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銀狼物語 ~森で出会った銀狼と紡ぐ運命の物語~  作者: ななお
第一部 第五章 千年前の真実

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第七十九話 揺らぐ灯を抱いて

蒼月とラシードは、蒼月の言う宮から戻った翌日、リリアの部屋を訪ねていました。


リリアは、浅く速い呼吸を繰り返しながら、寝台に横たわっていました。

蒼月は、人の姿のまま、そんなリリアを見つめています。

静かで、優しく、痛いほど深い案じる思いを宿したその眼差しは、間違いなく蒼月そのものでした。


「少し、楽にしてやる」


蒼月がリリアの胸元へ手をかざすと、低く静かな声が紡がれました。


「大地の理よ。細き命脈をたどり、失われた温もりを巡らせよ。乱れし息を鎮め、この身に今ひとときの力を返せ」


息苦しそうに揺れていた呼吸が、落ち着きました。


そして、蒼月は目を閉じ、リリアの魂へ意識を澄ませます。

そこにあった光は、今にも消えそうな蝋燭の火のように、弱く揺らいでいました。


「大地の理よ。この魂を包み、失われゆく灯を、今ひととき、この世につなぎとめよ」


蒼月はその魂の灯が散ってしまわないよう、薄い膜で包み込みます。

消えようとする魂を、完全に止めることはできません。


ラシードが、低く問いかけました。


「何をした」


蒼月は、リリアから手を離さないまま答えました。


「体力は戻した。じきに元気になるだろう。それとは別に、魂が散っていく速度を、少しだけ遅らせた……」


そこで、蒼月の声は途切れました。

喉の奥で、言葉にならないものだけが沈んでいきます。


リリアが目覚めると、セシリアが背を支え、寝台の上で上体を起こしました。

蒼月が手を伸ばそうとした、その時でした。

リリアの視線は、助けを求めるようにラシードへ向けられていました。

地下神殿で、蒼月が人の姿になるところを見て、一度はたしかに「蒼月だ」と分かったつもりでした。

けれど、頭で分かっていることと、心が追いつくことは、同じではありません。

心に届く声は、蒼月のものです。

まなざしも、間違いなく蒼月のものでした。

それでもリリアの心は、目の前の青年を、まだ蒼月として受け止めきれていませんでした。


ラシードは、リリアの視線を受け止めると、蒼月へ告げました。


「蒼月、少し下がれ。リリアはまだ慣れていない」


蒼月は伸ばしかけた手を止め、何も言わず、ラシードの後ろへ下がりました。


ラシードは、リリアが眠っていた間のことを、ゆっくりと話しました。


「リリアの体調が少し落ち着いたら、蒼月から話を聞くことになっている」


リリアは小さく息を吸い、ラシードの言葉を受け止めるように頷きました。


「分かりました」


ラシードと蒼月が出ていったあと、セシリアがリリアにお茶を勧めました。


湯気の立つ茶器が、卓へ置かれます。

リリアは両手でそれを包み込み、温もりを確かめるように、ゆっくりと口へ運びました。


セシリアは、蒼月と神の宮へ赴いた時のことを話しました。


「リリア様が眠っておられる間、蒼月様は一度、ご自身の宮へお戻りになりました」


リリアは、茶器を持つ手を止めました。


「宮……?」


「はい。人の世とは異なる、神の宮だそうです」


セシリアは、あの日の光景を思い出すように、少しだけ視線を落としました。


「蒼月様は、そこで本来のお姿になられました。銀の髪でも、あの銀狼の姿でもなく……もっと、畏れ多いお姿でした」


リリアの胸が、小さく音を立てました。


「畏れ多い、とは……」


「言葉では、うまく言い表せません。ただ、そのお姿を拝見した瞬間、私は立っているだけがやっとでございました」


「セシリア……」


「蒼月様が、すぐに気にかけてくださいました。『大丈夫だ。落ち着け』と、そう仰っていただいて、ようやく我に返ることができました」


リリアは、茶器の中の水面を見つめました。

揺れるその水面に、まだ見ぬ蒼月の姿を重ねるように。


「あの宮では、時の流れも、こことは違うそうです。宮でのわずかな時の間に、こちらではもっと多くの時間が流れてしまうのだとか」


「そう、なの……」


リリアの声は、かすかに震えていました。


「セシリア。蒼月は……つらそうだった?」


セシリアは、少し言葉を選ぶように間を置きました。


「つらそう、というよりは……ご自分の力に、戸惑っておられるように見えました。人の世へ戻る支度をなさる間も、どこか遠くを見ているようなお顔をされていて」


リリアは、目を伏せました。

自分が眠っている間に、蒼月がどれほどのものを背負い、どれほどの孤独を抱えていたのか。

その一端に触れただけで、胸の奥が締めつけられるようでした。


「教えてくれて、ありがとう、セシリア」


「いいえ」


セシリアは、頭を下げました。


「リリア様が知っておくべきことだと、思いましたので」


リリアは、茶器に残ったお茶をゆっくりと飲み干しました。

その温もりが、冷えかけていた指先に、少しずつ戻っていくようでした。


扉の外では、ラシードと蒼月が並んで立っていました。

本当は、二人とも今すぐにでも部屋へ戻りたかったのです。

けれど、今のリリアには休息が必要でした。

呼ばれればすぐ戻れる場所にいながら、ただ扉の前に立ち続ける時間は、ひどく長く感じられました。


蒼月は閉じられた扉を見つめたまま、低く呟きます。


「ラシード。つまらんぞ」


ラシードは横目で蒼月を見ました。


「何がだ」


「待つだけというのは、つまらん」


「しょうがないだろ。今入ったところで、リリアを困らせるだけだ」


蒼月は眉を寄せました。

それでも、扉へ手を伸ばすことはしませんでした。


「なら、少し手合わせするか」


ラシードがそう言うと、蒼月はようやく扉から視線を外しました。


「いいぞ」


「手加減はいらん」


「それでは、ラシードが砕けてしまう」


蒼月は真顔で答えました。

ラシードは一瞬だけ黙り、それから深く息を吐きます。


「……魔力は使うな。力も、人間の範囲まで抑えろ。それでどうだ」


「よし」


蒼月は短く頷きました。

その返事だけは、妙に素直でした。


中庭に移ると、ラシードは木剣を一本、蒼月へ投げ渡しました。

蒼月はそれを受け取り、柄を握って軽く振りました。


「刃はないのか」


「リリアの部屋の前でお前に真剣なんか持たせられるか」


ラシードはそう言って、自分も木剣を構えました。

次の瞬間、乾いた音が中庭に響きます。

蒼月の踏み込みは速く、けれどまだ人の体の扱いに慣れていないせいか、動きの端々にわずかなずれがありました。

それでも、一撃は重い。

ラシードは受け止めた腕にしびれが走るのを感じながら、思わず口元を緩めました。

真正面から打ち合える相手など、そう多くはいません。

まして、遠慮なく踏み込んでくる相手となれば、なおさらでした。


「おい、今のは人間の範囲か」


「抑えている」


「どこがだ」


ラシードが低く笑うと、蒼月は不思議そうに首を傾げました。

その姿に、ラシードの胸の奥に張りついていた重さが、ほんの少しだけほどけていきます。

リリアのことを忘れたわけではありません。

けれど、剣を合わせるこの一瞬だけは、余計な考えが削ぎ落とされていました。


気づけば、中庭の端には人が集まり始めていました。

侍女や女官たちは、息をひそめるように二人を見つめています。

騎士や兵たちでさえ、足を止めていました。

褐色の肌にしなやかな体躯を持つラシードと、銀の髪を揺らして木剣を構える蒼月。

あまりに異なる二人が、同じ間合いの中で打ち合う姿から、誰も容易に目を離すことができませんでした。


ひとしきり打ち合いが終わると、中庭の端から拍手が湧きました。

蒼月は木剣を下ろし、ラシードをまっすぐに見ました。


「お前、すごいな」


その声には、飾り気のない感心がありました。


「人の身で私とこれだけ打ち合える者は、そうそういないぞ」


ラシードは肩で息をしながら、蒼月を見返しました。


「でもおまえ、全然実力を出してないだろ」


「まあ、そうだな。だが、人の身として見れば十分だ」



その夜、蒼月は長椅子に腰掛け、窓の外に瞬く星を見つめていました。


私は、ずいぶん変わってしまったな。


胸の内に浮かんだ言葉は、静かな夜の底へ沈んでいきました。


本来、私は人にも、地上に起きる出来事にも、ほとんど興味を持たない存在でした。

ただ、理のとおりに世界が巡っているかを見ているだけでした。


千年前に訪ねてきた、あやつのせいで、私は人に、そして地上に深く関わることになってしまった。

そして、リリアに出会った。

そのことには、感謝すべきなのかもしれない。


だが、本来、一人の者に執着しないはずの存在が、一人の者に執着してしまったら。

その者を失った時、私はどうなるのだろう。


だからこそ、私は人と深く交わってはならない。

そういう理が、初めから定められていた。


リリアの残された寿命を受け入れ、あの男に託し、私は宮へ帰るべきなのだろうか……。


蒼月は、首を振りました。


違う。

まだ、宮へ帰るわけにはいかない。


この瘴気と魔物の因果は、私が千年前に生んでしまったものだ。

これを片づけずに、宮へ戻ることなどできない。


リリアの命を削ってまで救われた命なら。

呪いを解かれ、再びこの姿を得たのなら。

その代償には、私が応えなければならない。


そして、リリアが愛したこの世界も守らなければならない。


リリアとの魂の繋がりによって、リリアが愛しているものは、いつの間にか私の内側にも流れ込んでいた。

彼女が大切に思う人々。

彼女が守りたいと願った場所。

そのすべてが、今では私にとっても、どうでもいいものではなくなっていた。


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