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銀狼物語 ~森で出会った銀狼と紡ぐ運命の物語~  作者: ななお
第一部 第五章 千年前の真実

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第八十一話 千年前 神への懇願

――千年前――


私は、ただそこにいた。


宮の中央、理の流れを映す水鏡の前で、私は世界を見ていた。

大地に根を張る木々。

海を渡る風。

生まれ、老い、死んでいく、無数の命。

それらは、ただ理の通りに巡っているだけだった。


私に、名はなかった。

人間たちは、私のような者を「神」と呼ぶ。

けれど、その呼び名すら、私にとってはさほど意味を持たなかった。


大地を司ることが、私の役目だった。

地上に起きることのほとんどは、理の範囲内で起こる。

干ばつも、疫病も、争いも、すべては巡る理の一部だった。

だから私は、それらに心を動かされることはなかった。

美しいとも、悲しいとも思わない。

ただ、見ているだけだった。


宮を訪れる者は、めったにいなかった。

時おり姿を見せる高位の神くらいのものだった。

だから、その日、宮の門の前に人間の娘が立った時、私は少しだけ、意識をそちらへ向けた。


娘は、何日も同じ場所に立ち続けていた。

一日目、私は見ていただけだった。

二日目も、同じだった。

三日目になっても、娘はまだそこにいた。


「お願いします」


娘の声が、初めて宮の中まで届いた。


「どうか、お聞きください」


私は答えなかった。

人間の懇願など、これまで何度も聞き流してきた。

豊作を願う声。

病の治癒を願う声。

そのどれもが、理の前では取るに足らないものだった。


けれど、娘は諦めなかった。

四日目も、五日目も、雨の日も、風の強い日も、娘は宮の門の前に立ち続けた。


「瘴気が、広がっています」


その一言だけは、私の中に、わずかな引っかかりを残した。


瘴気。

本来、それは理の外側にあるはずのものだった。

理に従うならば、地上にそう易々と広がるものではない。


「国に訴えても、誰も聞いてくれません」


娘の声は、掠れていた。


「どうか、お力を」


私は水鏡の前を離れ、宮の門を開いた。

門前に立つ娘へ、初めて視線を向けた。

金の髪。

青い瞳。

人間にしては、ずいぶんと整った顔立ちをしている。

けれど、私の目を引いたのは、その容貌ではなかった。

魂の輪郭だった。


歪んでいる。

いや、歪んでいるのではない。

本来の枠から、はみ出している。


「お前」


私が初めて声を発したことに、娘は驚いたように目を見開いた。


「天零か……。名は」


娘は戸惑いながらも、すぐに姿勢を正した。


「ソフィアと申します」


私は、それ以上何も言わなかった。

けれど、娘――ソフィアは、それを拒絶とは受け取らなかったらしい。


「瘴気のことを、お調べいただけませんか」


私は、しばらく黙っていた。

本来なら、応える理由はなかった。

瘴気の広がりも、いずれ理の均衡が正すはずだった。


けれど、ソフィアは私の姿を見ても怯えなかった。

信仰に身を震わせることもなかった。

ただ、不思議そうに私を見上げているだけだった。


「理から外れた者か……」


私がそう呟くと、ソフィアは首を傾げた。


「いえ。こちらのことだ」


本来、私を目にした者は、美しいと涙し、あるいは畏れて跪く。

それが、理の定めた摂理だった。

けれど、この娘には、その色が一切見えなかった。


「お願いします」


ソフィアは、深く頭を下げた。

その姿勢を、私はしばらく見下ろしていた。

翌日も、ソフィアは同じ場所に立っていた。

その次の日も。


私は、初めて理解した。

この娘は、私が応えるまで、決してここを動かないのだと。


「……調べるだけだ」


私がそう告げた時、ソフィアの顔に浮かんだ表情を、私は今でも覚えている。

まるで、何年も探し続けていたものを、ようやく見つけたような顔だった。


「ありがとうございます」


「名は、何とお呼びすれば……」


「大地と」


呼びにくい、とソフィアは言った。


「では、勝手ながら」


ソフィアは、少し考えるように私を見た。


「アルヴァン様と、お呼びしてもよろしいですか」


なぜその響きを選んだのか、私は聞かなかった。

どうでもいいことだった。

そう思っていたはずだった。


けれど、それが私の名になった。

この娘に呼ばれたその時から、私はずっと、その名を背負っている。


私は、改めてソフィアへ視線を向けた。


「それで、瘴気というのは何だ。話せ」


ソフィアは小さく息を吸い、姿勢を正した。


「私のいる国で、瘴気の痕跡を見つけました。とてもかすかなものです。けれど、巧みに隠されていました」


その言葉に、私は意識を向けた。


「悪い予感がしたのです。だから、人に助けを求めました。けれど、誰も信じてくれませんでした」


それは、そうだろうと思った。

平和の中で、何の前触れもなく瘴気の話をされたところで、人間が信じるはずもない。


だが、問題はそこではなかった。


この私でさえ、すぐには感知できなかった瘴気を、この娘は見つけたのだ。


「瘴気が発生している原因を、一緒に調べていただけませんか」


「そうだな。それは、私の管轄だ」


私はソフィアを見下ろした。


「お前は、その場所を案内できるのか」


「はい」


ソフィアはまっすぐに頷いた。

けれど、そのあと少しだけ眉を寄せた。


「それと、私はお前ではありません」


「……」


「ソフィア・アークライトという名前があります」


私は黙ってソフィアを見た。


「ソフィアとお呼びください」


宮の中に、短い沈黙が落ちた。


人間は、面倒だ。

そう思った。


けれど、不思議と、その名を呼ぶことが不快ではなかった。


翌朝、私はソフィアを連れて宮を出ることにした。


瘴気の気配があるという場所を、彼女が示した通りに巡るためだった。


門の前で、私の眷属が待っていた。


「大地様、大地様自らが行く必要はございません。私にお任せください」


「直接確かめたい。お前は留守を守れ」


「お心のままに」


最初に訪れたのは、王都から半日ほど離れた森だった。

一見すれば、何の変哲もない森だ。

木々は青々と茂り、鳥の声も絶えない。


「本当に、ここに瘴気が」


私が問うと、ソフィアは迷わず森の奥を指した。


「はい。あの泉の底に」


私は、彼女の指す先へ視線を向けた。

理を統べる者として、私にはあらゆる歪みが見える。

けれど、その泉には、一見して何の異常も感じられなかった。


「何もないように見えるが」


「隠されているのです」


ソフィアは、確信を持った声で言った。


「巧妙に、気づかれないように」


私は、泉の水面に触れた。

理の流れを、その指先からたどっていく。

表層は、確かに何もなかった。

けれど、もっと深く、もっと奥へ。


――あった。


泉の底、地脈の奥深くに、ごく小さな瘴気の種が埋め込まれていた。

理の目からも逃れるほど、慎重に、注意深く隠されたものだった。


私は、初めて自分の判断を疑った。

これほどのものを、私が見逃していたのか。


「……本当だったのか」


「信じて、いただけましたか」


ソフィアの声には、安堵と、それ以上の何かが滲んでいた。

何日も、何十日も、誰にも信じてもらえなかった重さが、その声にはあった。


私は、しばらく黙って泉を見つめていた。

これは、理の均衡が自然に正すような、単純な歪みではない。

明確な意志を持って、埋め込まれたものだった。


「これを、誰が」


「分かりません。ですが、こうした種が、各地に隠されているように思います」


私は、ソフィアを見た。

この娘は、誰にも信じてもらえないまま、独りでここまで辿り着いた。

そして今、私の前で、まだ諦めていない目をしていた。


「調べる」


私がそう告げると、ソフィアの表情が、ようやく緩んだ。


「ありがとうございます」


「礼はいらない。これは、私の役目でもある」


大地を司る者として、この歪みを見逃していたことは、看過できることではなかった。


それから、私たちは各地を巡った。

ソフィアが感じ取る違和感を頼りに、山を越え、国境を渡り、遠い島国まで足を延ばした。

そのたびに、同じような瘴気の種が見つかった。

どれも、ごく小さく、慎重に隠されていた。


「これは、いずれ何かの形を取る」


ある夜、野営の焚火の前で、私はそう呟いた。


「形、とは」


「分からない。だが、これほど周到に隠すからには、いずれ意味を持つはずだ」


ソフィアは、焚火の向こうで、私を見ていた。


「アルヴァン様は、恐ろしいとは思わないのですか」


「理を統べる者に、恐れという感覚はない」


私がそう答えると、ソフィアは小さく笑った。


「そうですか」


その笑い方の意味を、私はその時、まだ理解していなかった。


旅を続けるうちに、ソフィアの浄化の力が、瘴気の種に反応することが分かってきた。

彼女が手をかざすと、隠された種は、わずかにその輪郭を露わにした。

私一人では気づけなかったものが、ソフィアと共にいることで、見えるようになっていった。


「ソフィアがいなければ、これらを見つけることはできなかっただろう」


何の気なしに私がそう言うと、ソフィアは目を見開いた。


「アルヴァン様に、そう言っていただけるとは思いませんでした」


「事実を言ったまでだ」


「それでも」


ソフィアは、嬉しそうに目を細めた。


「嬉しいです」


私は、その表情の意味を、まだ知らなかった。

ただ、理の外側にあるはずのその感情を、なぜか無視できずにいた。


種を追い続けて、幾つもの季節が過ぎた。

私たちは、確信していた。

これは、遠くない未来に、大きな災厄となる。


「これを止めるには、根を絶たなければならない」


私がそう告げると、ソフィアは頷いた。


「はい。どこにあるとしても、私は最後まで、あなたと共に参ります」


その声に迷いはなかった。

理を統べる者として、私はただ理を見てきただけだった。

けれど、この娘は、自らの意志で、この歪みに立ち向かおうとしていた。


私は、その姿を、しばらく見つめていた。

それが何を意味するのか、私はまだ、正しく理解していなかった。

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