第八十三話 千年前 呪い
十年を超える戦いは、私たちから多くのものを奪っていった。
戦いが始まった頃には若かった兵たちも、今では顔に深い皺を刻んでいた。
戦火に焼かれた国土は、幾つも荒れ果てたままだった。
それでも、私とソフィア、そしてヴァイドは、戦線の最前に立ち続けた。
「今度こそ、終わらせる」
最終決戦の前夜、ソフィアはそう言って剣を磨いていた。
その横顔には、もう出会った頃の可憐さの欠片もなかった。
けれど、私にとっては、その方がずっと好ましかった。
「勝算は」
「五分」
ソフィアは、あっさりと言った。
「でも、あなたたちと三人なら、五分で十分だよ」
ヴァイドは、何も言わず、剣の柄を確かめるように握り直していた。
私は、それに何も返さなかった。
けれど、その言葉を、確かに信じていた。
翌朝、私たちは魔王の本拠へ攻め入った。
黒く渦巻く瘴気の中心、そこに、ずっと追い続けてきた存在がいた。
「あれほど、隠していたのに。まさか大地が下りてくるとはな」
魔王の声が、苦々しく響いた。
その声には、これまでの余裕がなかった。
巧妙に隠し続けてきたはずの計画が、狂い始めている。
その事実に、魔王自身が苛立っているのが分かった。
戦いは、これまでのどの戦闘よりも苛烈だった。
魔王の瘴気は、触れるだけで兵たちを蝕んだ。
私とヴァイドは、その瘴気を斬り払いながら、前へ前へと道を切り開いた。
「アルヴァン、道を空けて」
ソフィアの声に、私は頷いた。
封印の術は、彼女の役目だった。
ソフィアの浄化の力と、彼女が積み重ねてきた古の言葉だけが、魔王を封じることができる。
私とヴァイドの役目は、その詠唱が終わるまで、彼女を魔王の力から守り抜くことだった。
「始める」
ソフィアが、両手を掲げた。
古い言葉が、一節、また一節と紡がれていく。
床に、幾重にも重なった光の陣が広がり始めた。
長い詠唱だった。
一節ごとに、光の陣は複雑さを増し、魔王を包む輪が少しずつ狭まっていく。
「させるか」
私は、迫る瘴気の腕を斬り払った。
ヴァイドも、ソフィアの反対側から迫る影を、次々と薙ぎ払っていく。
「もう少しだ」
ソフィアの声が、震えながらも途切れずに続いていた。
詠唱の言葉が、佳境に近づいていく。
陣の光が、いよいよ魔王の身体を包み込もうとしていた。
「終わりだ」
私がそう告げた、その時だった。
「まだだ」
魔王が、最後の力を振り絞るように、黒い瘴気の塊を放った。
狙いは、ソフィアだった。
「――ソフィア!」
私が叫んだ時には、黒い塊はすでにソフィアの目前まで迫っていた。
彼女は、詠唱を止めることができなかった。
今、口を止めれば、これまでのすべてが水泡に帰す。
私は、瘴気とソフィアの間に、身体を割り込ませた。
狙いを外れた黒い塊が、代わりに私の身体へ突き刺さる。
それでも、彼女は詠唱を止めなかった。
止めれば、私が受けた傷すら、無駄になってしまう。
呪いは、思っていたよりも深く、私の中へ入り込んできた。
理を統べる者として、私はこれまで、傷というものをほとんど知らなかった。
けれど、この呪いは、私の存在そのものを、内側から作り変えようとしていた。
「終われ――!」
ソフィアの声が、最後の一節を紡ぎきった。
魔王の姿が、光の中へ封じられていく。
けれど、その代償は、あまりにも大きかった。
呪いは私の内側で受けきれず、おぞましい音を立てて四方へ弾け飛んだ。
黒い結晶となったそれは、地上のあちこちへ、そして瘴気の生まれた場所へと、まるで新たな絶望の種を蒔くように散らばっていった。
「アルヴァン!」
詠唱を終えたソフィアが、崩れ落ちる私へ駆け寄った。
ヴァイドも、遅れて私の傍らへ膝をついた。
「駄目、駄目よ。しっかりして」
私の身体は、既に人の形を保てなくなっていた。
理を統べる者としての力は、封じられ、内側へ沈んでいく。
代わりに現れたのは、銀の毛並みを持つ、一匹の狼の姿だった。
「アルヴァン……!」
ソフィアの叫ぶ声は、もうひどく遠かった。
私は、応えようとした。
けれど、言葉は出てこなかった。
獣の喉からは、低い唸り声しか出せなかった。
その声を最後に、私の意識は、深い闇の中へ落ちていった。
――現在――
蒼月は、口を開きました。
「ここから先の記憶は、私にはない」
「次に目覚めた時、私は世界樹の前にいた。自分が何者だったのか。何を失ったのか。誰の声に、手を伸ばそうとしていたのか。そのすべてを、私は忘れていた」
「あの戦いがあったことも。長い旅があったことも。ソフィアという娘が、私に名を与えたことも」
「何一つ思い出せないまま、私は獣として生きた。それを不自然だとも思わなかった。銀の毛並みを持つ狼として、世界樹の傍らにいることが、初めからそう定められていたことのように」
「やがて、あの場所を離れ、私はあてもなく彷徨い歩いた。長い長い年月を、自分が何を忘れたのかさえ知らないまま」
理や柱、眷属のことを、蒼月がすべて人へ話すことはできませんでした。
魔王のことも、柱や眷属にとっては、恥となるからです。




