第八十五話 静かな約束
出立の準備が整うまでのあいだ、離宮には少しだけ穏やかな時間が流れていました。
荷の確認や馬車の手配、護衛の配置を決める声が遠くで交わされる中、蒼月はふと窓の外へ視線を向けました。
人の姿になった蒼月の横顔に、淡い昼の光がかかっています。
銀の髪が肩のあたりで揺れ、その蒼い瞳は、離宮の門の向こうにある街並みを見つめていました。
「街を見たい」
唐突に落とされた言葉に、リリアは瞬きをしました。
蒼月は視線を外へ向けたまま、続けます。
「せっかく人の姿になったのだ」
それから、ゆっくりとリリアの方を向きました。
「リリア、街を楽しもう。二人で」
その言葉に、リリアの表情が少しだけ明るくなりました。
思えば、蒼月はずっとリリアの傍にいました。
森の中でも、王都でも、戦場でも、離宮でも。
けれど、街をゆっくり歩いたことは一度もありません。
人々の声が満ちる通りを、店先に並ぶ品を、焼き菓子の匂いや布地の色を、蒼月はいつも狼の姿で、リリアの隣から見守っていただけでした。
「そうですね」
リリアはやわらかく微笑みました。
「蒼月は、街をゆっくり見たことがありませんものね。お買い物のついでに、行きましょうか」
その瞬間、すぐそばから低い声が落ちました。
「おい、聞こえてるぞ」
ラシードです。
腕を組み、半分呆れたような目で蒼月を見ています。
「俺も行くに決まってるだろ」
蒼月はすぐに眉を寄せました。
「おまえは来なくていい。私はリリアと出かけたいのだ。二人で」
「二人きりにするわけないだろ」
ラシードは即座に言いました。
そのやり取りを聞いていたナーディルとルークも、さすがに困ったように顔を見合わせました。
「リリア様が街へお出になるのでしたら、護衛なしというわけにはまいりません」
ナーディルが穏やかに言いました。
「私も、護衛は必要だと思います」
ルークも小さく頷きます。
蒼月は少し不満そうに目を細めました。
「では、仕方ないな」
そう言いながらも、その声にはどこか納得しきれない響きが残っていました。
ナーディルは、リリア、蒼月、ラシードの三人をちらりと見ました。
それから、何かを悟ったように、すっとルークの方へ視線を向けます。
「では、三人の付き添いは、ルーク様にお願いしてもよろしいでしょうか」
「え……?」
ルークは思わず声を漏らしました。
「ナーディル様はいかないのですか?」
ナーディルは、もう一度三人を見ました。
リリアは淡く微笑み、蒼月は当然のようにリリアの隣に立ち、ラシードは二人の間に入る隙をうかがうように腕を組んでいます。
その光景を見たナーディルは、深く穏やかに頷きました。
「いえいえ。ここはどうぞ、ルーク様にお任せいたします」
「えぇ……」
ルークの声は、誰にも拾われないまま空気に溶けました。
そのまま出かけようとした蒼月を見て、ナーディルが目を瞬かせました。
蒼月は、神の宮から戻った時のままの姿です。
人の姿にはなっていても、その衣はあまりにも清らかで、街服とはほど遠いものでした。
「蒼月様。そのお姿では、少々目立ちすぎます。お着替えを」
蒼月は、眉を寄せました。
「……この服を脱いだら、街がなくなるぞ」
「え」
ルークが固まりました。
ナーディルも、一瞬だけ言葉を失います。
蒼月は小さく息を吐きました。
「仕方ない」
そう言うと、蒼月は片手をふっと振りました。
淡い光が衣の表面を撫でるように流れ、白く神聖な装いは、落ち着いた街服へと変わっていきました。
「髪は、セシリア。結ってくれ」
蒼月は当然のようにそう言いました。
そうして、ほどなくして一行は街へ出ました。
リリア、蒼月、ラシード、ルーク。
そして少し離れて、護衛が二人。
街の入口に着いた瞬間、ルークはようやく、ナーディルが自分に付き添いを譲った意味を理解しました。
この三人は、目立ちすぎるのです。
身分を隠すために街服を着ているはずなのに、まるで隠れていませんでした。
金の髪を持つ高身長のラシード。
銀の髪を持つ、同じく高身長の蒼月。
その二人に挟まれるようにして歩く美しいリリア。
目立たないわけがありません。
しかも蒼月は、街へ出た瞬間から人々の視線を集めていました。
ただそこに立っているだけなのに、どこか人の姿を超えた気配が滲んでしまうのです。
通りを歩いていた者たちが、ひとり、またひとりと足を止めました。
やがて、その中の誰かが、ほとんど無意識に手を組みかけます。
それにつられるようにして、人が少しずつ集まりはじめました。
「すごいのですね。蒼月」
リリアは、どこかのんきにそう言いました。
護衛たちは、集まりかける人々にすぐさま警戒の視線を向けます。
ルークは慌てて周囲を見回しました。
「おい、これなんとかしろよ!」
ラシードが低く声を投げます。
蒼月は、小さくため息をつきました。
「信仰はいらん」
静かな一言でした。
けれど、その声は不思議なほどよく通りました。
はっとしたように、人々が我に返ります。
慌てて視線をそらす者。
何事もなかったように歩き出そうとする者。
けれど完全には離れがたいのか、遠巻きに見つめる者も少なくありません。
そして、通りのあちこちから、男女を問わず、抑えきれないような吐息が漏れていました。
ルークは小さく息を吐きました。
ナーディル様。
これは、恨みます……。
蒼月は、物珍しそうに通りの左右へ視線を向けていました。
色とりどりの布を並べた店。
焼き菓子の甘い香りを漂わせる屋台。
小さな硝子細工や髪飾りを置いた露店。
狼の姿で見ていた時とは、世界の見え方が少し違うのかもしれません。
「人の営みとは、ずいぶん細かいものだな」
蒼月が真顔でそう言いました。
「細かい、ですか?」
リリアが首を傾げます。
「ああ。布を切り、石を磨き、菓子を焼き、花を束ねる。命を保つだけなら、そこまで必要ないものばかりだ」
その言葉に、リリアは少しだけ微笑みました。
「でも、そういうものがあるから、楽しいのだと思います」
蒼月は、リリアを見ました。
そして、ふと近くの露店へ視線を向けます。
そこには、淡い翡翠色の小さな髪飾りが並んでいました。
リリアの視線が、ほんの一瞬だけそこへ向いたのを、蒼月は見逃しませんでした。
蒼月は何のためらいもなく、その髪飾りへ手を伸ばしました。
「これか」
「蒼月」
リリアが慌てて声をかけます。
「お店のものは、勝手に持っていってはいけません。お金を払って、買うものです」
蒼月は、手に取った髪飾りを見下ろしました。
それから、リリアを見ます。
「金」
「はい」
「買う」
「はい」
蒼月は少し考えました。
そして、当然のようにラシードへ顔を向けます。
「ラシード、払え」
「なんで俺なんだよ」
ラシードが即座に言いました。
「リリアが必要だと言った」
「言ってねぇよ。見ただけだ」
「だが、リリアの目が止まった」
「だからって俺に払わせるな」
「おまえは人の国では偉いのだろう」
「俺を財布扱いするな」
ラシードが深く息を吐きます。
ルークは慌てて露店の主人に頭を下げました。
「す、すみません。こちらを一つ、いただけますか」
「ルーク」
ラシードが半眼でルークを見ました。
「おまえ、今払おうとしただろ」
「いえ、その、店主が困っていたので……」
「困ってんのは俺もだ」
リリアは困ったように笑いながら、蒼月の手元を見ました。
「蒼月、私が自分で払います」
「なぜだ」
蒼月は不思議そうに言いました。
「おまえに似合うものを、なぜおまえ自身が払う」
その言葉に、リリアは一瞬だけ黙りました。
蒼月は本気でそう思っているのです。
贈り物というより、リリアに似合うものはリリアの傍にあるべきだと、当然のように考えているのでしょう。
ラシードはその横顔を見て、小さく舌打ちしました。
「……分かったよ」
「ラシード?」
「俺が払う」
ラシードは少し乱暴に懐から金を出しました。
「ただし、次から勝手に取るな。店の物には値段がある。欲しいなら、まず言え」
蒼月は髪飾りを手にしたまま、頷きました。
「分かった」
そして、少し間を置いて言います。
「では次も、ラシードに言う」
「俺に言うな」
リリアはとうとう小さく笑ってしまいました。
その笑い声につられるように、露店の主人もほっとした顔をします。
蒼月は買い取られた髪飾りを見つめ、それからリリアへ差し出しました。
「リリア」
「はい」
「これは、おまえのものだ」
リリアは両手でそれを受け取りました。
淡い翡翠色の飾りが、昼の光を受けてやわらかく揺れます。
「ありがとうございます。蒼月。ラシードも」
「俺は巻き込まれただけだ」
ラシードはそう言いながらも、リリアが嬉しそうに髪飾りを見つめているのを見ると、それ以上は文句を言いませんでした。
ただ、ふと気になったように蒼月へ視線を向けます。
「おまえ、千年前はどうしてたんだよ」
蒼月は、当然のことを聞かれたという顔で答えました。
「千年前は、皆が私に捧げてくれていた」
「それは買い物じゃねぇ」
ラシードは深く息を吐きました。
「いいか。今は違う。店の物は、金を払って買うんだ」
「面倒だな」
「面倒でも覚えろ」
蒼月は少しだけ不満そうにしましたが、リリアが髪飾りを大切そうに見ているのを見て、目を細めました。
「だが、リリアが喜ぶなら、悪くはない」
その一言に、ラシードはまた何か言いかけて、やめました。
結局、巻き込まれたと言いながら、リリアが笑っているなら、それでいいと思ってしまったのです。
ルークはその後ろで、思いました。
やはりナーディル様は、この未来を見越していたのではないでしょうか。
夜になると、蒼月はアステルに呼び止められました。
街から戻り、ようやくリリアの傍で落ち着けると思っていたところでした。
「蒼月様」
アステルの目が、いつになく輝いています。
「魔石について、聞きたいことがあります」
蒼月は、その一言で嫌そうな顔をしました。
けれど、アステルはまったく気にしていません。
「それ以外にも、聞きたいことがたくさんあります」
そして、ぐっと身を乗り出します。
「ぜひ、ぜひっ」
蒼月は即座にリリアの後ろへ一歩下がりました。
「いやだ。リリアと離れたくない」
そのあまりにも素直な拒絶に、リリアは困ったように微笑みました。
「蒼月。アステル様にも、たくさんお世話になったもの。教えてあげて」
その瞬間、蒼月はぴたりと動きを止めました。
ソウルリンクが、これほど邪魔になるとは思ってもいませんでした。
リリアの純粋な願いが、胸の奥へそのまま伝わってきます。
断りたい。
どうしても断りたい。
けれど、リリアがそう望んでいることだけは、痛いほど分かってしまいました。
蒼月は、ひどく嫌そうな顔をしました。
「……少しだけだ」
「ありがとうございます、蒼月様」
アステルは満面の笑みで言いました。
その笑みが、蒼月には少しもありがたくありません。
「本当に、少しだけだぞ」
「はい。まず魔石の性質についてですが」
「もう始めるのか」
蒼月の低い声は、夜の廊下にむなしく落ちました。
そうして蒼月は、リリアの方を何度も振り返りながら、アステルに連れて行かれました。
蒼月とアステルの足音が遠ざかっていくと、部屋にはふっと静けさが戻りました。
先ほどまでにぎやかだった空気が、夜の光の中で少しずつ落ち着いていきます。
ラシードはしばらく扉の方を見ていました。
それから、ゆっくりとリリアへ視線を戻します。
「リリア」
呼ばれて、リリアは顔を上げました。
ラシードは、いつものように軽く笑おうとしていました。
けれど、その表情はどこか苦しそうでした。
「動けるようになって、よかった」
低く、やわらかな声でした。
「これは、蒼月に感謝しかないな」
リリアは、その言葉に小さく頷きました。
けれど、ラシードの顔に浮かんだ苦しさにも気づいてしまいます。
「ラシード」
名を呼ぶと、ラシードは一度だけ目を伏せました。
そして、何かを振り払うように、息を吐きます。
「これが終わったら」
ラシードは、少しだけ声を落としました。
「小館に行かないか。ほら、戦争が終わったら行こうと話していた」
リリアは瞬きをしました。
「小館に、ですか?」
「ああ」
ラシードは頷きました。
その瞳に、遠い景色を思い出すような色が浮かびます。
「ちょうど、秋が見頃だと聞いた」
それから、少し照れたように目をそらしました。
「俺は、砂漠にいたからな。四季を知らない」
リリアはラシードを見つめました。
春の夜。
湖畔の小館。
水辺に舞った蛍の光。
あの穏やかな時間が、胸の奥によみがえります。
「この間の春は、とても綺麗だった」
ラシードは、ゆっくりと言いました。
「初めて見る春を、リリアと一緒に過ごせた」
その声には、いつもの軽さはありませんでした。
大切なものを、ひとつずつ手のひらに乗せるような声でした。
「だから」
ラシードはリリアを見ます。
「秋も、リリアと一緒に見てみたい」
リリアの胸が、少しだけ温かくなりました。
そして同時に、少しだけ切なくなりました。
それでも、ラシードが未来の話をしてくれたことが嬉しかったのです。
戦いの先に、まだ一緒に見たい景色があると言ってくれたことが。
リリアは、やわらかく微笑みました。
「はい」
その返事に、ラシードの表情がほどけます。
「私も、ラシードと一緒に見たいです。秋の湖畔を」
ラシードは何かを言いかけて、やめました。
代わりに、いつものように少しだけ口元を上げます。
「約束だな」
「はい。約束です」
その返事を聞いたラシードは、リリアを抱き寄せました。
強くはありません。
けれど、離したくないものを確かめるような、抱擁でした。
リリアは驚いたように瞬きをしましたが、すぐにその腕の中で小さく息を吐きました。
夜の静けさの中で交わしたその約束は、春に見た蛍の光のように、儚く、けれど確かに二人の間に灯りました。




