第七十九話 揺らぐ灯を抱いて
蒼月とラシードは、蒼月の言う宮から戻った翌日、リリアの部屋を訪ねていました。
リリアは、浅く速い呼吸を繰り返しながら、寝台に横たわっていました。
蒼月は、人の姿のまま、そんなリリアを見つめています。
静かで、優しく、痛いほど深い案じる思いを宿したその眼差しは、間違いなく蒼月そのものでした。
「少し、楽にしてやる」
蒼月がリリアの胸元へ手をかざすと、低く静かな声が紡がれました。
「大地の理よ。細き命脈をたどり、失われた温もりを巡らせよ。乱れし息を鎮め、この身に今ひとときの力を返せ」
息苦しそうに揺れていた呼吸が、落ち着きました。
そして、蒼月は目を閉じ、リリアの魂へ意識を澄ませます。
そこにあった光は、今にも消えそうな蝋燭の火のように、弱く揺らいでいました。
「大地の理よ。この魂を包み、失われゆく灯を、今ひととき、この世につなぎとめよ」
蒼月はその魂の灯が散ってしまわないよう、薄い膜で包み込みます。
消えようとする魂を、完全に止めることはできません。
ラシードが、低く問いかけました。
「何をした」
蒼月は、リリアから手を離さないまま答えました。
「体力は戻した。じきに元気になるだろう。それとは別に、魂が散っていく速度を、少しだけ遅らせた……」
そこで、蒼月の声は途切れました。
喉の奥で、言葉にならないものだけが沈んでいきます。
リリアが目覚めると、セシリアが背を支え、寝台の上で上体を起こしました。
蒼月が手を伸ばそうとした、その時でした。
リリアの視線は、助けを求めるようにラシードへ向けられていました。
地下神殿で、蒼月が人の姿になるところを見て、一度はたしかに「蒼月だ」と分かったつもりでした。
けれど、頭で分かっていることと、心が追いつくことは、同じではありません。
心に届く声は、蒼月のものです。
まなざしも、間違いなく蒼月のものでした。
それでもリリアの心は、目の前の青年を、まだ蒼月として受け止めきれていませんでした。
ラシードは、リリアの視線を受け止めると、蒼月へ告げました。
「蒼月、少し下がれ。リリアはまだ慣れていない」
蒼月は伸ばしかけた手を止め、何も言わず、ラシードの後ろへ下がりました。
ラシードは、リリアが眠っていた間のことを、ゆっくりと話しました。
「リリアの体調が少し落ち着いたら、蒼月から話を聞くことになっている」
リリアは小さく息を吸い、ラシードの言葉を受け止めるように頷きました。
「分かりました」
ラシードと蒼月が出ていったあと、セシリアがリリアにお茶を勧めました。
湯気の立つ茶器が、卓へ置かれます。
リリアは両手でそれを包み込み、温もりを確かめるように、ゆっくりと口へ運びました。
セシリアは、蒼月と神の宮へ赴いた時のことを話しました。
「リリア様が眠っておられる間、蒼月様は一度、ご自身の宮へお戻りになりました」
リリアは、茶器を持つ手を止めました。
「宮……?」
「はい。人の世とは異なる、神の宮だそうです」
セシリアは、あの日の光景を思い出すように、少しだけ視線を落としました。
「蒼月様は、そこで本来のお姿になられました。銀の髪でも、あの銀狼の姿でもなく……もっと、畏れ多いお姿でした」
リリアの胸が、小さく音を立てました。
「畏れ多い、とは……」
「言葉では、うまく言い表せません。ただ、そのお姿を拝見した瞬間、私は立っているだけがやっとでございました」
「セシリア……」
「蒼月様が、すぐに気にかけてくださいました。『大丈夫だ。落ち着け』と、そう仰っていただいて、ようやく我に返ることができました」
リリアは、茶器の中の水面を見つめました。
揺れるその水面に、まだ見ぬ蒼月の姿を重ねるように。
「あの宮では、時の流れも、こことは違うそうです。宮でのわずかな時の間に、こちらではもっと多くの時間が流れてしまうのだとか」
「そう、なの……」
リリアの声は、かすかに震えていました。
「セシリア。蒼月は……つらそうだった?」
セシリアは、少し言葉を選ぶように間を置きました。
「つらそう、というよりは……ご自分の力に、戸惑っておられるように見えました。人の世へ戻る支度をなさる間も、どこか遠くを見ているようなお顔をされていて」
リリアは、目を伏せました。
自分が眠っている間に、蒼月がどれほどのものを背負い、どれほどの孤独を抱えていたのか。
その一端に触れただけで、胸の奥が締めつけられるようでした。
「教えてくれて、ありがとう、セシリア」
「いいえ」
セシリアは、頭を下げました。
「リリア様が知っておくべきことだと、思いましたので」
リリアは、茶器に残ったお茶をゆっくりと飲み干しました。
その温もりが、冷えかけていた指先に、少しずつ戻っていくようでした。
扉の外では、ラシードと蒼月が並んで立っていました。
本当は、二人とも今すぐにでも部屋へ戻りたかったのです。
けれど、今のリリアには休息が必要でした。
呼ばれればすぐ戻れる場所にいながら、ただ扉の前に立ち続ける時間は、ひどく長く感じられました。
蒼月は閉じられた扉を見つめたまま、低く呟きます。
「ラシード。つまらんぞ」
ラシードは横目で蒼月を見ました。
「何がだ」
「待つだけというのは、つまらん」
「しょうがないだろ。今入ったところで、リリアを困らせるだけだ」
蒼月は眉を寄せました。
それでも、扉へ手を伸ばすことはしませんでした。
「なら、少し手合わせするか」
ラシードがそう言うと、蒼月はようやく扉から視線を外しました。
「いいぞ」
「手加減はいらん」
「それでは、ラシードが砕けてしまう」
蒼月は真顔で答えました。
ラシードは一瞬だけ黙り、それから深く息を吐きます。
「……魔力は使うな。力も、人間の範囲まで抑えろ。それでどうだ」
「よし」
蒼月は短く頷きました。
その返事だけは、妙に素直でした。
中庭に移ると、ラシードは木剣を一本、蒼月へ投げ渡しました。
蒼月はそれを受け取り、柄を握って軽く振りました。
「刃はないのか」
「リリアの部屋の前でお前に真剣なんか持たせられるか」
ラシードはそう言って、自分も木剣を構えました。
次の瞬間、乾いた音が中庭に響きます。
蒼月の踏み込みは速く、けれどまだ人の体の扱いに慣れていないせいか、動きの端々にわずかなずれがありました。
それでも、一撃は重い。
ラシードは受け止めた腕にしびれが走るのを感じながら、思わず口元を緩めました。
真正面から打ち合える相手など、そう多くはいません。
まして、遠慮なく踏み込んでくる相手となれば、なおさらでした。
「おい、今のは人間の範囲か」
「抑えている」
「どこがだ」
ラシードが低く笑うと、蒼月は不思議そうに首を傾げました。
その姿に、ラシードの胸の奥に張りついていた重さが、ほんの少しだけほどけていきます。
リリアのことを忘れたわけではありません。
けれど、剣を合わせるこの一瞬だけは、余計な考えが削ぎ落とされていました。
気づけば、中庭の端には人が集まり始めていました。
侍女や女官たちは、息をひそめるように二人を見つめています。
騎士や兵たちでさえ、足を止めていました。
褐色の肌にしなやかな体躯を持つラシードと、銀の髪を揺らして木剣を構える蒼月。
あまりに異なる二人が、同じ間合いの中で打ち合う姿から、誰も容易に目を離すことができませんでした。
ひとしきり打ち合いが終わると、中庭の端から拍手が湧きました。
蒼月は木剣を下ろし、ラシードをまっすぐに見ました。
「お前、すごいな」
その声には、飾り気のない感心がありました。
「人の身で私とこれだけ打ち合える者は、そうそういないぞ」
ラシードは肩で息をしながら、蒼月を見返しました。
「でもおまえ、全然実力を出してないだろ」
「まあ、そうだな。だが、人の身として見れば十分だ」
その夜、蒼月は長椅子に腰掛け、窓の外に瞬く星を見つめていました。
私は、ずいぶん変わってしまったな。
胸の内に浮かんだ言葉は、静かな夜の底へ沈んでいきました。
本来、私は人にも、地上に起きる出来事にも、ほとんど興味を持たない存在でした。
ただ、理のとおりに世界が巡っているかを見ているだけでした。
千年前に訪ねてきた、あやつのせいで、私は人に、そして地上に深く関わることになってしまった。
そして、リリアに出会った。
そのことには、感謝すべきなのかもしれない。
だが、本来、一人の者に執着しないはずの存在が、一人の者に執着してしまったら。
その者を失った時、私はどうなるのだろう。
だからこそ、私は人と深く交わってはならない。
そういう理が、初めから定められていた。
リリアの残された寿命を受け入れ、あの男に託し、私は宮へ帰るべきなのだろうか……。
蒼月は、首を振りました。
違う。
まだ、宮へ帰るわけにはいかない。
この瘴気と魔物の因果は、私が千年前に生んでしまったものだ。
これを片づけずに、宮へ戻ることなどできない。
リリアの命を削ってまで救われた命なら。
呪いを解かれ、再びこの姿を得たのなら。
その代償には、私が応えなければならない。
そして、リリアが愛したこの世界も守らなければならない。
リリアとの魂の繋がりによって、リリアが愛しているものは、いつの間にか私の内側にも流れ込んでいた。
彼女が大切に思う人々。
彼女が守りたいと願った場所。
そのすべてが、今では私にとっても、どうでもいいものではなくなっていた。




