰も、私の言葉を信じてくれなかったから」
ソフィアは、微笑みました。
「あなたが、共に歩いてくれたから」
その声は、少しだけ震えていました。
「世界は、救われたのだと思う」
神殿の中に、静けさが落ちました。
蒼月のその横顔には、千年前に止まった時間が、ようやく動き出したような表情でした。
ソフィアは、ゆっくりと顔を上げました。
「あなたが呪われた後のことを、ここに残します」
その表情が、少しだけ曇ります。
「アルヴァン。あなたが私を庇ってくれたおかげで、私たちは無事に魔王を封印することができたわ」
蒼月は、目を伏せました。
ソフィアの声は、そこで少しだけ重くなりました。
「でも、あなたは目を覚まさなかった」
神殿の空気が、さらに深く沈んだように感じられました。
「呪いによって眠り続けるあなたを、どうにかして救いたかった。私は、ヴァイドと共に、あなたの呪いを解く方法を探したわ」
リリアは、その名に反応しました。
ヴァイド。
それが、かつてアルヴァンの部下だった眷属なのだと、すぐに分かりました。
「でも、いくら探しても見つからなかった」
ソフィアは、悔しそうに眉を寄せました。
「魔王の最後の呪いは、強力すぎた。この世界に残された魔法では、あなたの呪いを完全に解くことはできなかったの」
蒼月は、ただ黙ってソフィアだけを見ていました。
「だから私は、せめて呪いを弱める方法を探したわ」
ソフィアは少しだけ遠くを見るように目を細めます。
「古い伝承に、世界の中心にある世界樹には、呪いを弱める力があると記されていたの」
その声に、ほんの少しだけ懐かしさが混じりました。
「ヴァイドと私とで、あなたを世界樹まで連れて行ったわ」
そこでソフィアは、ふっと苦笑しました。
「愚痴になるけど、あなた、本当に重すぎよ」
神殿の中に、わずかな沈黙が落ちました。
それから、ソフィアは小さく笑いました。
「ふふ」
その笑みは、記録の映像であるはずなのに、あまりにも生きているようでした。
千年前、蒼月の傍でそう笑っていたのだろうと、リリアは思いました。
蒼月の口元が、震えていました。
「そうして、世界樹の下にあなたの寝床を作ったの」
ソフィアは続けました。
「そこに結界を張って、呪いが弱まるか、いつか解除される日を待つことにしたわ」
その声が、少しずつ寂しさを帯びていきます。
「でも、私は途中で悟ったの」
ソフィアは、蒼月を見つめました。
「きっと、それは私が生きているうちには叶わないのだと」
リリアは胸の奥が詰まるのを感じました。
ソフィアは、蒼月を救いたかったのです。
けれど、救いきれないまま、自分の時間だけが進んでいった。
「だから、王都の地下に神殿を作って、呪い解除の陣を置いてもらえるようにお願いしたわ」
アステルが息を呑みました。
地下神殿。
リリアたちが蒼月の呪いを辿った、あの場所です。
「この記録を、そこへつながる祈りとして残したかった。いつか、あなたが目覚めた時に、何も知らないまま残されないように」
ソフィアは、少しだけ照れたように笑いました。
「そうそう。私、この神殿を作る時の設計士と結婚したの」
あまりに唐突な言葉に、ラシードが小さく目を瞬かせました。
リリアも思わず顔を上げます。
「子供も生まれたわ」
ソフィアの表情は、とても穏やかでした。
「あなたを置いて幸せになったみたいで、少しだけ後ろめたかった。でもね、アルヴァン」
ソフィアは、まっすぐに蒼月を見ました。
「私は、幸せな人生を送れたわ」
蒼月の喉が、かすかに動きました。
「ヴァイドは、神殿づくりが終わると、気づいた時にはいなくなっていたの」
ソフィアの瞳に、ほんの少し寂しさが浮かびます。
「あの人なりに、何か思うところがあったのかもしれない。あるいは、あなたの眠る場所を守り続けるために、どこかへ行ったのかもしれない」
ソフィアは、そこで一度言葉を切りました。
「私はね、アルヴァン」
その声は、とても静かでした。
「あなたが世界のためだけに存在しているなんて、思ったことは一度もない」
蒼月の瞳が揺れました。
「神であっても、傷つき、悲しみ、怒り、誰かを大切に思う心があるのなら、それはあなた自身のものよ」
ソフィアは、祈るように両手を重ねました。
「だから、どうか自分を責め続けないで」
蒼月は、かすかに息を吸いました。
「ソフィア……」
「あなたが共に歩いてくれたから、私は孤独ではなかった」
ソフィアの微笑みは、どこまでも優しかった。
「誰も信じてくれなかった時、あなたは最後には私の言葉を確かめてくれた。私の隣を歩いてくれた。それだけで、私は何度も救われたの」
リリアは、蒼月を見ました。
蒼月の表情は、今にも崩れてしまいそうなほど静かでした。
「私は幸せな人生を送れたわ。あなたも、幸せになってね」
そう言うと、ソフィアの映像は消えました。




