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銀狼物語 ~森で出会った銀狼と紡ぐ運命の物語~  作者: ななお
第一部 第五章 千年前の真実

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第八十話 天零

翌日、ラシードと蒼月は、リリアの様子を確かめるため、離宮の部屋を訪れていました。

蒼月の術が効いたのか、リリアは前日よりも顔色がよく、自分の足で起き上がれるほどになっていました。


庭の小卓には、温かな茶と小さな焼き菓子が並べられています。

リリアとラシード、そして人の姿をした蒼月は、小卓を囲むように座っていました。


リリアは、目の前にいる青年をじっと見つめます。

銀の髪。

蒼い瞳。

その静かな眼差しの奥には、ずっと自分のそばにいてくれた銀狼の面影がありました。


「本当に、蒼月なのよね」


蒼月は、頷きました。


「そうだ」


その声を聞いた瞬間、リリアの瞳が揺れました。

何度も確かめ、何度も信じようとして、それでもまだ夢を見ているようでした。

けれど、今、目の前にいるのは間違いなく蒼月なのだと、ようやく心が追いついたのでしょう。

リリアの頬を、涙が一筋こぼれました。


「よかった……本当に、よかった」


声が震えていました。

それでもリリアは、泣きながら微笑みます。


「これで、自由になれるね」


蒼月は、目を細めました。

その言葉を聞くために、どれほど長い時を待ったのでしょう。

リリアには分かりきらないほどの時間が、その沈黙の中にありました。


けれどリリアは、すぐに目元を拭い、小さく息をつきました。


「でも、本当にびっくりしたわ。突然、人の姿になるんですもの……」


言いかけて、リリアの頬がふわりと赤く染まりました。

初めてその姿を目にしたときの光景が、どうしても頭をよぎってしまったのです。


ラシードが、すぐさま口を挟みました。


「リリア、それは忘れろ」


リリアは、はっとして顔を上げました。


「何も言ってません」


「見れば分かる」


ラシードが呆れたように言うと、リリアはさらに頬を赤くしました。


蒼月は、そんな二人のやり取りを見ていました。

少しだけ首を傾け、それからリリアへ向き直ります。


「リリア、抱き上げてもいいか」


「えっ」


リリアが答えきるより早く、蒼月は椅子の横へ回りました。

次の瞬間、リリアの身体がふわりと宙に浮きました。

驚くほど自然に、けれど壊れものを扱うような丁寧さで、蒼月がリリアを抱き上げていたのです。


銀の毛並みではなく、人の腕に抱かれている。

衣越しに伝わる体温と、すぐ近くにある蒼月の顔に、リリアの胸が思わず高鳴りました。


「おまえ!!」


ラシードが椅子を蹴るようにして立ち上がり、リリアを取り返そうと手を伸ばします。

けれど蒼月は、身を引いてそれをかわしました。


蒼月はリリアを抱えたまま、どこか得意げにラシードを見ています。

その腕はリリアを落とすまいと大切そうに支えていました。

こうして人の姿でリリアを抱き上げることを、蒼月はどれほど望んでいたのでしょう。


ラシードの眉間に、深い皺が寄りました。


リリアは二人の間で目を瞬かせ、それから困ったように笑います。


「私は、ものじゃありません」


その声に、ラシードも蒼月も動きを止めました。


リリアは蒼月の腕の中で、息を吐きます。

温かな陽射し。

茶の香り。

目の前で張り合う二人。

その光景が、あまりにも穏やかで、あまりにも信じがたいものでした。


「ふふふ」


小さな笑い声が、庭にこぼれました。


「こんな日が来るとは、思わなかったわ」


リリアの声は、涙のあとを残したまま、春の光のように柔らかく響いていました。


蒼月は、リリアを地面へ下ろすと、ラシードが見ているのも構わず、リリアへ顔を寄せます。


すぐ近くにある蒼い瞳に、リリアは思わず引き込まれました。


その瞬間、ラシードが蒼月の襟元を後ろから引きました。


「なんだよ」


蒼月が、不服そうに振り返ります。


「おまえ」


ラシードの声が低くなりました。


「いつもやってただろう」


蒼月は、当然のように言いました。


リリアが、小さく息を呑みます。


「あっ……」


リリアは片手を頬に添え、みるみる頬を赤くしました。

狼の姿だった蒼月が顔を寄せてくることは、これまで何度もありました。

けれど、人の姿になった蒼月に同じ距離まで近づかれると、まるで意味が違ってしまいます。


「だから距離感を保てって言ってるんだよ」


ラシードが、噛みしめるように言いました。


蒼月は、少しだけ目を伏せます。


「すまん。少し、獣でいた時期が長すぎたのかもしれない」


しおらしい声でした。

けれど次の瞬間、蒼月はラシードからは見えない角度で、リリアにだけ向けて、ほんの少し舌を出しました。

それは、銀狼の頃には決して見せなかった、ひどく人間らしい悪戯の顔でした。


リリアは目を丸くしました。


「蒼月!!」


その声に、蒼月はとうとう堪えきれなくなったように笑い出しました。


「あはははは」


ラシードが、ますます眉間に皺を寄せます。

けれどリリアは、頬を赤くしたまま、困ったように蒼月を見つめました。

そんなふうに笑う蒼月を見るのは初めてで、怒る言葉がうまく出てこなかったのです。


それから三人は、もう一度小卓を挟んで向かい合いました。

先ほどまでの騒がしさが少し落ち着くと、庭には茶の香りと、葉を揺らす小さな風の音が戻ってきます。


やがて、蒼月は真剣な顔つきになりました。


「二人に、話しておきたいことがある」


「なんだ」


「これは大切なことだ」


蒼月は、リリアとラシードを順に見ました。


「二人は天零だ」


「天零……?」


「天の理から、零れ落ちるように生まれるものだ。本来なら定められた範囲に収まるはずの魂や器が、その枠を越えて生まれてくることがある」


リリアとラシードは、顔を見合わせました。


「普通の人や動物は、理が定めた範囲内の能力や外見を持って生まれてくる。だが、ごく稀に、その範囲を越えた人や動物が生まれるのだ。そのように生まれた者は、容姿も魂も美しい」


「容姿も、魂も……?」


リリアが瞬きをします。


「そうだ。そして、ほかの者より、私から受ける魅了の影響が薄い」


茶の湯気が、卓の上で崩れました。


「本来、生き物は神を目にすると、美しいとか、信仰したいとか、そういう感情が自然と芽生えてしまう。神の意志とは関係なく、ただそこにいるだけで及ぼしてしまう影響だ。私も、衣などである程度は抑えているが、完全に消すことはできない」


「だが、天零として生まれた者は、その影響を受けにくい。だから、理の流れにも完全には染まりきらないのだ」


蒼月の声は、淡々としていました。


「天零には、私の魅了を受けにくいことのほかにも、いくつか特徴がある。リリアは浄化と魔力、ラシードは身体能力と魔力が高いだろう」


二人が頷くのを、蒼月は確かめました。


「そして、正しく力を使い、訓練を重ねれば、あらゆる面で他の者より優れた力を発揮する」


リリアは、少しだけ顔を上げました。


「じゃあ、私ももっと力を使えるのですか」


蒼月の表情が、そこで静かに変わりました。


「リリア。私のせいで、その才能を伸ばすこともできず、生命力や魂までも削らせてしまってすまない」


蒼月は、真剣な顔でリリアを見つめました。


「リリアは、力が成熟する前に、無理やり魂の力を引き出してしまった」


その声は、先ほどよりも慎重で、どこか痛みを堪えるようでもありました。


「もともと、天零の者は魂そのものが強い。だが、もうこれ以上は無理に使ってはいけない」


蒼月は、息を吐きました。


「私にできる限りを尽くす」


蒼月は、続けて二人へ告げました。


「それから、天零であることは、むやみに人へ話さないほうがいい。その力を知れば、利用しようとする者も現れるだろう」


リリアは、ゆっくりと視線を落としました。

使える力がある。

けれど、使ってはいけない。

そして、その力を利用しようとする人の悪意にも、気をつけなければならない。

いくつもの重い言葉が同時に胸へ落ちてきて、すぐには言葉になりませんでした。


その沈黙を破ったのは、ラシードでした。


「……アステル様が聞いたら、飛びつきそうだな」


蒼月は、頷きました。


「飛びつくだろうな」


リリアも、少しだけ表情を緩めました。


「そうですね」


「天零は、あまりにも稀すぎて、記録にもほとんど残っていない。人の学者が気づけなくても無理はない」


蒼月がそう付け加えると、三人は自然と笑いました。

その笑い声は、春の光の中で、重い話の影を少しだけ遠ざけました。


笑い声が収まった頃、蒼月はリリアの様子を確かめるように見つめました。


「リリア。ほかにも聞きたいことがあれば、何でも聞いてくれ」


リリアは、膝の上で指を重ねました。

聞きたいことは、いくつもあります。

けれど、最初に口にしたいことは一つだけでした。


「蒼月は、なぜ呪われてしまったの?」


蒼月の目が揺れました。


「蒼月は、人が神と呼ぶ存在だと聞いたわ。それなのに、どうして……」


蒼月は、リリアから目をそらしました。


「それか」


短くこぼされた声に、リリアが瞬きをします。

蒼月は困ったように眉を寄せました。


「それは、すごく長くなるから、少し面倒だな」


すぐに、ラシードが半眼で蒼月を見ました。


「おまえ、それを皆の前で話すとか言ってなかったか」


「そうだな」


蒼月は頷きました。

先ほどまで浮かんでいた悪戯めいた色が消え、その瞳は遠い時を映しているようでした。


「それに、リリアやこの世界に、謝らなければならないこともある」


「だから、しょうがないな」


その言葉の奥に、長く抱えてきたものがあることだけは、リリアにも伝わりました。


「では、皆を集めてくれないか」


ラシードが頷きました。


「明日、皆に話そう。そのことは、リリアもそこで聞いてくれ」


リリアは、今すぐにでも聞きたい思いを胸の内に収めました。

蒼月が皆の前で話すべきことだと言うのなら、自分一人だけが先に聞くべきではないのだと分かったからです。


「……分かったわ」


リリアが頷くと、蒼月は少しだけ表情を緩めました。

けれど明日、蒼月は語らなければなりません。

自分が呪われた理由を。

そして、この世界に何を背負わせてしまったのかを。


翌日、王宮の会議室には、蒼月の言葉を聞くためにアレクシス王をはじめ、主だった者が集められ席を連ねていました。

蒼月が口を開くと、会議室は水を打ったように静まり返りました。


「私は、この姿になって全てを思い出した」


その声は低く、けれど会議室の隅々まで届きました。

先日まで銀狼の姿でリリアの傍らにいた存在が、今は人の姿でそこに立っています。

その事実だけでも、誰もが言葉を失うには十分でした。


蒼月は、ゆっくりと視線を伏せました。


「皆に謝らなければならない。本来なら、この世界の全てに」


重すぎる言葉でした。

誰か一人へ向けた謝罪ではありません。

この場にいる者たちだけへ向けられたものでもありません。

千年という時の奥に沈んでいた何かが、その一言で、形を持ちはじめたようでした。


「なぜですか」


かすれた声で、問いかける者がいました。

それは、あまりにも大きなものを前にして、理由を求めずにはいられない声でした。


蒼月はしばらく沈黙し、それから口を開きました。


「それは、千年前の人が言う魔王との戦いまでさかのぼる」


その言葉とともに、会議室の空気が変わりました。

今この場所にあったはずの灯りも、机も、人々の息遣いも、遠い記憶の底へ沈んでいくようでした。

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