第八十四話 ソフィアの痕跡
会議室では、誰一人として口をきくことができませんでした。
そんなことが、千年前にあったのか。
古い伝説の中に、聖女と、狼の姿にも人の姿にもなる戦神の話は残っています。
けれど、それが目の前にいる蒼月の過去と繋がっているなど、すぐに受け止められる者はいませんでした。
蒼月は、続けました。
「私が、世界中に黒い結晶として呪いをばらまいてしまった。すまぬ」
その言葉に、リリアがすぐに顔を上げました。
「蒼月のせいではないわ」
迷いのない声でした。
「そうだ」
ラシードも、頷きました。
そのあまりにいつも通りの声に、張り詰めていた空気が、揺らぎました。
蒼月は二人を見ました。
「おそらく、世界樹まで私を運んだものも、呪い解除の陣を作ったものも、ソフィアが残した術式だろう」
「そんな未来のことまで……」
誰かが、呆然とつぶやきました。
蒼月は、目を伏せます。
「あやつは、そういうやつだ」
短い言葉でした。
けれど、その声には、千年を越えても消えない確かな親しみが滲んでいました。
「長い年月で、だいぶ風化してしまったようだがな。もっとも壊されにくく、保存される場所を選んだのだろう。だから、王宮の真下だったのだと思う」
アステルが、慎重に口を開きました。
「では、転送機もですか」
蒼月は、首を横に振りました。
「いや、あれは違うな。千年前は、今よりもずっと魔法が活発だった。魔法装置や魔石も、当たり前のように使われていた」
その言葉に、アステルの表情が強張りました。
蒼月は、どこか遠いものを見るように目を細めます。
「今は、忘れ去られてしまったのだろう」
会議室に、再び沈黙が落ちました。
けれど今度の沈黙は、ただ言葉を失ったものではありませんでした。
誰もが、千年前から続いていたものの重さを、ようやく現実として受け止めようとしていました。
蒼月は、室内を見渡しました。
「何かほかにあるか」
その問いに、しばらく誰も答えられませんでした。
やがて、ルークが遠慮がちに口を開きます。
「ソフィア様は、剣豪でもあったのですか」
蒼月は、目を細めました。
「ああ。相当の使い手だ。伝説に残っているような、あんな可憐なだけの聖女ではないぞ」
思い出すような声でした。
呆れたようでいて、どこか誇らしげでもありました。
「もしかすると、それもあやつが手を回したのかもしれないな」
「手を回した、とは」
「私のその後のことまで、これだけ考えていたのだ。自分の痕跡を、あえて伝説から薄めるくらいはしたかもしれない」
その言葉に、会議室の空気が揺れました。
ソフィアという名が、伝説の中の聖女ではなく、一人の人間として重みを持ちはじめていました。
「ソフィア様のことで、ひとつよろしいでしょうか」
アステルが、慎重に口を開きました。
「ソフィア様は、なぜそれほどまでにお強かったのでしょうか」
別の者も、続けるように問いかけました。
「そもそも、普通にあなたの宮へたどり着けるものなのですか」
蒼月は、すぐに首を横に振りました。
「いや。普通ではありえん」
低い声が、会議室に落ちました。
「私が大地を司る者で、地上に近い存在だったとはいえ、人が私の宮までたどり着くことは、本来なら不可能に近い」
「では、ソフィア様は……」
「強力な天零と、二つの加護を持っていた」
「天零、加護……?」
アステルが、その言葉を繰り返しました。
蒼月は、少し考えるように目を伏せました。
「天零は、理の範囲を越えて生まれる者のことだ。人の言葉で言うなら、麒麟児や天才と言った方が近いのかもしれん」
それでも足りない、と言うように、蒼月は息を吐きました。
「加護は、すべての命に与えられる理からの恵みだ。運、と言えば分かりやすいか」
会議室の誰もが、黙って蒼月の言葉を聞いていました。
「ソフィアは、もともと強力な天零を持って生まれようとしていた。おそらく、双子だったのだろう」
その言葉に、アステルの目が見開かれました。
「双子……」
「ああ。本来なら双子として生まれてくるはずだった、もう一人の片割れを、母の腹の中で吸収し、一人の人間として生まれた。だから魂の強さは二人分。それだけの器を持って生まれたからこそ、強力な天零を発現させ、加護も二つ持つことになった。ただ、それをソフィアに言うことはできなかった」
蒼月はそこで、アステルへ視線を向けました。
アステルの目には、すでに強い興味の光が宿っていました。
けれど、それを遮るように、蒼月は先に口を開きました。
「ソフィアの痕跡が残るものは、ほかにないか」
アステルは、少し考え込んでから答えました。
「聖女の神殿が、別の場所にあります」
蒼月の瞳が、鋭くなりました。
「そこだな。魔王を封印したあとのことは、そこにあるかもしれない」
「ですが、その神殿は私どもであらかた調べています。そのような痕跡は、見つかっておりません」
「まあ、行けば分かる」
蒼月は、迷いなくそう言いました。
その声には、千年前の彼女を知る者だけが持つ、確かな確信がありました。
アレクシス王が、口を開きました。
「では、神殿まで軍を向かわせよう」
けれど、蒼月はすぐに首を横に振りました。
「いや、いい。機動力を優先したい」
蒼月は、会議室にいる者たちを順に見ました。
「ラシード、リリア、アステル、ガレス。それから、リリアの護衛と補助に、エレナとミラが来い」
名を呼ばれた者たちの表情が、それぞれに引き締まりました。
蒼月は、アステルへ視線を向けました。
「神殿まで、どれほどの距離がある」
アステルは、少し考えてから答えました。
「王都からであれば、馬車で数日はかかります。正確な場所も分かっています」
「ならば、急ぐ必要はないな」
蒼月は、短くそう言いました。
「準備もあるだろう。全員を連れて、私の知らぬ場所へ直接飛ぶことはできぬ。一度、場所を確かめる必要がある」
会議室にいる者たちが、頷きました。
蒼月は、もう一度、名を呼んだ者たちを見渡しました。
「それなら、出発は三日後でよいか」
「分かりました。急ぎ準備いたします」
アステルが、すぐに答えました。
蒼月は頷き、そこで話を切りました。
「では、このまま地下神殿へ行く」
地下神殿へ下りたのは、リリア、ラシード、アステル、そして蒼月でした。
リリアは、ラシードに抱きかかえられたまま、周囲を見つめていました。
蒼月は、地下神殿の奥に据えられた転送機の前で足を止めました。
古い石と金属で組まれたその装置は、長い年月を経てなお形を保っていましたが、内部を巡るはずの魔力はほとんど感じられませんでした。
蒼月は、転送機を見上げます。
「壊れているな」
アステルが、すぐに装置へ近づきました。
「使えるようになりますか」
「魔石があればな」
その言葉を受け、アステルは急ぎ、呪い解除に使われていた魔石を取りつけました。
けれど、魔石そのものの魔力はすでに枯渇しており、転送機は何の反応も示しませんでした。
蒼月が、手をかざしました。
その掌から淡い光が流れ込み、魔石の奥に眠っていた筋が、ゆっくりと輝きはじめます。
枯れていたはずの魔石に魔力が満ち、転送機の表面を走る古い紋様が、かすかに光を帯びました。
「これで使える」
蒼月は、光の戻った魔石を見つめたまま言いました。
「魔石は、もうないのか」
アステルが、眉を寄せます。
「現在、確認できているものはありません」
「どこかに隠されていないか。予備があるはずだ」
蒼月の声には、確信がありました。
千年前、この転送機が当たり前に使われていた時代を知る者の言葉でした。
そうして、蒼月は呪いが解かれた最奥の石室へ向かいました。
石室には、今もなお古い陣の名残が残っていました。
かつて蒼月を縛っていた黒い鎖は、もうありません。
蒼月は、陣の前で足を止めました。
「ソフィア……」
こぼれた名は、ひどく静かでした。
蒼月はゆっくりと身を屈め、陣に手を当てます。
その横顔には、懐かしさと、どうしようもない愛しさが滲んでいました。
蒼月は、ゆっくりと手を離しました。
それから、何かを確かめるように石室の壁へ近づきます。
「蒼月?」
リリアが、ラシードの腕の中から小さく呼びました。
蒼月は答えず、壁に手を当てました。
指先が、古い石の継ぎ目をなぞるように動いていきます。
石に残されたソフィアの術式の癖を、指先で辿っているようでした。
やがて、ある一点で蒼月の手が止まりました。
「ここだな」
蒼月が、壁の一部を押し込むと、かすかな音が石室に響きました。
カチリ、と乾いた音がして、何もなかったはずの壁に細い線が走ります。
次の瞬間、石壁の一部が沈み、奥へ続く扉が現れました。
アステルが、息を呑みました。
「隠し扉……」
「だな」
蒼月は短く答え、扉を開きました。
その奥には、小さな石棚がありました。
長い年月を越えて守られてきたように、淡い光を宿した魔石が数個、並んでいました。
蒼月は、石棚に並んだ魔石へ手を伸ばしました。
指先が触れた瞬間、淡い光が魔石の奥で揺れます。
蒼月は、一つずつ確かめるように魔力を込めていきました。
枯れかけていた魔石の内側に、静かな光が満ちていきます。
それは強く弾けるような光ではなく、長い眠りから目覚めるような、柔らかな輝きでした。
アステルは、その様子を食い入るように見つめていました。
「これで、しばらくは使えるだろう」
そう言って、蒼月は魔石の一つを手に取りました。
淡い光を宿したそれを、ラシードに抱かれているリリアへ差し出します。
リリアは、少し驚いたように蒼月を見ました。
「ラシードが運んでくれた魔石のおかげで、私の呪いは解けた。返すぞ」
蒼月の声は、いつもと変わらず淡々としていました。
けれど、その言葉には確かな感謝がありました。
リリアは、ラシードに代わるように、両手で魔石を受け取りました。
ラシードは、リリアを抱いたまま、魔石にちらりと視線を落とします。
「おう」
短い返事でした。
けれど、その声は、どこか柔らかく響きました。
蒼月は小さく頷き、残りの魔石へ視線を戻しました。
「他は好きに使え」
アステルは頷きましたが、その視線はまだ魔石から離れていませんでした。
古い時代の魔石。
しかも、蒼月の魔力で満たされたものです。
研究者としての興味を抑えきれないのが、ありありと分かりました。
蒼月は、そこでようやくアステルを見ました。
「分解するなよ」
「……しません」
少しだけ間を置いて返されたその声に、ラシードが小さく笑いました。




